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2017年2月11日 (土)

連続ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」について思うこと

連続ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」全11話を見終える。知情意の三位一体で物事をとらえるわけだが、情と意に関しては述べても納得される部分は少ないと思える。なぜなら、それは普遍的なものではなく、私自身も私自身の「情」や「意」に関してはある程度しか知り得ないから。
なので、知で捉えた構造的な部分を書くことにする。
 
以前の日記(「猫町通り通信」)に書いたとおり、この物語は、「共に学歴勝者である、恋愛弱者と経済弱者の寓話」という一面は認められるだろう。バブルの頃なら学歴勝者なら恋愛においても経済においても勝者たり得た。あの頃は、「三高(高学歴、高収入、高身長。高身長についてはある程度和らげた表現で、実際は「高ルックス」である)」という言葉があった。
 
だが、今はどうだろう。頑張りが報われない人の方が多いのではないだろうか。
 
これが、「逃げ恥」が世に受け入れられた要因だと思われるが、別の側面がある。
この話は、「理屈に強い」、「数値化することが好きな」、「頭の良い二人」の話なのだ。実際に「小賢しい」という言葉がキーワードになっている。理屈などなくても幸せな夫婦になれることは森山みくり(新垣結衣)の父親の栃男(宇梶剛)と母親の桜(富田靖子)のなんとなく栃木県ゆかりっぽい名前の二人が好対照として置かれていることでわかる。つまり理屈っぽい人はある程度バカにならなければ人を愛することなど出来ないということでもある。
「賢」が上で「愚」が下などという構図を絶対だと決めつけるほど私は単純ではないつもりだが、ある意味、「逃げ恥」は逆シンデレラストーリーなのだと思う。やはり「Be foolish!」の話なのだ。
 
人が人を愛するのに理屈などいらない。津崎平匡と森山みくり以外のカップルは皆、情によって相手に惹かれていく。理屈などさして必要ではない。

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