コンサートの記(247) 西本智実指揮 モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団来日公演2016大阪
2016年5月29日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて
昨日に引き続き今日も大阪・中之島のフェスティバルホールへ。西本智実指揮モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団の来日公演を聴く。
モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団は前身のモンテカルロ国立歌劇場管弦楽団時代にスヴャトスラフ・リヒテルのピアノ、ロヴロ・フォンマタチッチの指揮でレコーディングされたグリーグとシューマンのピアノ協奏曲の名盤で伴奏を担当していたオーケストラとしてクラシックファンの中では知られている。というよりクラシックファンの間でもそれぐらいしか知られていない。
その名の通り、モナコ公国のリゾート地・モンテカルロに本拠地を置くオーケストラであり、コンサートとオペラの両方で活躍している。
歴代指揮者の中には、先程も名前を出したロヴロ・フォン・マタチッチ(元NHK交響楽団名誉指揮者)やジェイムズ・デプリースト(元・東京都交響楽団常任指揮者)など、日本とゆかりの深い人物がおり、また今年の9月からは日本を代表する若手指揮者である山田和樹がモンテカルロ・フィルの音楽監督に就任する予定である。
というわけで、山田和樹とのコンビとの来日でも良かったのだが、山田がバーミンガム市交響楽団と日本ツアーを行うということもあってかどうかはわからないが、モンテカルロ・フィルの日本ツアーの指揮者は西本智実が務めることになった。
大阪市出身の西本智実。凱旋公演ということになる。
曲目は、ビゼーの「カルメン」組曲、スメタナの連作交響詩『わが祖国』より「モルダウ」、チャイコフスキーの交響曲第5番。
ロシアや東欧で指揮者活動をスタートさせ、幻想交響曲などフランスものも得意にしている西本に相応しいプログラムである。
アメリカ式の現代配置での演奏。ただし、ティンパニは指揮者の正面ではなく、舞台下手奥に陣取る。
実は当初の発表では1曲目がスメタナ、2曲目がビゼーであったが、本番では入れ替えてきた。有料パンフレットにはその旨、記してあったのかも知れないが、私はパンフレットを買わなかったため、1曲目が「モルダウ」だと思っていたら「カルメン」が鳴り始めたのでちょっと驚いた。
入れ替えた意図だが、「モルダウ」はモンテカルロ・フィルのスタイルに合わず、演奏の出来に関しては他のものより落ちるため、まず出来が良いと感じられた「カルメン」を冒頭に持ってきたかったのかも知れない。
モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団を生で聴くのは初めてだが、シックなオーケストラである。モナコ公国は南仏に面しており、南仏のオーケストラは楽器の音色が濃いのであるが、モンテカルロ・フィルの音色は洗練されており、南仏よりもパリのオーケストラに近い。西本はモンテカルロ・フィルから鋭い和音を引き出し、これは全曲でプラスに作用する。
「カルメン」組曲は、勢いの良い「闘牛士」の前奏曲と悲劇的なアンダンテ・モデラートの前奏曲の二つを持ち、アタッカで入ると効果的であるため、西本とモンテカルロ・フィルもアタッカで入ろうとしたが、拍手が起こってしまったため、西本は拍手が鳴り止むのを待ってからアンダンテ・モデラートの前奏曲を振り始めた。いずれもドラマティックな出来である。
面白かったのは3曲目として置かれた「ハバネラ」の演奏。旋律の歌わせ方が極めて蠱惑的であり、妖しげだ。ハバネラの旋律をオーケストラがこれほど艶やかに奏でるのを聴くのは初めて。やはり指揮者が女性の西本智実であるというのは大きいだろう。クラシックの世界では「指揮台に立てば性別は関係ない」といわれており、私もそう思ってきたのだが、どうやらそうではないようだ。「ハバネラ」の旋律をオーケストラでこれほど妖艶に歌うという発想自体が男性の指揮者にはないはずである。
「間奏曲」のリリカルで優しげな雰囲気も素晴らしい。
ラストの「ジプシーの踊り」では西本はモンテカルロ・フィルを煽り、興奮度満点の演奏に仕上げる。
西本の指揮スタイルは基本的には端正なものだが、今日は特に「カルメン」組曲においては左手を効果的に用いていた。
スメタナの連作交響詩『わが祖国』より「モルダウ」。先に書いたとおり出来は今一つ。冒頭のフルート二人の指が十全に動かない上に音が大きめ。ということでイメージ喚起力が不十分である。
主題が弦に移ってからは体勢を立て直すが、どうもモンテカルロ・フィルの音色にスメタナ作品は合わないようで、不思議な「モルダウ」になってしまう。
それでも村の踊りの場面や月夜の描写などには優れたものがあった。
メインであるチャイコフスキーの交響曲第5番。
西本智実はロシアもの、現代音楽、フランスもの、マーラーなどを得意としている一方で、古典派以前の音楽では余り成功していない。兄弟子であるヴァレリー・ゲルギエフも古典を避けているから、ロシアで指揮教育を受けた指揮者の特徴なのかも知れないが、西本の指揮スタイルを見ていると古典派以前を苦手としている理由がなんとなくわかる。
西本はとにかく情熱の人で、情熱が矢と化して体から溢れてホール中に飛び散っていくような激しさが感じられる。チャイコフスキーでもフォルムよりも内容重視で熱い音楽を作る。こういうタイプの指揮者には形式が重要視される古典派以前の音楽には向いていないのである。また西本は典型的なライヴの人であり、スタジオ録音では燃焼度不足に陥っているものの方が多いため、レコーディングアーティストとしては現在までの姿勢では不利である。
冒頭、クラリネットが奏でる「運命の主題」を西本は遅めのテンポで展開。ゲネラルパウゼもかなり長く取り、この主題が特別なものであることを聴く者に印象づけさせる。
その後、弦に比べて管の音の方が大きいという状態が続くのだが、西本が「管は運命、弦はそれに身もだえするチャイコフスキー」という解釈を行っているのではないかということに気づく。そう考えれば効果的でわかりやすく、残酷な音楽と演奏になる。先に書いたとおり西本はフォルムを整えることよりも内容重視。多少外観が崩れようともチャイコフスキーの魂をえぐることを優先させる。
第2楽章のホルンソロも抜群というほどではなかったが上手く、モンテカルロ・フィルの性能の良さが感じられる。
第3楽章は典雅ではあるが、やはり噴き出るような情熱がやがて全てを呑み込む。
第4楽章。西本はこの楽章を凱歌とは捉えない。旋律の歌い方は朗らかではなく、怯えながら手探りで進んでいるかのようである。管に主旋律が移ると西本が弦の音を強め、管が奏でる明るいはずの歌がぼやけるような処理をする。
そして擬似ラスト。今日は残念なことにここで拍手と「ブラボー!」が起こってしまう。せめて「ブラボー!」は止めて貰いたかった。こちらの集中も切れてしまう。
ただ演奏は勿論続く。再度の凱歌調の旋律も西本は「希望はあるかも知れない、希望があったなら」程度のメッセージに留めていたように思う。他の指揮者もそうだが、最近ではこうしたペシミスティックな解釈は流行である。
全ての演奏が終わり、今度は本物の「ブラボー!」が起こる。
アンコールはチャイコフスキーの「花のワルツ」。華やかで愛らしい演奏。モンテカルロ・フィルの音色もこの曲に合っている。
演奏を終えた西本は「感慨無量」という面持ちで客席を長い間見つめていた。
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