コンサートの記(226) 神奈川県民ホール40周年記念公演 黛敏郎 オペラ「金閣寺」2日目(楽日)
ストーリーは、溝口が今まさに金閣寺に放火しようとしている場面から始まる。そして話は溝口の過去の回想へと拡がっていく。右手が不自由な障害者(三島の原作では吃音の持ち主ということになっているが、オペラで吃音は難しいので設定を変えている)として生まれた溝口にとってこの世は修羅の場であり、己は修羅であった。そんな修羅の世にあって浄土のように超然と美しい金閣に溝口は憧れると同時に違和感を覚えていく。
そんな金閣寺の美しさは溝口の初恋の相手である有為子(意味深な名前である。演じるのは嘉目真木子)のイメージと分かちがたく結びついている。若くして亡くなった有為子は溝口にとって聖女であり、南禅寺の三門の上から見た有為に似たところのある天授庵の女(吉原圭子)に溝口は神聖なるものを感じる。後に、柏木の華道の先生であるこの女性と会った溝口ははっきりと「神聖な」という言葉を口にしている。溝口は女とことを起こそうとするが、女性を神聖視する余り不能に終わる。今ではもう女性に聖なるものを求める男性は余りいないと思うが、バブルより前にはそうした男性は相当数存在したのである。
特異といえばかなり特異な心理劇であるため、じっくりストーリーを追わないと内容が理解出来ない。「難解」とされ、上演の機会が余りないのもそのせいである。また溝口の独特のの倫理観は今後、いっそう特殊化が進むことが予想されるため、黛のオペラ「金閣寺」の上演機会が増える可能性も残念ながら低いだろう。黛敏郎の力強い音楽自体はとても優れたものなのだが、ストーリーは時の流れに抗えない。
田尾下の演出であるが、金閣寺の模型をずっと舞台上に建てておくというプランには大賛成だが、死者達に白化粧をして登場させるという演出は舞台効果を弱めているように思う。これはあくまで現世における懊悩の話なのである。死者は出来るなら出さない方がいいだろう(台本上に「死者が出る」と指定されている場面は除く)。出さない方が観客のイメージも膨らむ。
色々とあったが、上演としては大成功であったと思う。歌手達も、東京オペラシンガーズによる合唱も優れていた。そして何よりも下野竜也指揮の神奈川フィルハーモニー管弦楽団の響きが充実していた。
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