観劇感想精選(183) NODA・MAP 「逆鱗」
松たか子演じるNIGYOの一人語りで劇は始まる。NIGYOは泣きたいと思い、涙を流すため、海原から顔を出す。そして自分が何故泣いているのか? NINGYOが何故歌うのかに疑問を感じ……。
舞台は変わって、海中にある水族館。水槽が一つ空になり、新たに人魚を入れることになる。しかし人魚の存在はまだ確認されていない。しかし、水族館の館長である鵜飼綱元(池田成志)はもうすでに人魚の展示を決定している。鵜飼綱元の娘である鵜飼ザコ(井上真央)は大学で人魚学を専攻しており、柿本魚麻呂(かきのもとのさかなまろ。野田秀樹)教授に師事している。柿本魚麻呂は人魚を捕まえることを約束し、海中水族館の下に、人魚の古代遺跡があったということを鵜飼ザコと共に発表する。人魚の古代遺跡は昔の長さの単位で四丈×四丈の広さ。鵜飼ザコは「四」は「死」の掛詞なのではないかと妄想する。この古代の妄想つまり「古代妄想」は「誇大妄想」という言葉遊びとなってその後も登場する。
水族館で監視員をしているサキモリ・オモウ(阿部サダヲ)であるが、人魚を捕まえるために海に潜る潜水夫ならぬ潜水鵜となり、世界史上初の鵜長に就任する。
水族館のイルカ係をしているイルカ・モノノウは、イルカショーが中止になり、「人魚はいるか? ショー」になりそうなことに抗議、鵜飼綱元に詰め寄る。イルカ・モノノウは午後にやっている鵜飼ショーは中止にならないことを問題視している。イルカ・モノノウは鵜飼の実態は残酷だと訴える。
海上水族館に電報配達員のモガリ・サマヨウ(瑛太)がやって来る。電報を届けに来たのだが、サキモリ・オモウにも鵜飼ザコ(減圧室という「とある訓練のための部屋」に一緒に入る)にも電報を受け取って貰えない。サキモリ・オモウは視力が良く、沖に誰も見えない船が見えるという。
ここで再び場面は変わる。先程の海底の場面は他の人にいわせると「夢」を見たに過ぎないようだ。しかしモガリ・サマヨウは渡すはずの電報をなくしていることに気づく。
「七人の侍」よろしく、七人揃った潜水鵜達のお披露目。だが、七人といいながら実際は五人しかいない。そこでイルカ・モノノウとモガリ・サマヨウも加わることになってしまう。
取り敢えず潜った潜水鵜は、頭のない魚の巨大な胴体のみを引き上げる。実はこれは人魚の祖である生きている化石「シーラニンギョ(シーラカンスの人魚版)」であり、鵜飼綱元は記者会見で発表する。
贋人魚のオーディションが行われ、参加者は次々と合格するのだが、最後尾にいたNINGYOだけが「もういい」として追い返されそうになる。NINGYOは、「どうして? 私だけが本当の人魚なのに」と訴えるが、人魚に同化した、ちょっと頭のおかしな「どうかした女」とされてしまう。「どうかした女」となったNIGYOは人魚同一性障害とされる。NINGYOは水底の人魚とは別人で、本人は「いけてない方のリケジョ」と自己紹介し、「実はカナヅチなの」とも打ち明ける(余談であるが演じている松たか子本人もカナヅチである)。モガリ・サマヨウは先程NINGYOが電報を取り上げたのだと思い、「電報を返せ」と言うが、NINGYOは覚えがないという。取り敢えず人魚として海の底に電報を取りに行くことにするNINGYOだったが、カナヅチの人魚が海に飛び込んでも大丈夫なのかと心配するNINGYOであったが、とにかくサキモリ・オモウとモガリ・サマヨウと三人で飛び込んでみることにする。
実は、サキモリ・オモウとモガリ・サマヨウが海底にいる間に、陸上では2ヶ月が経過していた。サキモリ・オモウは他の人の考えていることがわかるという特殊技能のようなものを身につける。
さて、この地方ではイルカのことをハタハタとも読んでいるのだが、実はハタハタは魚編に雷で鱩と書き、鵜飼ザコは「魚雷とも読めますね」と陰のある笑みを浮かべながらいう。実は鵜飼ザコや柿本魚麻呂が研究している人魚とは「マーメイド」のことではなく、「人間魚雷」の略称だったのだ。「NINGYO EAT A GEKIRINN」は「NINGEN GYORAI KAITEN」つまり「人間魚雷回天」のアナグラムであることがわかる。
