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2015年6月19日 (金)

コンサートの記(196) 下野竜也指揮京都市交響楽団第590回定期演奏会

2015年5月10日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで京都市交響楽団の第590回定期演奏会を聴く。今日の指揮者は京都市交響楽団常任客演指揮者の下野竜也。なお、京響は今年度から隔月で定期演奏会における同一演目による2回公演を行っており、この5月定期が京響定期演奏会史上初の同一演目2回公演となる。昨日1回目の演奏会があり、今日が2回目である。

曲目は、ベートーヴェンの、ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重協奏曲(「トリプル・コンチェルト」の名前で知られる。チェロ独奏:ミッシャ・マイスキー、ヴァイオリン独奏:サーシャ・マイスキー、ピアノ独奏:リリー・マイスキー。ファミリーネームが同じであることからわかる通り、実の親子による演奏である)とコリリアーノの交響曲第1番。昨年の4月で下野が宣言したとおり、比較的マニアックな演目である。

同一演目で2回演奏会があるということで、京都コンサートホールは満員にはならなかったが、このプログラムで7割程度の入りなのだから支持されていると思った方が良い。ミッシャ・マイスキーのファンが駆けつけたということも考えられる。

午後2時10分頃から下野竜也によるプレトーク。来年度の定期演奏で指揮する曲がすでに決まっているそうだが、今日よりも更にマニアックなものになるそうである。マイスキー親子に関してであるが、実の親子ということで、リハーサルなどもアットホームな感じで行われ、「ソリストとして100点」だそうである。

今日の京都市交響楽団は大曲であるコリリアーノの交響曲第1番を演奏するということで特殊な配置。ベートーヴェンではいつものドイツ式現代配置に近いが、コリリアーノの時は金管群が最後列に来る。そのためなのか、古典配置に習ったものなのか、あるいは両方なのかはわからないが、ティンパニ(中山航平)は、指揮者の正面ではなく、舞台上手側に位置する。
コンサートマスターは泉原隆志、フォアシュピーラーに渡邊穣。フルート首席奏者の清水信貴、オーボエ首席の高山郁子、クラリネット首席の小谷口直子はコリリアーノの時のみの出演。ベートーヴェンでオーボエ首席の位置に座ったフロラン・シャレールは後半は出ないことも多いのだが、今日はコリリアーノの時もサード奏者として出演する。金管は私の座った席からは見えなかったのだが、トランペット首席奏者のハラルド・ナエスがコリリアーノの時に出演していたのが、演奏終了後に立ち上がったときに髪の色でわかった(前半は、早坂宏明と稲垣路子の二人がトランペットを吹いた)。

ベートーヴェンの、ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重協奏曲。編成が特殊ということもあり、ベートーヴェンの作品の中でも取り上げられる回数の少ない作品である。私も生でこの曲を聴くのは多分二度目である。ピアノ三重奏という、室内楽ではよくある編成にオーケストラ伴奏がついたものだが、この曲の他にこうした編成で書かれた有名協奏曲は存在しない。チェロのパートが最も難しいことから、チェロの名手を想定して書かれたものと思われるのだが、どういう経緯でこの曲が書かれたのかは実はわかっていないという。

ヴィルトゥオーゾ3人によって演奏されることの多い曲だが、今日は親子による演奏ということで、室内楽的側面が強いものとなった。

チェロ独奏のミッシャ・マイスキーは現役のチェリストとしては一二を争うほどの人気奏者。ソ連時代のラトヴィア生まれだが、ユダヤ人の家系であり、姉がイスラエルに亡命したことからマイスキーは若い頃にソビエト当局によって強制収容所送りとなり、発狂を装って(佯狂/陽狂)強制収容所から抜け出し、懲罰的意味の兵役も回避したという経歴がよく知られている。経歴からだと変人系の個性派チェリストを予想しがちだが、実際は正統派とまではいかないが、王道に近いチェロを弾く奏者である。

ヴァイオリン独奏のサーシャ・マイスキーはミッシャの息子で、1989年生まれ。3歳の時にヴァイオリンを始め、イーゴリ・オイストラフという名手にも師事している。12歳でロンドンのパーセル音楽院に入学し優等で卒業。現在はウィーンでボリス・クシュニールに師事している。

ピアノ独奏のリリー・マイスキーはミッシャの娘で、パリに生まれ、ブリュッセルで育つ。4歳からピアノを始め、パーセル音楽院でクラシックの他にジャズ・ピアノも学んでいる。

下野指揮の京響はやはりピリオド・アプローチによる演奏。古典派まではすでにピリオドが当たり前の時代となったようである。ティンパニの中山航平もピリオド風の硬めの音色を鳴らす。

ミッシャ・マイスキーはスケール豊かなチェロを奏で、貫禄を見せる。サーシャのヴァイオリンもスケールは小さめだが、室内楽的なアプローチとしてはこれでも十分で音も美しい。リリーのピアノは残念ながら室内楽を意識したものだとしても迫力がなく、ペダリングが悪いためだと思うが音が団子になって聞こえる時がある。音色の魅力も今一つだ。ただ、純粋な室内楽のピアニストとしてなら活躍出来る余地は十分にある。アンコールとしてマイスキー親子はベートーヴェンのピアノ三重奏曲第4番「街の歌」より第2楽章を演奏したが、この時のリリーのピアノは協奏曲の時より良かったように思う。アンコール曲目では、親子ならではの息の合ったところも感じることが出来た。

