観劇感想精選(218) 白井晃演出 「春のめざめ」
ドイツの中等教育というと、ヘルマン・ヘッセの小説『車輪の下』を連想する方が多いかも知れないが、「春のめざめ」の初演と『車輪の下』の発表は同じ1906年である。「春のめざめ」の戯曲の方が出来たのは先で、1891年に書かれた戯曲であるが、その過激な内容ゆえ15年の間、発禁とされていたのだった。
KAAT 神奈川芸術劇場の製作。演出:白井晃。出演は、志尊淳(しそん・じゅん)、大野いと、栗原類、あめくみちこ、河内大和(こうち・やまと)、那須佐代子、大鷹明良(おおたか・あきら)ほか。音楽:降谷建志。
演出の白井晃に取って、京都は挫折と再生の地である。大阪生まれの白井晃は大阪府立天王寺高校時代には京都大学を目指していたが、入試に失敗。立命館大学には合格し、入学金と学費は払うが通うことはほとんどなく、京大のそばに下宿して翌年の京大受験に備えて勉強を続けていた。そんなある日、早稲田大学の演劇サークルが京都公演を行うこと知った白井は観に行って感激。「彼らと共に演劇がしたい!」と志望校を早稲田に切り替えて今に至るまで演劇活動を続けている。
だから京都公演を行うということではないかも知れないが、京都で上演を行ってくれるのはありがたいことである。
開場時からすでに客席通路には男性のアンサンブルキャストが立っており、劇場内全てがギムナジウムの中という設定であることがわかる。中央通路の上手側入り口(今日は一般客には閉鎖されている)付近には白井晃が立っているのも確認出来た。開演時間が近づくと、栗原類など主役クラスの俳優も客席通路に現れ、女子生徒役の女優も姿を見せる。
舞台は2階建て。背面にはアクリル板が立てられており、照明の当て方によって鏡の役割を果たしたり、透明になったりする。
出演者が横一列に並び、照明が変わると一様に激しく暴れ出す。青春期の疾風怒濤を表しているかのようだ。
なお、アクリル板には白い液体が塗りつけられるが、それがなんのメタファーかはすぐにわかるようになっている。
ポストトークで白井晃は舞台美術について、生徒達がガラスケースに閉じ込められた実験動物をモチーフにしたと明かしていたが、私にはそこは「出口のない戦いの場所」のように見えた。
ギムナジウムの女子部に通うヴェントラ(大野いと)は、「こんな丈の長いスカートはけない!」と母親(あめくみちこが演じている)に文句を言っている。ヴェントラは女に生まれた喜びを噛みしめているが、どうして子供が生まれるのかはまだ知らない。
一方、ギムナジウムの男子部に通うメルヒオール(志尊淳)は頭脳明晰でありながらそのエネルギーをどこに向ければいいのかわからず、悩んでいた。メルヒオールの親友であるモーリッツ(栗原類)は成績不振であり、進級できるかどうか微妙である。ギムナジウムは全員が進級できるわけではなく、落第者が一人は出る仕組みになっているようだ。モーリッツは競争に耐えられず、アメリカに渡ろうと考えている。
そんなモーリッツにメルヒオールは「子供の作り方」を教えるのだった。
青春の身もだえるような日々が、直截な表現で叩きつけるように描かれている。
若い出演者達の演技は十分とはいえないも知れないがエネルギーがあり、ベテラン陣には安定感がある。
私はもう、青春の日々からは大分遠ざかってしまったため、痛切さという意味では若い人達に比べると感じにくくなっているのかも知れないが(なんといっても14歳の子供がいてもおかしくない年であり、彼らを抑圧する親や社会の側に立つような年齢である)、第2次ベビーブーマーという抑制が多い世代を生きた者として、往時を思い返すとその「痛み」に胸が苦しくなるのをまだ思い出すことも出来る。
ラストには機械仕掛けの神を模したと思われる謎の人物が登場し、未来への希望と怖れを含みつつ芝居は終わる。
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