観劇感想精選(192) ムムム!!文楽シリーズ第1回「中之島文楽」2016
第1部が「文学ビギナーに贈る 文楽入門トーク 文楽ってナンダ? おもしろ文楽のススメ」(司会:桂吉坊、ゲスト:桜 稲垣早希)、第2部が文楽上演で「日高川入相花王(ひだかがわいりあいざくら)」より“渡し場の段”と「曽根崎心中」より“天神森(てんじんのもり)の段”が上演される。
ゲストとして早希ちゃんが登場するが、早希ちゃんがゲストで出るから「中之島文楽」を観る気になったのではなく、もともと「中之島文楽」は観る予定で、25日にしようか26日にするかというところだけ保留していたのだが、早希ちゃんがゲストで出るらしいという情報を得て25日の公演を選んだのである。明日も同一演目上演で、トークのゲストは西川忠志に変わる。
ブログを確認したところ、早希ちゃんはマネージャーから「セミフォーマルな格好で来て下さい」と言われたものの、「セミフォーマルがフォーマルより上なのか下なのかわからない」という例の調子で、最初は結婚式出席用の衣装などを用意してしまったそうだが、「もっと軽くていい」ということで、今日は白の上着と、白と黒の細かい市松模様のミニスカートという出で立ちで登場した。
文楽について早希ちゃんは、「ずっと昔に国立文楽劇場で『曽根崎心中』を観たことがあります」と話す。
三味線が沖縄の三線から進化したという話を吉坊がした後で、「早希さん、何か楽器は?」と聞かれた早希ちゃんは「子供の頃、ピアノを……、でも先生が嫌でサボってばっかりで……。7年習って弾けるのが『ジングルベル』だけ」と苦笑交じりに語る。
吉坊は、太夫の元祖は琵琶法師、人形遣いが現れたのは平安時代と説明を続け、植村文楽軒という人が人形浄瑠璃で大当たりを取ったため、人形浄瑠璃が「文楽」という異名でも呼ばれるようになり、今では文楽の方が通りが良くなっていると語る。
次いで人形の紹介。吉田幸助が主遣いの女性の人形が登場。人形は3人で動かし、主遣い、左遣い、足遣いの3つの役割がある。ちゃんと人形を動かせるまでに15年ほど修行が必要であり、一流になるまでには約30年が必要という職人の世界である。
人形遣い体験として、希望者が人形を扱うことが出来るコーナーがある。手を挙げたのは小学生の男の子。主遣いをやりたいというのだが、男の子の身長は人形と同じくらい。ということで、吉田幸助も補助に入ったため、結果として4人遣いになってしまっていた。
作品紹介では、関係図がスクリーンに映り、「日高川入相花王」ではあり得ないような偶然が起こっていることを示す。
最後は、桂吉坊が紹介する「曾根崎の現在」の映像が流れる。実は、大阪市中央公会堂に入る前に私は隣の大阪府立中之島図書館(重要文化財指定)に入ったり、曾根崎の辺りをウロウロしていたため、先程通ったばかりの場所が映像で流れたりする。曾根崎と大阪市中央公会堂は目と鼻の先、歩いて数分しか離れていない。
休憩を挟んで文楽上演。大阪市中央公会堂での上演ということで、照明などは国立文楽劇場とは違った趣が採られている。
太夫:豊竹希太夫(とよたけ・のぞみだゆう)、豊竹英太夫(とよたけ・はなふさだゆう)、豊竹睦太夫(とよたけ・むつだゆう)、豊竹亘太夫(とよたけ・わたるだゆう)
三味線:鶴澤清允(つるざわ・せいいん)、鶴澤清公(つるざわ・せいこう)、鶴澤清介(つるざわ・せいすけ)、野澤喜一朗
人形:桐竹勘十郎、桐竹観昇、桐竹観次郎、桐竹紋秀(きりたけ・もんひで)、吉田勘市、吉田幸助、吉田玉男、吉田玉峻(よしだ・たまとし)、吉田玉路(よしだ・たまみち)、吉田玉征(よしだ・たまゆき)、吉田簑二郎、吉田簑之
「日高川入相花王(ひだかがわいりあいざくら)」。タイトルはものものしいが、有名な安珍・清姫の物語である。安珍に裏切られたと悟った清姫が日高川を渡ろうとするも、船頭に邪魔され、怒り狂った清姫は、顔は鬼、体は蛇の化け物となって日高川を渡り、道成寺に入った安珍を追うという場面の上演である。竹田小出雲、近松半二らによる合作。
赤と黒の衣装で登場した清姫は最初から狂気じみた雰囲気を醸し出している。憤怒の踊りの場面は見事で、人形に命が吹き込まれている。顔が一瞬にして清姫から鬼に変わる細工も面白く、川の中で衣装が瞬く間に蛇の鱗に変わるシーンにも唸らされた。江戸時代の日本人は本当に頭が良かったんだねえ。
一方で、船頭は結構手持ち無沙汰なところがある。主役はあくまで清姫ということなのだろう。
なお、清姫が「道成寺」と言うのを聞いた船頭が「どじょう汁?」と勘違いするという笑いのシーンがある。
「曽根崎心中」より“天神森(てんじんのもり)の段”。「この世のなごり 夜もなごり」で始まる有名な場面である。
9年ほど前に大阪の国立文楽劇場で私は「曽根崎心中」全編を観ている。そのため、有名ではあるが心中のシーンだけだと少し物足りないようにも感じる。
それにして文楽の表現の細やかさは筆舌に尽くしがたい。人形劇は世界中に数多くあるが、これほど繊細な味わいを持つものはおそらく文楽だけであろう。
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