観劇感想精選(216) ジョン・ケアード演出 内野聖陽主演 「ハムレット」
ホレイショー役の北村有起哉以外は全員が複数の役をこなすという演出。クローディアスと先王ハムレットの亡霊は同一の役者が務めることが多いが、その他の役を複数という上演は珍しい。
舞台下手に客席が設けられており、舞台上特設席となっている。舞台は八百屋飾りであり、上手奥から下手手前に向かって傾斜がついている。舞台上手にも椅子があり、出番を待つ俳優が座っていたりする。音楽と尺八演奏担当の藤原道山もここで演奏を行う。
一般の客席からは舞台を観るというよりも、「ハムレット」の上演が行われている劇場を別の角度から観るという趣になる。新たなる視座からの「ハムレット」だ。劇中劇があることで有名な「ハムレット」であるが、ジョン・ケアードの演出により、更なる入れ子構造となった。
まずホレイショー役の北村有起哉が登場する。舞台中央に進んでしばし佇み、舞台床へと手をやる。他の俳優が全員登場。北村有起哉演じるホレイショーが手を置いたところから光が溢れ、「あるか、あらざるか」という声が聞こえる。「To be,or not to be」が今回の松岡和子訳ではこの言葉になっている。「To be,or not to be」がハムレットのセリフのみでなく、劇全体への問い掛けとして響くのである。
その後、これまた自己への問い掛けのような「誰か?」という通常の「ハムレット」の最初がセリフが発せられる。
内野聖陽のハムレットということで、男くさいものを予想していたのだが、それとは大きく異なる、若々しくてナイーブだが線が細いわけではないという独特のハムレット像を生み出している。
貫地谷しほりも早いものでもう三十路を越えたが、可憐さがオフィーリア役に良く合っている。ただ時折、「演じすぎなのでは」と思える場面もあった。狂気のオフィーリアの場面では良い演技をしてくれたように思う。
國村隼のクローディアスは悪役的でも怜悧な雰囲気でもないが、人間臭さを感じられるところが魅力的である。
舞台上で俳優が羽織っているものを取ったり、仮面を被るなどして別人に変わるため、「演じる」という行為に、より注視することが出来る。ハムレットは「復讐」という役割を与えられた男だ。そして役者というのは皆、役割を与えられた者でもある。ハムレットが役者を丁重にもてなすのも、そう考えれば納得出来る。
「ハムレット」の謎の一つとして、「ハムレットは何故いつまで経っても復讐を行わないのか」というものがある。「臆病だから」「悩む性格(ハムレット型性格)だから」という考えもあるが、ポローニアスをなんの躊躇もなく刺し殺しているところから、これは当たっていないと思われる。ならば復讐できない理由があるのではないかと思うのが自然である。
ハムレットはガートルード(浅野ゆう子)の貞操観念の欠如に失望を覚えている。そのため愛するオフィーリアには「母親のような淫らな女になって欲しくない」ということで「尼寺(今回の上演では「尼僧院」)へ行け!」と語る。つまり母親のガートルードもハムレットの目にはクローディアスと同様、罪深き存在と映っているようである。また、ハムレットのセリフに「夫婦は一心同体」というものがある。ハムレットにとってはガートルードも先王ハムレットを卑しめる存在であり、クローディアスと同罪なのだろう。ということはハムレットはガートルードも殺害しなければならないのだが、実母を殺すことは心情的にも倫理的にも不可能である。ということで、ガートルードが死ぬことでようやく「母親殺し」のスティグマ回避がなされてクローディアスを討つことが可能になるのだ。この「母親殺し」をハムレットが無意識では感じているものの、はっきりとは自覚していないため、「謎」を生んだのだと予想される。自覚されていないため、「復讐者」の役を上手く演じられない自身をハムレットが嘆くシーンにおいてもハムレットはその原因を己の演技力の不足としか捉えられていない。
ハムレットとレアティーズ(加藤和樹)の決闘は、フェンシングや剣術で行われることが多かったのだが、今回は棒術で行われる。内野聖陽と加藤和樹の殺陣も見事だった。
内野聖陽はハムレットの他にノルウェーの王子・フォーティンブラスも演じるのだが、フォーティンブラスの父親もフォーティンブラスという名前であることから、二世という意味でハムレットとフォーティンブラスは重なっており、その重なりが意図的に見えるように演出されているように思われる。
ホレイショーはデンマーク王室で起こった物語を伝えるために生きることを決めるのだが、今回の舞台の内容を人に伝えるのは今日客席にいる人々ということで、ホレイショーは観客の代理人という役割を担っているのだと思われる。一番最初に舞台に現れ(この舞台が「ホレイショーの語る『ハムレット』であることを示唆していると思われる)、最後に一人で舞台を去るのは「全てを観て語るため」なのだろう。ホレイショーを演じる北村有起哉だけ一役なのは「単一の視座の確保」のためだと思われる。
カーテンコールは3回。3回目はオールスタンディングとなり、10年前の大河ドラマ「風林火山」のコンビである内野聖陽と貫地谷しほりが喝采を浴びた。
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