コンサートの記(239) 京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2015(年度) ~こどものためのオーケストラ入門~ 「オーケストラ大発見!」第4回「天才はどっち?モーツァルトVSベートーヴェン」
こどものためのオーケストラ入門とあるが、曲目は本格的。親子で楽しめるプログラムとなっている(基本的には親の方が楽しめると思うが)。
曲目は、前半がオール・モーツァルトで、歌劇「フィガロの結婚」序曲、歌劇「魔笛」から「夜の女王のアリア(復讐の心は炎と燃え)」(ソプラノ独唱:安井陽子)、歌劇「ドン・ジョバンニ」から「恋人をなぐさめて」(テノール独唱:錦織健)、ピアノ・ソナタ第11番から第3楽章「トルコ行進曲」(ピアノ独奏:佐竹裕介)、交響曲第41番「ジュピター」より第1楽章。
後半がベートーヴェンの「エリーゼのために」(宮川彬良編曲。ピアノ独奏:佐竹裕介)と交響曲第9番「合唱付き」より第4楽章(ソプラノ独唱:安井陽子、メゾソプラノ独唱:福原寿美枝、テノール独唱:錦織健、バリトン独唱:三原剛。合唱:京響コーラス)。
開演前にロビーコンサートがあり、渡邊穣(ヴァイオリン)、田村安祐美(ヴァイオリン)、小峰航一(ヴィオラ)、佐藤禎(さとう・ただし。チェロ)、清水信貴(フルート)、鈴木祐子(クラリネット)、松村衣里(まつむら・えり。ハープ)の七重奏により、ラヴェルの「序奏とアレグロ」が演奏される。エスプリ・クルトワの結晶のような音楽であり、京響の奏者達も雅やかな演奏を繰り広げた。
演奏終了後、清水信貴が京響で演奏するのは今日が最後ということで、松村衣里から清水に花束が渡される。
今日のコンサートマスターは渡邊穣。泉原隆志は降り番で、フォアシュピーラーに尾﨑平。フルート首席奏者の清水信貴、オーボエ首席の髙山郁子、クラリネット首席の小谷口直子は今日は全編に渡って出演(「ジュピター」などはそもそもクラリネットのパートがないためクラリネット奏者の出演もなかったが)。トランペット首席のハラルド・ナエスは後半のみの出演。前半は首席の位置に早坂宏明が入り、後半は早坂に代わって稲垣路子が出演した。
ドイツ式の現代配置による演奏。
まずはモーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」序曲。この曲ではピリオドは余り意識しない演奏。伸びやかで勢いのあるモーツァルトである。
演奏を終えて、ナビゲーターであるガレッジセールの二人が呼ばれる。ゴリは「広上さん、進行上手いから俺らいらないんじゃないか」と言う。広上は「フィガロの結婚」について、「3時間以上掛かるオペラの序曲です。例えると前菜。突き出し、それからえーと、お通しのような」と語るが、ゴリに「そこまで説明しなくていいです」と言われる。
広上は、「オペラの本番ではオーケストラピットというものがありまして、わかりやすく言うとモグラ。我々は、下に入っちゃう」と語る。「じゃあ昔は歌手が主役だったんですね」とガレッジセールの二人は語るが、広上は「ねえ、ゴリちゃん、川ちゃん、カラオケ好き?」と聞き、ゴリが「大好きです」と応えると、広上は「私も大好きで、昨日も歌ってきました」と言う。ゴリが「何を歌うんですか?」と聞くと、広上は「演歌」、ゴリ「演歌?」、広上「そう、『長崎は今日も雨だった』、『そして神戸』、『街の明かり』。ねえ、今度、是非一緒に」と言って、ゴリに「広上さん、そういう話は楽屋でしましょうよ」と突っ込まれる。これからオペラのアリアが続くので、歌の話になったのである。
その後、安井陽子と錦織健が呼ばれるが、ゴリは「安井さんに歌って頂くのがテレサ・テンの『つぐない』」とボケる。ゴリは「(安井の)髪型がテレサ・テンぽかったので」と言い訳する。