鵜飼ザコは「戦争が始まってくれないと自分たちの研究してきたことが無駄になる」と語る。そう、潜水鵜達は知らず知らずのうちに人間魚雷に乗り組むための訓練を受けていたのだ。
サキモリ・オモウが持ってきた電報の内容が明らかになる。「チビトデブガ インディアンノバシャデ シュッパツ」という意味のよくわからないものだ。NINGYOが謎解きをする。「チビは原爆リトルボーイ。デブは同じくファットマンであり、インディアンノバシャというのは原爆を積んだ重巡洋艦インディアナポリスのこと」だという。沖に見えた船はインディアナポリス号だったのだ。電報の続きは「シキュウ NINGYO EAT A GEKIRINN ヲハツドウセヨ」つまり、至急、人間魚雷回天作戦を発動せよ」というものであった。
NINGYOは「昔、昔の昔、昔、昔、昔。10年一昔というから70年ほど昔の話をしましょう」と言って、70年前の大戦で人が魚雷に乗り込む人間魚雷回天なるものが存在したことを告げる。
柿本魚麻呂教授と鵜飼ザコは鵜飼綱元に人間魚雷について説明している。命中率を上げるために搭乗する人間が犠牲になるのは仕方がないという考えだった。
サキモリ・オモウやイルカ・モノノウ、そしてモガリ・サマヨウらは「忠臣蔵」に掛けたと思われる47人の人間魚雷特攻隊員としてインディアナポリス号に向かうことになる。しかし、すでに広島と長崎に向かって爆撃機は出発していた。インディアナポリス号はもう空だ。モガリ・サマヨウはそれに気づき、「チビトデブハモウイナイ カエリノフネダ」と電報を打つ。しかし電報は届かない。
特攻隊長となったサキモリ・オモウとモガリ・サマヨウ(二人は言葉を交わさずとも相手の考えが通じるため、NINGYOが声にならない声を変わりに発する。アンデルセンの声をなくした人魚とは逆の発想である)が空の船に人間魚雷を仕掛ける意味があるのかと意見を交換しているが、その間にも人間魚雷回天は発射されていく。しかしなかなか命中しない。最後になってようやくインディアナポリス撃沈に成功するのであるが……。
非人間的肉弾兵器「人間魚雷回天」を題材にした舞台である。最初はファンタジーかと思わせておいて、重い主題を持ってくるのは野田秀樹らしいやり方だ。銀粉蝶が演じる「誰かの母親」が、「忘れられるのがかなしい」とした人間魚雷回天の悲劇に客席からはすすり泣きも聞こえた。
言葉遊びの面白さ、アナグラムや暗号の用い方なども巧みである。今回の作品のセリフには初期の野田秀樹作品に多く見られたような詩的なレトリックが散りばめられているが、必要以上にポエティックになっていたのが少し気になる。野田秀樹の作風がまた変わろうとしているのだろうか。人魚と人間が表裏一体というのは昔から使われている手法ではあるが上手いと思う。
半透明の幕とライトを使った演出は効果的であり、人海作戦も成功している。シャボン玉の使い方など、いつも以上に綺麗な見せ方になっているが、これも戯曲と連動しているのだろうか? 野田秀樹本人は現代美術家の名和晃平の影響を受けたと語っているが、今日見た耽美的傾向はそれだけでは説明できない気もする。
NINGYOを演じた松たか子(緑色のロングのウィッグを付けて演じている)ももう38になるが、相変わらず可憐さを巧みに出す演技に変わりはない。ラストシーンの説得力も松たか子が演じてこそであろう。
主演した大河ドラマ「花燃ゆ」が歴史的惨敗に終わった井上真央であるが、大河を終えて初の仕事がこの野田の舞台で、役名がザコであるため、「本読みをしながら『私、雑魚って呼ばれちゃうんだ』と思いました(笑い)」とパンフレットのインタビューで語っている。悪女役であり、そうした雰囲気を作り出すのに長けている。ただ他の俳優に比べると窮屈そうな演技にも映った。彼女は映像の方が向いているのかも知れない。
純朴そのもののモガリ・サマヨウ(「殯彷徨う」でそのままの役名であるが)を演じた瑛太は「MIWA」の時と同様、ナチュラルな演技。ちょっととぼけた役を演じると彼は嵌まる。
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