コンサートの記(257) マリインスキー・オペラ「エフゲニー・オネーギン」2016京都
サンクトペテルブルク・マリインスキー劇場(マリインスキー歌劇場、マリインスキー・オペラ)の引っ越し公演である。ロームシアター京都に海外のオペラ上演団体が来るのはこれが初めてとなる。
指揮はマリインスキー劇場芸術総監督のワレリー・ゲルギエフ。オーケストラはサンクトペテルブルク・マリインスキー歌劇場管弦楽団。演出はアレクセイ・ステパニュクが2014年にマリインスキー劇場と中国国家大劇院との共同制作時に行った演出プランを踏襲する。ロシア語歌唱・日本語字幕付き上演。
出演:スヴェトラーナ・フォルコヴァ(ラーリナ夫人)、マリア・バヤンキナ(タチヤーナ)、エカテリーナ・セルゲイコワ(オルガ)、エレーナ・ヴィトマン(フィリーピエヴナ)、アレクセイ・マルコフ(エフゲニー・オネーギン)、エフゲニー・アフメドフ(レンスキー)、エドワルド・ツァンガ(グレーミン公爵)、ユーリー・ブラソフ(中隊長)、アレクサンドル・ゲラシモフ(ザレツキー)、アレクサンドル・トロフィモフ(トリケ)。オール・ラッシャー・キャストである。
合唱はマリインスキー歌劇場合唱団。
プーシキンの韻文小説をチャイコフスキー自身とコンスタンチン・シロフスキーによって台本化した歌劇の上演。出てくる男達はかなり女々しい部分を持っているのだが、チャイコフスキーが台本を手掛けたことと関係があるのかどうかは不明。
今日は4階席での鑑賞となったが、音は予想よりもずっと良い。4階ということもあってオーケストラは管が勝って聞こえるが、歌手達の声はとても良く通る。オペラ劇場としては音響設計が優秀であることは間違いないだろう。
音は合格点だが、ハレの場として相応しいかというと答えは必ずしもイエスではないと思う。
ロシアの片田舎で暮らす地主のラーリナ夫人と夫人の二人の娘(タチヤーナとオルガ)の下に、オルガの恋人であるレンスキーがエフゲニー・オネーギンという青年を連れてきたことから起こる恋愛ドラマである。
出来れば事前に映像で予習したかったのだが、注文した日本語字幕付きのDVDは輸入盤ということもあって今に至るまで届いていない。そこでいきなり本番勝負ということになる。ただストーリーは比較的単純であるため、内容把握にはなんら問題はなかった。
ゲルギエフの指揮するサンクトペテルブルク・マリインスキー歌劇場管弦楽団は立体感のある音楽を生み出す。ゲルギエフの神経は細部に渡るまで行き届いており、音はまろやかでしなやか。
昨日、京都市交響楽団の名演を聴いたばかりだが、マリインスキー歌劇場管弦楽団のようなまろやかでしなやかな音は残念ながら日本のオーケストラにはまだ出せないものだと思う。
サンクトペテルブルク・マリインスキー歌劇場管弦楽団も他のオペラハウス座付きのオーケストラ同様、以前は腕の立つ楽団ではなかったのだが、30年近くにわたってゲルギエフに鍛えられて演奏能力を大幅に向上させることに成功している。
アレクセイ・ステパニュクの演出は映像にインスパイアされたもの。特にエフゲニー・オネーギンが闇へと引き込まれるラストシーンはかなり映画的である。また第2幕や第3幕の導入部にストップモーションの効果(出演者の全員ないし数人が動きを止めている)や第3幕で延々と下手から上手へと移動し続ける舞踏会のカップル達の列、コケティッシュな人形のような動きを続ける女性陣などが、あたかも夢幻世界へと迷い込んでしまったかのような不思議な味わいを生んでいる。
音楽が始まってしばらくするとマリア・バヤンキナ演じるタチヤーナが喪服のようなものを着て現れ、黒い幕の前を下手から上手にゆっくり歩き、上手の窓の下に置かれた林檎(だと思われる遠いので判然とはしなかった。第1幕の舞台は林檎荘園という設定なのでその可能性は高い)を手にしてから上手に退場する。このタチヤーナの下手から上手への移動はその後何度も繰り返される。
総合して考えると、日本のオペラで一番遅れているのは実は演出なのではないかという答えが出る。オペラの場合、演出家一人いれば何とかなるというものではなく、総合力が鍵になってくるからである。西洋のオペラは突飛な演出も多いが、小手先の演出力で勝負しているわけではなく国の文化水準を反映したものになる可能性が高い。
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