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2016年1月13日 (水)

コンサートの記(226) 神奈川県民ホール40周年記念公演 黛敏郎 オペラ「金閣寺」2日目(楽日)

2015年12月6日 横浜市中区山下町の神奈川県民ホールにて

午後3時から、横浜市中区山下町にある神奈川県民ホールで、黛敏郎のオペラ「金閣寺」を観る。今日は溝口という男の特異な心理をほぼ完全に把握することが出来た。

原作:三島由紀夫、台本:クラウス・H・ヘンネベルク、演出:田尾下哲。今日の溝口役は宮本益光。下野竜也指揮神奈川フィルハーモニー管弦楽団、東京オペラシンガーズの演奏。出演は、宮本のほかに、出演は小森の他に、黒田博、飯田みち代、高田正人(たかだ・まさと)、三戸大久(さんのへ・ひろひさ)、与那城敬(よなしろ・けい)、吉原圭子、鈴木准、谷口睦美、嘉目真木子ほか。舞台装置:幹子・S・マックスアダム。衣装:半田悦子。

ストーリーは、溝口が今まさに金閣寺に放火しようとしている場面から始まる。そして話は溝口の過去の回想へと拡がっていく。右手が不自由な障害者(三島の原作では吃音の持ち主ということになっているが、オペラで吃音は難しいので設定を変えている)として生まれた溝口にとってこの世は修羅の場であり、己は修羅であった。そんな修羅の世にあって浄土のように超然と美しい金閣に溝口は憧れると同時に違和感を覚えていく。

最初に金閣寺を見たときの印象は「思ったほどには美しくない」であったが、この世の穢れ、生臭坊主や足の障害を売りに生きている同級生の柏木などと接しているうちに、相対的に金閣寺の美しさは輝きを増していくのだった。

そんな金閣寺の美しさは溝口の初恋の相手である有為子(意味深な名前である。演じるのは嘉目真木子)のイメージと分かちがたく結びついている。若くして亡くなった有為子は溝口にとって聖女であり、南禅寺の三門の上から見た有為に似たところのある天授庵の女(吉原圭子)に溝口は神聖なるものを感じる。後に、柏木の華道の先生であるこの女性と会った溝口ははっきりと「神聖な」という言葉を口にしている。溝口は女とことを起こそうとするが、女性を神聖視する余り不能に終わる。今ではもう女性に聖なるものを求める男性は余りいないと思うが、バブルより前にはそうした男性は相当数存在したのである。

後に溝口は遊郭に出入りするようになるのだが(今回の上演では、通常はカットされる「京都遊郭のだんまりの場」が上演される)、そうした穢れた三千世界にあって、聖なる有為子と一体になった聖なる美しい金閣寺は生きていく上で邪魔なものでしかなく、乗り越えるためにはこの世に存在してはならないのだと溝口は考えるようになるのだった……


特異といえばかなり特異な心理劇であるため、じっくりストーリーを追わないと内容が理解出来ない。「難解」とされ、上演の機会が余りないのもそのせいである。また溝口の独特のの倫理観は今後、いっそう特殊化が進むことが予想されるため、黛のオペラ「金閣寺」の上演機会が増える可能性も残念ながら低いだろう。黛敏郎の力強い音楽自体はとても優れたものなのだが、ストーリーは時の流れに抗えない。

今回、上演された「京都遊郭のだんまりの場」であるが、黛は「祇園小唄」の旋律を採用。ユニークな音楽に仕上げている。

田尾下の演出であるが、金閣寺の模型をずっと舞台上に建てておくというプランには大賛成だが、死者達に白化粧をして登場させるという演出は舞台効果を弱めているように思う。これはあくまで現世における懊悩の話なのである。死者は出来るなら出さない方がいいだろう(台本上に「死者が出る」と指定されている場面は除く)。出さない方が観客のイメージも膨らむ。

色々とあったが、上演としては大成功であったと思う。歌手達も、東京オペラシンガーズによる合唱も優れていた。そして何よりも下野竜也指揮の神奈川フィルハーモニー管弦楽団の響きが充実していた。
      

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