安井陽子は夜の女王アリアに出てくるコロラトゥーラに説明し、ドレミファソラシドドシラソファミレドの音階でコロラトゥーラをやって見せる。
錦織健が歌う曲についてもゴリは「吉幾三の『俺ら東京さ行ぐだ』」とボケる。錦織はドン・ジョバンニについて、「色男。最近、プレーボーイが話題になっていますがその先駆けのような存在と語り」、「乙武さんじゃ敵わない」と言う。川田が「狩野英孝は?」と聞くが、「全然敵わない。2000人ですから」と応える。「女とみれば誰でも」と錦織は言うが、広上は「お婆さんだろうが、若い女性だろうが、金持ちだろうが貧しかろうが差別しない」というドン・ジョバンニのあり方を「女性全般への愛」の象徴でもあると評価した。「恋人をなぐさめて」はロングブレスであり、一つ一つの旋律が長いので息継ぎが難しいそうである。
錦織は声域によって役が違うと言い、「ソプラノはお姫様。アルトはおばはん(ゴリが「急に口が悪くなりましたね」と突っ込む)。テノールが僕を見てもわかる通り王子様。バリトンが悪役」と語る。
安井の独唱による歌劇「魔笛」より「夜の女王のアリア」と、錦織健による歌劇「ドン・ジョバンニ」より「恋人をなぐさめて」。
広上指揮の京響は一転して、はっきりとピリオドとわかる演奏を展開。弦楽はビブラートを抑え、ボウイングも旋律の歌わせ方もモダンスタイルとは異なる。
安井の歌声は華にはやや欠けるが堅実。錦織もちょっと怪しいところがあったが全般的には優れた歌声を聴かせる。
安井も錦織もスリムな体型であるため、ガレッジセールの二人が袖で錦織に、「昔のオペラ歌手は太っているイメージでしたけどなんででしょうね?」と聞いたところ、錦織は「単に食欲に負けただけ」と答えたそうである。広上は、「以前は音が体中に共鳴するので、体が大きい方が良いといわれていましたが、実際は余り関係なかったようです」と述べる。
モーツァルトというと、「音が空から降りてきて、自分は書くだけ」というイメージが知られているが、広上によるとかなり勉強した作曲家だそうである。
今度は佐竹裕介のピアノ独奏で、ピアノ・ソナタ第11番より第3楽章「トルコ行進曲」。広上は「昔はサロンコンサートといいまして、サロンでの演奏を近くで見ていましたので、そのつもりで」ということで、広上とガレッジセールの二人は上手に並べられた椅子に腰掛けて佐竹の演奏を聴く。
佐竹は比較的ゆっくりとしたテンポを採用。左手を強調する。前半にミスタッチがあったが、後半はルバートを用い、音を足した演奏を行った。
演奏終了後、ガレッジセールの二人が佐竹に「みんなの見ている中で一人で演奏して緊張しないんですか?」と聞くと、佐竹は「滅茶苦茶緊張します」と答える。
広上が音を足したことについて聴くと、「いつも同じ演奏をしていると飽きるので」と佐竹。ちなみはガレッジセールの二人は「トルコ行進曲」についてよく知らなかったため、音を足して演奏したことに気づかなかったそうである。
交響曲第41番「ジュピター」第1楽章。広上はゴリに「交響曲というと、どんなイメージを持ちますか?」と聞く。ゴリは「(ステージ)いっぱい(の大人数)で演奏するようなイメージです」と答える。広上は「オーケストラピットで演奏していたオーケストラを舞台に上げて演奏させるために書かれたのが交響曲」と語り、ゴリは「あー、俺たちやっと明るいところで演奏出来るよ、と思ったでしょうね」と話す。
広上によると、モーツァルトは最初は交響曲に余り興味を持たなかったそうであるが、晩年、といっても本人は若くして亡くなるとは思っていなかったわけだが、依頼もないのに交響曲第39番、第40番、第41番「ジュピター」を書いた。その頃、父親であるレオポルト・モーツァルトに、「お父さん、僕はこれからは交響曲作曲家として生きていきます」という手紙を送っていたそうである。
