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2017年2月24日 (金)

史の流れに(2) 「大関ヶ原展」

2015年7月5日 京都文化博物館にて

三条高倉にある京都文化博物館で「大関ヶ原展」を観る。徳川家康公没後400年を記念した特別展示である。「大関ヶ原展」はまず東京都江戸東京博物館で春から行われ、夏には京都で、更には秋に福岡市博物館で展示が行われる。

1600年に起こった関ヶ原の戦いと、その前哨戦にまつわる史料や絵画、武具や鎧が展示されている。

関ヶ原の戦いを描いた絵巻物や合戦図屏風は複数ある。基本的に関ヶ原の戦いからかなりの年月が経ってから描かれたものなので、正確性は微妙と言わざるを得ないのだが、画としては面白く、絵巻物は関ヶ原の戦いに至るまでの過程がわかりやすくなっている。ちなみに、赤色の鎧を着た「赤備え」は甲斐武田氏に始まり、甲斐武田氏本流滅亡後は、武田氏を織田信長と組んで滅ぼした徳川家康の家臣で徳川四天王の一人、井伊直政に受け継がれたということが知られている。今年(2015年)は大阪の陣400年の記念年でもあるが、豊臣方についた真田信繁(幸村)も武田の遺臣ということで赤備えを用いている。
だが、徳川四天王の一人である榊原康政も赤い鎧を着ていたようで、赤い鎧を着ること自体は決して珍しいものではなかったようだ。石田方に付くも東軍に寝返った脇坂安治(京都市伏見区の中書島の語源を生んだ人)も赤い旗を使っており、鎧も赤だった可能性は高い。

石田三成というと、「大一大万大吉」という言葉が紋として知られているが、あれは正式には家紋ではない。石田三成の家紋は実は不明である。寺の小僧から出世した身であり、元々家紋を持っていなかったのかも知れない。ただ、秀吉から家紋は授かったはずであり、家紋は間違いなくあったはずだが、逆臣であったためか記録には残っていない。

家康を怒らせたという直江兼続の通称「直江状」も展示されている。織豊時代の文字は幕末の頃の文字よりも更に崩れており、専門家でないと解読不可能と断言できるほどのものである。他の文書には専門家でも文字が解読出来ず、□(四角形)で飛ばされているものも存在する。

石田三成を始めとする五奉行の内4人(長束正家、増田長盛、前田玄以)は全員、家康の奢った態度に怒りを覚えていたようで、特に「内府ちがいの条々」(内府とは内大臣のことで、当時、内大臣の地位にあった徳川家康を指す)では、豊臣氏への挑発行為を咎めた罪奸状となっている。おそらく一番頭に来たのは、家康が大坂城の西の丸に、秀吉が本丸に建てた天守と同規模の天守を建て、西の丸を本拠地として城主のように振る舞ったことだと思われる。また、秀吉が築いた名城・伏見城を勝手に居城としていることも面白くなかったようだ。

家康の罪奸状を発した三成らは、諸大名に文を送っている。そして、大坂城下の屋敷で過ごしてた大名の妻子を大坂城内へと入れて人質に取る作戦に出る。ただ、明智光秀の娘で、玉こと細川ガラシャ夫人はこれを拒否して死を選ぶ。細川ガラシャが信じていたキリスト教では自殺は罪とされているため(仏教や神道では必ずしも自殺が罪になるとは限らないため、日本では自殺の美徳が生まれた)、家来に命じて胸を槍で貫かせ、一応は他殺という形で死を遂げている。文字に「細川」の文字が見られ、胸を突かせて亡くなるところが描かれているのが細川ガラシャ夫人であると思われるのだが、案内には何も書かれていない。

織豊時代においては、お家全てが取りつぶされることのないよう、親子や兄弟で敵同士となることも多かった。負けた側についていた者は死亡するが、勝った側にも血を分けた者がいれば家自体は存続する。徳川秀忠を信濃・上田で足止めにした真田昌幸とその子・信繁(幸村の名で知られる。真田家の当代の子孫の方によると「名前は信繁。幸村は大坂入城後に名乗った」としているようで、大坂入城後に信繁自身が名を変えたのか、後世の創作によって幸村という名前が生まれたのかまでは把握出来ていないとのことである)は西軍に付いたが、信繁の兄である信之(信幸)は東軍に味方している。
吉川広家が寝返ったのも「西軍が戦に敗れても自分が東軍に味方しておけば、西軍の総大将である毛利輝元は助かるだろう」という計算があったためである。石田三成と徳川家康の大将として器を比べれば、地形的に有利であっても西軍が不利であることはわかったはずである。

石田三成は丹後田辺城にいる細川藤孝(幽斎)に味方に付くよう迫るのだが、幽斎は言うことを聞かず、田辺城での籠城戦を始めてしまったため西軍の1万5000人の兵が釘付けとなってしまい、関ヶ原での西軍の数が足りないという結果を招来する。本来は西軍の総大将になるはずだった毛利輝元は「大坂城内に裏切り者がいる」という情報を受け、真偽は定かではないものの大坂城を離れられなくなってしまう(史料には裏切り者として片桐且元らの名前が挙がっている。片桐且元は豊臣家の重臣として大坂冬の陣までは豊臣に忠義を尽くしたが、冬の陣の和睦工作の際に淀殿から「裏切り者」呼ばわりされて城を追い出され、夏の陣では逆に徳川方として大坂城を攻めている)。そこで兵だけ送ろうとしたのだが、今度はそれまで中立の立場を取っていた大津城主の京極高次が突然、徳川方に付き、大津城攻めで足止めをくらい、西軍は関ヶ原で戦う兵士を減らした。一方、東軍も有名な徳川秀忠の遅参などがあり、顔が揃ったというわけでもなかった(現在では秀忠の役目は専ら上田城攻略であり、遅参というわけではなかったという説が有力になっている)。

