観劇感想精選(211) 「それいゆ」(再演)
昨年の「それいゆ」で女優デビューした「岡山の奇跡」こと桜井日奈子が今回も出演する。
中原淳一夫人は元宝塚女優であったが、今回の公演には宝塚出身の愛原実花が参加する。
戦中の東京。クラシック歌手志望の天沢(施鐘泰)が宝塚女優志望の舞子(桜井日奈子)に連れられて中原淳一(中山優馬)のアトリエを訪れるところから物語は始まる。戦中ということで英語は敵性言語として排除され、新たに作られた日本語に置き換えられていたのだが、中原のアトリエでは英語やフランス語が普通に使われており、中原の助手である桜木(辰巳雄大)も英語をそのまま使っている。天沢も桜木もカーキ色の国民服を着ているのだが、中原は服の上下も白で統一された洒脱なスタイルだ。
雑誌「少女の友」の専属イラストレーターとして活躍している中原は芸術への造詣が深く(中原本人は自身が芸術家だという意識はなく、職人だと思っている)、天沢の歌を聴いて、「君の歌はクラシックではなくポピュラーに向いている」と断言する。後年、天沢はポピュラー歌手として大成するため、中原の耳は確かだった。
舞子と中原は、河原で舞子が歌の練習をしている時にたまたま出会ったのだが、中原は舞子に「顔を上げ、自信を持って歌うよう」指導したことで知己を得た。舞子は元々「少女の友」の読者であり、中原のファンであった。
中原は舞子が今日はもんぺを履いていることを気にするが、戦時統制が厳しくなり、もんぺが強要されるようになっていたのである。少女達に夢を与えるためにお洒落な少女像を描き続けてきたのだが、「少女の友」編集長の山崎(佐戸井けん太)は、中原に「)もんぺ姿の少女を描いて欲しい」と注文する。しかし理想主義者である中原はこれを拒否。「そんな戦争なら負けてもいい」と発言し、「少女の友」専属イラストレーターから降りることを決める。
女優を夢見る舞子だったが、父親が借金を抱えており、詐欺師の五味(金井勇太)に弱みを握られていた。五味が借金の肩代わりを行っており、その見返りとして舞子は強制的に五味と結婚させられることが決まっていた。
中原は、「究極の造形美」を追求し、人形創作に打ち込んでいた。中原は「美に絶対はない」としながらも「それ故に美は誤魔化される」と断言する。誰かの決めた美に流されないよう天沢に警告する。
戦争が終わり、大量消費・大量生産の時代になる。中原は自らが演出と美術を手掛けたミュージカル(日本初のミュージカルである)を上演するが評判は芳しくない。
五味は「本物よりもそれらしい偽物の方を喜ばれる人がいる」と事前から話していた。中原のミュージカルの感想を記者達に求められた山崎もまた大量消費の時流にあっては中原の時代は終わったと言う。ただ、山崎は中原の一緒に仕事をしていた頃から中原に嫉妬を抱いていた。
舞子が新宿でステージに立っているという噂を聞いた中原と天沢は新宿に出向くのであるが、そこは五味が経営する劇場であり……。
中原は「美」を追求する理由を「世界を変えることが出来るから」と語る。そして「美」とは置物的なものではなく、「人生」であり、「生きるということなのだ」と明かしていく。美に絶対はないように人生にも絶対はないが、個々の人生を追い求めることは出来る。誰かに教えられた人生ではなく、自分自身で選んだ人生を生きることの尊さをこの劇は観る者に訴えかけてくる。
セットには鏡が多用されているが、蜷川幸雄的な意味での用い方ではなく、キャスト達を多方面から映すことで「美」の多様なあり方と、鏡に映った像を観客がどう見るかによって決められる独自の「美的」視点の獲得が促されているように思われる。
理想主義者である中原とは対照的なその日暮らしの五味を演じる金井勇太が実に良い芝居をする。ある意味、金井勇太が影の主役でもある。金井勇太が五味でなく中原を演じることは可能だが、中山優馬が五味を演じることは無理であろう。中山の演技スタイルがそれだけ中原に合っているということでもあるのだが。
金井の実力を改めて知ることになる舞台であった。
「岡山の奇跡」と呼ばれる桜井日奈子。正直「奇跡」というのは褒めすぎのように思われたのだが(橋本環奈が「1000年に一人の逸材」と呼ばれていた頃に桜井も登場している)、女優としての資質にはかなり高いものが感じられ、将来が楽しみな存在である。
演技スタイルは基本的に新劇のものが用いられていたが、夢の遊眠社出身の佐戸井けん太が新劇のスタイルで演技すると実に巧み。セリフよりも仕草で語らせる細やかな演技が見事であった。
中原淳一の命日ということで、抽選で6名の方にひまわりの花がプレゼントされる。なんでも、6というのは美を象徴する数字だそうだ。更に来場者全員にひまわりの種がプレゼントされた。
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