「ジュピター」は広上の得意曲目。日本フィルハーモニー交響曲を指揮したライブ録音もCDで出ている(録音は余り良くないが)。「光輝満つ」といった堂々とした部分も見事だが、密かに込められた影の表出も巧みである。
後半はベートーヴェンの2曲。
宮川彬良編曲による「エリーゼのために」。ピアノとオーケストラのための編曲である。まず幻想的な序奏があり、そのスタイルを保ちつつ続くが、途中で曲調がスペイン風になり、タンバリンやカスタネットなども鳴る。そしてラストはグリーグのピアノ協奏曲イ短調を模した編曲で彩られる。ワールドワイドな編曲である。
交響曲第9番「合唱付き」より第4楽章。京響コーラスが並ぶ間に広上とガレッジセールがトークを行う。
ゴリが「耳が聞こえなくても作曲出来るものなんですか?」と聞くと、広上は「普通は無理」と答える。ゴリは「そうですよね。佐村河内さんも結局、聞こえてましたもんね」と言う。広上は「今、言おうと思ってたのに」と言い、「私は彼のドキュメンタリーを見て号泣してしまった口なので」と続けた。ベートーヴェンの耳が聞こえなくなった理由について広上は、「ベートーヴェンのお父さんは大変優れたテノール歌手だったのですが、上がり症だったため演奏会がいつも上手くいかず、息子に八つ当たりで暴力を振るった。あるいはベートーヴェンは酒好きだったのですが、当時の酒が良くなかったのではないかと言われています。ただ本当の理由はわかっていません」とした。
広上によると、ベートーヴェンは沢山のスケッチを重ねて作曲したそうだが、モーツァルトも実はそうだったという。ただ、ベートーヴェンは部屋の掃除が嫌いで、スケッチをそこら中に放り投げておいたため、弟子などがそれを拾ってスケッチが残ったが、モーツァルトの場合はスケッチを破り捨てたり燃やしてしまったそうで、これまで発見がされなかったため、天才伝説が生まれたのであるが、最近になって妻であったコンスタンツェが「後世、何かあった時ために」と密かに手元に留めておいたモーツァルトの作曲のスケッチが60ほど見つかったという。
というわけで、天才であっても努力したし勉強したのだということになり、モーツァルトがいなかったらベートーヴェンはいなかった、ベートーヴェンがいなかったら後世の作曲家が出てこなかった可能性もあると結論づけ、どちらが優れているという考えはナンセンスとした。
ゴリが、「モーツァルトがテストの前に『昨日、全然勉強していない』」という子で、ベートーヴェンが「バリバリにやったという子」と例えると、広上は、「CMでもあるでしょ。クララが『全然勉強してない』と言って、ハイジが『絶対勉強してるな』と言う」と真似を入れて語り、ゴリに、「広上さん、クララとハイジの物真似も出来るんですね!」と感心されていた。
第九についてであるが、広上は「ベートーヴェンは破壊と創造の作曲家」とし、「まず合唱を交響曲に入れ、独唱も入れた。第3楽章はメヌエットという舞曲が普通だったが、ベートーヴェンはスケルツォという速い音楽に置き換えた。またベートーヴェンは民主社会主義者で、封建的貴族主義にNOを突きつけるためにシラーの詩を用いた」と例を挙げて述べる。ちなみに広上は「『老若男女』の平等をですね、私は最初これを『ろうじゃくだんじょ』と読んでしまっていたわけですが、願ってですね」と相変わらずのボケッぶりである。
第九を得意としている広上。今日の演奏もスケール豊かなものになった。両手だけでなく首を使った指揮が個性的である。この演奏は、ガレッジセールの二人もステージを降りて客席で聴いた。
合唱と独唱者4人がいるということで、アンコールはモーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」。清明な演奏であった。
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