信長忌 阿弥陀寺に墓参に行きました
本日6月2日は、織田信長公の命日。というわけで、上京の寺町にある阿弥陀寺で行われた信長忌に参加しました。阿弥陀寺が本堂を開けるのは毎年6月2日だけです。本堂内には織田信長公、信忠公、信広公の木造と位牌が祀られ、本能寺の変の際に信長公が使ったとされる手鑓、弓掛(弓を射る際の手袋)、木下藤吉郎秀吉や明智光秀が書いた文書なども残されています。
本来なら旧暦6月2日を信長忌とするべきですが(今日は旧暦だとまだ4月16日で、「あめがしたしる五月」もまだ来ていません)、旧暦にすると毎年日付が異なるという事態が生じますので、新暦6月2日とした方が阿弥陀寺としても参拝者としても都合が良いのだと思われます。
阿弥陀寺は「織田信長公本廟」を名乗っていますが、それは幾つかある信長公の墓の中で、唯一、信長公の遺骨が埋まっている可能性のある墓所であるためです。
二つ並んだ墓碑の右側が織田信長公、左が嫡男の織田信忠公の墓石です。右側手前に頭の部分だけ見えているのは織田(神戸)信孝公の墓石です。
本能寺の変が起こった際、蓮台野にあった阿弥陀寺の住職である清玉上人が本能寺に駆けつけます。なぜ清玉上人が本能寺に駆けつけたかというと、実は清玉上人は織田家中で育った人物だったからです。
信長の庶兄である織田信広が鷹狩りに出た際、今にも出産しようかという状態にある女と出会います。信広は医師を手配するものの、女は死亡。しかし、子供はまだ生きている可能性があるという見立てで、腹を割いてみたところ、子供は無事でした。この子が後の清玉上人です。清玉上人は織田家の一族として育てられ、信長とも当然親しかったのですが、六歳にして僧侶になると発心。京で勉学に励み、正親町天皇も一目置くという高名な僧侶になりました。正親町天皇と信長の仲介役となったのも清玉上人と言われています。
というわけで、清玉上人は信長の身内。その身内である信長に一大事と見て駆けつけた清玉上人。しかし、信長はすでに切腹していました。だが、信長の亡骸を明智光秀に渡すわけにはいかないということで、清玉上人はおそらく信長公の首だけだと思われますが、その場で火葬して本能寺を抜け出し、阿弥陀寺に戻って信長の遺骨を埋め、七条河原で首実検を行っていた明智光秀の元に向かいます。清玉上人は光秀に「本能寺と二条城での戦死者の遺骨を阿弥陀寺に葬りたい」と申し出、光秀も「さては、信長の遺骨は早清玉上人の元か」と察し、光秀も教養人であるため無理はいわずにこれを認めたと言われています。
一方、山崎の戦いで光秀を破り、信長の後継者として名乗りを上げた羽柴秀吉は、清玉上人に信長の遺骨を渡すよう要求しますが、上人がこれを拒否したため、信長の等身大の木造を二体造らせ、大々的な信長公の葬儀を誰の許可も得ずに大徳寺で勝手に執り行い(これが後に柴田勝家との諍いの原因となる)、木造の一体を焼いて(香木で造らせたため、良い香りが漂ったという)、これをもって火葬の代わりとし、大徳寺内に信長の院号を持つ総見院を創設。信長の遺骨を渡さなかった阿弥陀寺は冷遇。というのが阿弥陀寺に伝わる話です。
信長公の院号は先にも書いた通り、総見院。「総見」というのは信長の生前からの号で、「総てを見渡す」という天下人の誇りを号としたものです。また、若い頃の信長は上総介を名乗っていましたが、これも「総ての上に立つ」という天下取りへの意気込みが伝わって来ます。
信長の小姓にして、衆道の相手としても知られる森蘭丸(乱丸。成利)、坊丸(長隆)、力丸(長氏)の墓。衆道に関して史料は残っていないのですが、状況証拠はあるとされています。いずれにせよ三人とも有能な美青年として信長に取り立てられたのは事実のようで、女性ファンも多いようです。
| 固定リンク | 0
コメント