コンサートの記(224) 大野和士指揮 第53回大阪国際フェスティバル2015提携公演・東京都交響楽団創立50周年記念大阪特別公演
午後2時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、第53回大阪国際フェスティバル2015提携公演・東京都交響楽団創立50周年記念大阪特別公演を聴く。指揮は東京都交響楽団音楽監督に就任したばかりの大野和士。
都響の略称で親しまれている東京都交響楽団。東京オリンピックをきっかけに、五輪の翌年の1965年に日本で二番目の公営オーケストラ(日本初は京都市交響楽団)として結成されたが、当時は読売日本交響楽団が生まれたばかりで、東京交響楽団が破産するなど、東京のオーケストラ勢力図が変わる時期であり、「公的な団体を作って民間を圧迫するよりも、民間に補助金を出すべきだ、という話は出てくるわけです」(東京都交響楽団元事務局員・河内健次氏の証言)という世相を反映してか、第1回の演奏会である創立記念演奏会は酷評に終わっている。もっとも都響の第1回演奏会でタクトを執ったハインツ・ホフマンは、ある程度楽団員に任せるタイプの指揮者だったが、当時の都響の楽団員は演奏のプロでも合奏の経験がほとんどないという人達だったため、アンサンブルが上手くいかなかったのも当然といえば当然であった。その後、都響は都民音楽会とスクールコンクール(子供達のための学校回りの音楽鑑賞教室)の二本柱で活動して来たが、京都市交響楽団の常任指揮者であった森正の任期が切れる(この頃の京都市交響楽団は今とは違い、2~3年おきのペースで常任指揮者をコロコロ変えていた)というので、森を音楽監督・常任指揮者という称号で迎え、森が都響の初代音楽監督となる。森は「オーケストラが定期演奏会をやらないというのはナンセンス」ということで普通のオーケストラのように定期演奏を柱とする楽団へと都響を変える。
50年の歴史の中で、音楽監督は5人しかいないわけだが、それは相当の信頼を持った人しか音楽監督に置かないというスタイルを取っているためで、第2代の渡邉暁雄、第3代の若杉弘、第4代のガリー・ベルティーニ、そして大野和士と、音楽監督は大物揃いである。その他に音楽監督とまではいかなかったものの、重要なポジションにあった指揮者としては、ペーター・マーク(常任客演指揮者)、ジャン・フルネ(常任客演指揮者、名誉指揮者、没後に永久名誉指揮者)、小泉和裕(首席指揮者、終身名誉指揮者)、エリアフ・インバル(特別客演指揮者、プリンシパル・コンダクター、桂冠指揮者)、ジェームズ・デプリースト(常任指揮者)らが挙げられる。ペーター・マークやジャン・フルネは玄人好みの名指揮者として大評判であり(二人とも理由は異なるがスター街道を自分から降りてしまった指揮者である)、ジェームズ・デプリーストはマンガ「のだめカンタービレ」に登場。ドラマ版では出演もした。
エリアフ・インバルとのコンビは大人気であり、特にマーラーやブルックナー、ショスタコーヴィチの演奏は世界レベルと讃えられた。また、現在の首席客演指揮者は、1981年生まれと若く、世界的評価をすでに受けているヤクブ・フルシャであり、フルシャとの成長もまた楽しみである。
公営(一応、財団法人の運営ではある)ということで、都知事からの介入を受けやすく、青島幸男、石原慎太郎という共に同じ「文化人」の範疇にある人からも容喙されており、特に石原慎太郎は小澤征爾の友人で、N響事件以来、「オーケストラ憎し」の思いがあるのか、様々な無理難題を押しつけてきた。
そうした中にあって、都響の日本での評価は、「N響に次ぐ東京ナンバー2、日本でもナンバー2」と高く、マーラーに関しては、若杉弘、ガリー・ベルティーニ、エリアフ・インバルなどマーラーのスペシャリストと共に演奏を行ってきたため、「日本一」と評されてもおかしくないほどの充実ぶりである。
今日の都響のコンサートマスターは矢部達哉。日本のオーケストラのコンサートマスターの中でも一、二を争う程有名な人である。
前後半共にロシアもので、前半がラフマニノフのピアノ協奏曲第3番(ピアノ独奏:小山実稚恵)、後半はチャイコフスキーの交響曲第4番。
都響の5代目音楽監督に就任した大野和士は、1960年、東京生まれ。神奈川県随一の進学校である神奈川県立湘南高校を卒業(1学年下に、指揮者兼ピアニストの上岡敏之がいる)後、東京芸術大学指揮科に進学。2歳年上で友人にしてライバルである広上淳一は芸大指揮科に入るために二浪しても果たせなかったが、大野は学業優秀だったこともあり現役で合格している。そもそも芸大の指揮科の定員は2人程度でかなり狭き門である。
その後、ヨーロッパに渡り、様々な歌劇場での下積みを経て、1987年にアルトゥーロ・トスカニーニ国際指揮者コンクールで優勝。コンサート指揮者としての活動も始まり、翌88年に当時はまだユーゴスラビアの都市だったザグレブのフィルハーモニー管弦楽団の常任監督に就任。クロアチア独立後も音楽監督としてザグレブ・フィルとの活動を続けた。