コリリアーノの交響曲第1番。
ジョン・コリリアーノは1938年生まれの現役のアメリカの作曲家である。「エレジー(哀歌)」という小品が最もよく知られていると思うが、カナダ映画「レッド・バイオリン」の音楽でアカデミー音楽賞を受賞しており、そちらで知っている方もいるかも知れない。
抒情的な旋律とハーモニーを書く作曲家であり、哀感に満ちた音楽を得意としている。そうした点でサミュエル・バーバーの正統的な後継者ともいえる。ちなみにバーバーもコリリアーノも同性愛者であるが、そのことと音楽性に関係があるのかどうかはわからない(コリリアーノはバーバーに師事したことはない)。
バーバーの青年時代は同性愛に対する理解が今ほど進んではおらず、そのことでバーバーは苦悩したが、コリリアーノはゲイをカミングアウト出来る時代を生きており、その点ではバーバーよりも恵まれてはいるが、エイズが同性愛の病気と見做され、差別された時代を体験しており、今日演奏される交響曲第1番もエイズで亡くなった同性愛者の友人達追悼のために書かれ、以前は「エイズ・シンフォニー」というタイトルが付いていた。1990年初演の曲であるが、現代音楽としてはかなり分かり易い内容であり、近年に書かれた交響曲としては知名度は高い方である。

読売日本交響楽団とこの曲を演奏し、ライブ録音をCDとしてリリースもしている下野。現役の日本人指揮者としてはこの曲を最もよく知る人物だと思われる(コリリアーノの交響曲第1番の日本初演を指揮したのは、故・岩城宏之。「初演魔」といわれた岩城らしいエピソードである)。なお、この曲はダイナミックレンジが広いため、CDでは本当の良さは分からない。

編成は特殊。先に書いたように金管が最後列に並ぶのだが、シンメトリーの形になっており、上手端と下手端にテューバが陣取る(下手端のテューバは武貞茂夫、上手端のテューバは客演の中村一廣)。ティンパニはステージ両端に置かれる(上手のティンパニ担当は中山航平。下手のティンパニは宅間斉が叩く)。チューブラーベルズも上手端と下手端に一台ずつ置かれる。楽器の他にも鉄筋が金槌で叩かれたりと、様々な音が奏でられる。

現代音楽であるため、指揮も特殊であり、下野は指揮棒を持っていない左手の指で、1から4までを示す。奏法の変化である場合が多いのだが、指の変化でどこが変わったのかよくわからない場合もある。

メランコリックな旋律と大編成による迫力が特徴であり、基本的にこの路線の現代曲は分かり易いために支持も得やすい。4つの楽章からなるが最初の3楽章はエイズで亡くなった3人の音楽家の友人に捧げられ、第4楽章はエピローグ的なもので、3つの楽章の主題が現れる。ベートーヴェンの第九を意識したのかも知れない。

第1楽章では弦楽を中心とした哀切な響きの中に、舞台袖で弾かれるアルベニス作曲(ゴドフスキ編曲)の「タンゴ」のピアノの音が漂ってきて、亡き友人のピアニストの回想であることが伝わってくる(ピアノ:佐竹祐介。舞台上でもピアノの演奏があるため、佐竹は舞台上と袖を何度も行き来する)。

第2楽章は、アマチュアピアニストであった友人のための音楽で、曲調は次々と変化して不安定、鉄琴と木琴が大活躍する。部分的にストラヴィンスキーの「春の祭典」や「ペトルーシュカ」を意図的に模した箇所がある。強烈な一撃も特徴的。

第3楽章は最も抒情的にして哀感に満ちた楽章である。エイズで亡くなったチェリストに捧げる音楽であるため、チェロの響きで始まるが、その後に独奏チェロが主旋律を奏で始め(今日は客演首席チェロ奏者であるマーティン・スタンツェライトが独奏を担当する)、それが様々な楽器を経て、もう一人のチェリスト(特別客演首席チェロ奏者である山本裕康が演奏を受け持つ)との対話が始まる。管楽器が奏でた主題を、他の各楽器が一音ずつ出すことで再現するという面白い試みもある。

上手袖と下手袖に一台ずつ置かれたチューブラーベルズであるが、上手は木製の、下手は金属製のハンマーで叩かれるため音色に違いが出る。

第4楽章では、第1楽章で奏でられた舞台袖でのピアノによる「タンゴ」演奏がやはり印象的。この時はマンドリンも袖で奏でられる。

下野の指揮であるが、基本的には拍をきちんと振る端正なもの。指示もわかりやすい。極端な加速にリタルダンド、変拍子に複合拍子(音楽用語でポリリズム。Perfumeの楽曲で一気に有名になった)もそつなくこなす。京響のパワーも万全であった。大編成の楽曲であるため客演奏者が多く、特に大活躍する打楽器は4人もの客演奏者を招いていたが、全員腕利きであり、わずかな瑕疵はあったものの見事な演奏を展開していた。

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