西軍が東征。まず家康の居城である伏見城を攻める。指月に造られた伏見城は隠居所の居館であったが、慶長の大地震で倒壊後、秀吉は少し離れた木幡山に難攻不落の新たな伏見城を築城する。伏見城の縄張り図も展示されているが、本当にこの通りなのかどうかはわかっていない。ただ東からも西からも攻めにくく、北は東山連峰が連なっているので、攻めるのに時間が掛かる。南方に広がるのは巨椋池であるが、伏見城の大手は南にあり、巨椋池に土橋として掛けられた太閤堤と呼ばれる狭い道を進むしかない。太閤堤の幅はかなり狭かったようであり、進軍中に伏見城の支城である向島城から鉄砲で狙い打ちされたらひとたまりもない。流石は築城の名手・豊臣秀吉の最高傑作である。
結果、西軍は、伏見城に留守居役として残された鳥居元忠の1800騎に対して4万の兵で挑みかかるが、落城まで10日以上を費やし、その間に徳川方に西に戻る余裕を与えてしまう。伏見城の堅固さは三成も熟知していたはずであるが、攻め落とすのにどれほどの時間が掛かるのか計算しきれていなかったようである。三成はあくまで有能な官僚であり、武人ではない。優れた武人だったら伏見城の戦いの最中か終わった後で、「何かおかしいのではないか」と思うはずだが、残念ながら三成は見抜けなかったようである。

大津城の絵図面もある。これも正確なのかどうかわからない。大津城は捕らえられた石田三成、小西行長、安国寺恵瓊の三人が徳川方の武将と対面した場所であるが、その後に廃城となっている。現在の京阪浜大津駅付近に大津城はあったのだが、その北の埋め立て地に現在の大津港があることからもわかるように、琵琶湖を利用した湖上交通の要衝にあり、物資の輸送など経済的な理由で建てられた城であるため、元々戦には向いていなかったのだが、城内が西の長等山からの砲撃射程距離にあったことで、実戦に耐え得ないとして廃された。代わりに近江国内には膳所城と彦根城という二つの名城が築かれた(日本一美しい城といわれた膳所城は明治維新により廃城)。

関ヶ原の戦いというのは妙な戦であり、どちらも敵軍の大将が憎いという理由で味方になった武将が多い。そして、西軍には島津義弘などもいたが、島津義弘は最初は東軍に付いて、鳥居元忠と共に伏見城を守る予定であったが、連絡不行き届き(ということになっている)で鳥居元忠から入城を拒否されたため、成り行きで西軍に付いており、戦意は低かった。西軍の中で本当に戦意があったのは石田三成と島左近を始めとするその家来、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継ぐらいであり、他の武将は積極的に戦おうとはしなかった。大谷吉継は松尾山の下にいたが、本来なら宇喜多秀家の横に並んで福島正則らと戦っているはずの武将が松尾山の下にいて小競り合いをしている。つまり、石田三成も大谷吉継も松尾山山頂という一等地に陣取った小早川秀秋はすでに東軍に寝返っている可能性が高いと気付いており、大谷吉継は三成から「小早川が攻めてきたら防いでくれ」と頼まれていたのであろう。

関ヶ原の戦いの様子をCGで再現された映像があり、島津義弘が一人取り残されて強引に中央突破を図り、成功させたということになっている。ただ、東軍は総大将である徳川家康も含めてどんどん西に進み、最後は笹尾山の三成を追い詰めるために北上している。つまり、正面突破とはいえ、家康もすでに北に向かってしまった戦終盤では島津義弘の前にいた敵は思ったよりも少なかったと思える。本多忠勝も普通に考えれば北上して徳川家康の背後を突かれないような布陣に変えていたはずで、現実的に考えると島津軍が最も生き残りやすいのが敵軍手薄な関ヶ原の南側を正面突破することだったとも思われる。勿論、側面から本多忠勝らの攻撃を受けるとあやうく、実際に多くの将兵が討ち死にしたが、島津義弘が一番南に来るような編成で駆け抜ければ主君である島津義弘の命が助かる可能性は高い。

戦場に総大将である自分が行けないまま敗れた毛利輝元。当初は改易のはずであったが、吉川広家が「自分に与えられる長門国と周防国を毛利家に与え、自身は岩国で分家となりたい」という願いが聞き入れられ、中国地方一帯を領地とする112万石の大大名から、防長二州37万石の中大名への格下げとされ、居城も山陰の僻地である萩にしか認められなかったが毛利氏は存続した。

そんな毛利氏関連の展示であるが、二種類の旗が目を引く。一つは五七桐の入った旗、もう一つは「一文字三つ星」の毛利氏の家紋の上に「伊勢大神宮」「八幡大菩薩」という二つの文字が縦に入った旗である。

展示数には満足であったが、関ヶ原の戦いに関しては実際に関ヶ原に行ってみないとわからないこともある。私も4年前に実際に関ヶ原に行って、レンタサイクルで回るまでは、関ヶ原がかなりの急勾配であることを知らなかった。西から東の下りは一度もペダルを踏むことなく目的地に着けてしまい、東から西の上りは急すぎてペダルを漕ぐことが出来ず、仕方なく降りて自転車を押しながら歩いたりもした。実はこの急勾配こそが家康が三成を関ヶ原におびき出す罠だったのかも知れない。三成も「関ヶ原なら西に陣した者が圧倒的に有利」と思っただろう。家康が野戦を得意としていることは当然知っていたと思われるが、地の利が逆に三成に油断を与えてしまったようである。

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