ザグレブ・フィルとの活動と並行して、ヨーロッパ各地のオペラハウスで指揮を行っており、様々な指揮者に師事している。バイエルン州立歌劇場では、ウォルフガング・サヴァリッシュにも師事した。
1990年から92年まで、都響の指揮者としても活動。1992年から99年まで東京フィルハーモニー交響楽団の常任指揮者を務めている。
海外では、1996年から2002年までバーデン州立歌劇場音楽総監督、そして「オオノ」の名を世界に轟かせることになったベルギー王立歌劇場(モネ劇場)音楽監督としての活動を経て(2002-2008)、現在はフランスのリヨン国立歌劇場の首席指揮者の座にある。現在、アルトゥーロ・トスカニーニ・フィルハーモニー管弦楽団首席客演指揮者を兼ねているほか、今年の9月からはパブロ・ゴンザレスの後任としてバルセロナ交響楽団音楽監督に就任予定である。
ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番。ピアノ独奏の小山実稚恵は、実は大野和士よりも年上である。東京芸術大学卒業後、同大学院を修了。留学の経験はない。チャイコフスキー国際コンクール・ピアノ部門とショパン国際コンクールの2つのコンクールで共に入賞を果たしている、現時点では唯一の日本人ピアニストである。ピアニストとしての活動は今年で30周年を迎えた。
情熱的なピアノを弾く人であり、芸歴20年記念の時には、広上淳一を指揮者に迎えて、一晩のコンサートで幾つものピアノ協奏曲を弾くという荒技を行ったが(京都公演もあり、私は聴いている)、芸歴30年目に当たる今年も、秋にやはり広上淳一の指揮で同じようなコンサートを行うようである。今日は深紅のドレスで登場。
小山実稚恵というと、先に書いたように何よりも「情熱」という言葉が浮かぶが、ラフマニフのピアノ協奏曲第3番では、以前とは違った個性的な演奏を聴かせる。まず冒頭であるが、かなり弱めに演奏する。この曲の冒頭をこれほど弱く弾く演奏は初めて聴く。その後も、情熱よりもリリシズムを優先させた演奏が続くが、第3楽章ではいよいよ持ち前の情熱を爆発させる。小山のピアノの特徴として打鍵の強さが挙げられるのだが、強い音を出せるよう鍛えているのだと思われるが、二の腕が太い。マルタ・アルゲリッチや河村尚子などの女流名ピアニストに共通しているのが、この二の腕の太さで、二の腕が太いと腕にも共鳴して力強い音が奏でられるのである。ピアニスト・エッセイストの中村紘子は日本人女性ピアニストの弱点として「二の腕の細さ」を挙げているが、最近の女性ピアニストは二の腕の太い人が多い。二の腕が太いことは女性の容姿としてはマイナスポイントになりがちなのであるが、プロのピアニストなのだから見た目を気にしている場合ではないのだろう。
大野指揮の都響は管楽器の鳴りが良いが、弦はどうしたわけか薄め。輝きはあるのだが、大阪フィルと比較した場合、弦に厚みがない。ただ、フェスティバルホールを本拠地としている大フィルと去年に続いて2度目でしかない都響では、当然ながらホールの鳴らし方も異なってくるであろう。
喝采を浴びた小山は、アンコールとしてラフマニノフの前奏曲作品32の5を弾く。煌びやかな音色による好演であった。
チャイコフスキーの交響曲第4番。暗譜での指揮である。大野は冒頭の運命の主題を奏でた後でヴァイオリンが受け持つ主題をスローテンポにするなど個性的な表現をする。都響の技術は高く、金管、特にトランペットが優秀。弦楽もやはり少し薄くはあるが、チェロは威力があり雄弁である。
知的アプローチを売りにしている大野であるが、チャイコフスキーの交響曲の場合、作曲者が必要以上に嘆いている嫌いがあるため、ある程度突き放した解釈の方が逆にチャイコフスキーの苦悩がダイレクトに聴衆に伝わるのかも知れない。大野は分析し、作曲者に同調しすぎるため、「そこまでやると大袈裟なのではないか」という印象を受けてしまうのだ。
第3楽章と第4楽章の間にほとんど間を置かずに続けるというスタイルは納得がいく。ただ、大野の場合、細部までオーケストラを操るため、ラストにおけるチャコフスキーの狂気が逆に感じられないということにはなった。優れた演奏であったが、優れたチャイコフスキー解釈かとなると意見が分かれそうである。
拍手を受けた大野は、両手で輪を描いて拍手を鎮め、「最後にドヴォルザークのスラヴ・ダンスの8番を」と言って、ドヴォルザークのスラヴ舞曲第8番が演奏される。スラヴ人の国であるユーゴスラヴィア(その後、クロアチア)でポストを持っていた指揮者だけに、スラヴ的な曲調をよく捉えた演奏であった。
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