コンサートの記(287) ザ・カレッジ・オペラハウス ブリテン 歌劇「ねじの回転」2011初日
午後6時30分より、大阪府豊中市にある大阪音楽大学ザ・カレッジオペラハウスで、ベンジャミン・ブリテンの歌劇「ねじの回転」を観る。原作:ヘンリー・ジェイムズ、指揮:十束尚宏(とつか・なおひろ)、演出:岩田達宗(いわた・たつじ)、出演:井岡潤子(女家庭教師・主役)、植田加奈子(マイルズ)、高山景子(フローラ)、小西潤子(グロース夫人)、中川正崇(なかがわ・まさたか。クイント)、藤原未佳子(ミス・ジェスル)、柏原保典(かしわばら・やすのり。プロローグ語り手)。
昨日、ダニエル・ハーディング指揮の「ねじの回転」を観ているので、予習はばっちりである。
一番の注目は、ウィーンでのオペラ修行のため、長い間、日本楽壇から遠ざかっていた十束尚宏がどれだけ成長しているかであろう。
「ねじの回転」はホラー心理劇オペラである。
幕が開くと、紗幕があり、その前で語り手(柏原保典)が「これが奇妙な物語であること」「何十年も前に書かれた手記に基づくものであること」などを告げ、不気味さが増す。この手法はイギリスではよく取られるやり方で、例えばジュリエット・ビノシュ主演のイギリス映画「嵐が丘」(エミリー・ブロンテ原作。音楽は坂本龍一である)でもエミリー・ブロンテが廃屋を訪れ、廃屋についての感想を語り(ナレーション形式のモノローグで画面上のエミリーが喋るわけではない)「嵐が丘」の着想を得るというシーンがプロローグ的に加えられている。小説「嵐が丘」を読んだことがない人にもこれからまがまがしい物語が始まることを知らせ、恐怖心を植え付ける工夫である。
ブリテンの音楽はDVDて聴いた時も優れていると思ったが、生で聴くと人間の心理の暗い部分をえぐり出すような不気味さが増し、明らかに天才作曲家のなせる技だとわかる。それを指揮する十束尚宏が生み出す演奏はシャープでエッジがキリリと立っている。伊達にウィーンで修行して来たわけではないことが確認出来た。
「ねじの回転」は、語り手によるプロローグの後で、女家庭教師(歌うのは井岡潤子。役名なし。原作が一人称で書かれたものだからだが、オペラ化に当たって役名が付けられることはなかった。ミュージカル「レベッカ」と同様である)がある若い紳士の依頼を受けて、ロンドン郊外のブライという田舎町に向かうところから始まる。紗幕に光が当たり、幕が透けて、列車に乗った女家庭教師の姿が見える。ここでのモノローグで、女家庭教師が依頼主に惹かれていることがわかる。
ブライの屋敷には家政婦のグロース夫人(小西潤子)と、二人の子供、つまりマイルズ(植田加奈子)とフローラ(高山景子)がいる。二人とも天使のような可愛らしさであり、マイルズは学校に通っていて学業優秀なのだが、ある日、学校から退学処分の手紙が届く。女家庭教師もグロース夫人も何かの間違いだろうと不問に付すのだが、これが実は鍵であることがわかる。この翻訳で女家庭教師は「無垢」という言葉を使い、二人の子供達を無垢だと信じ込んでおり、無垢こそが尊いと考えている節がある。だがこの上演ではマイルズが歌う歌詞の冒頭「ロト、ロト」に敢えて「悪、悪」という訳詞を入れて、どうやらマイルズが無垢な天使のようだというのは見せかけで、実は邪悪な人物なのではないかということがわかる。悪魔は元は天使が堕落した堕天使ということもある。学業優秀で退学処分になるということは実際はかなりのワルだと思われる。
このオペラには、クイント(中川正崇)とミス・ジュエル(藤原未加子)という邪悪な亡霊が現れて、一見すると、この二人の亡霊が子供達二人を悪の道へと引き込もうとしているかのように見える。が、実は逆なのではないだろうか。子供二人、特にマイルズの方が邪悪であるため、同類の亡霊を引き寄せたとも考えられる(第2幕冒頭で、二人とも「無垢なるものを手に入れたい」と歌うが、自分達がなぜここにいるのかは実はわかっていないようにも見える)。
舞台には不吉な感じのする赤い糸が垂れており、これが徐々に増えていくのだが、これはどうやら邪悪さを表しているのではないかと思われる。ラストでは主人公である女家庭教師の腰からも赤い糸は垂れる。太宰治は小説『斜陽』で「不良でない人間などいるだろうか」と書いているが、それに倣えば「邪悪でない人間などいるだろうか」ということになる。
ラストは、マイルズがクイントに「この悪魔」と言って事切れるのだが、これは悪魔に去れと言った場合、同類である自分も去らねばならないからだと思われる。いわば、自分の胸に向かって矢を射るようなもので、自殺行為である。荀子の性悪説などと言ってしまうと簡単だが、それよりも一段深く、「悪とは何か」を問いかけてくる佳作である。本も優れているが、ベンジャミン・ブリテンの音楽も人間心理を巧みに描写していて見事である。私は芸術の中では音楽が一番偉大だと思っている。他の芸術は心理を描く場合、何らかの媒体を必要とするが、音楽は心そのものを描くことが出来るからである。音楽は言葉と並ぶ人類の二大発明の一つだと私は思っている。
岩田達宗の演出で一番巧みだったのは亡霊であるミス・ジュエルの登場のさせ方。実はこれは予見出来た。というのも、劇場でレセプショニストが床にものを置いている観客に注意を促す場合は、必ず、役者がそこを通るからである。役者の足が引っかかって転倒事故が起きるのを防ぐためだ。劇場に何度も足を運んでいるとこれはわかる。
しかし、わかっていても実際に幽霊であるミス・ジュエルが目の前に現れるとゾクゾクする。本当に亡霊がいるように見えるからだ。
実はやはりイギリスの演劇でこの手法を用いた演出による舞台がある。種は明かせないので何という舞台かは書けないが、これはかなり効果的であった。私はその舞台を3度観たことがある(何だかやはり太宰治の『人間失格』の書き出しのようであるが)と書くと何という舞台かわかる人はいるかも知れない。
とまれかくまれ「ねじの回転」はデモーニッシュなオペラであり、指揮も演出も歌手達もよくそれを体現していたように思う。
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