コンサートの記(323) パスカル・ロフェ指揮 NHK交響楽団京都公演
午後7時から、京都コンサートホールで、NHK交響楽団の京都公演を聴く。
NHK交響楽団の京都公演を聴くのはおそらく10年ぶり。スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮の公演を聴いて以来である。その間、大阪や東京ではN響の演奏会を聴いているし、Eテレでの放送も見ているが、京都での演奏会は聴いていないはずである。
今回の指揮者は、フランスの中堅であるパスカル・ロフェ。比較的有名なピアニストであるパスカル・ロジェに名前が似ているが別人である。普通、名前が違ったら他の人ではあるが(二つ以上のペンネームや芸名を使い分けている人は存在する)。
パスカル・ロフェは1960年、パリ生まれ。パリ国立高等音楽院を卒業後、1988年にブザンソン国際指揮者コンクールで優勝し、その後、現代音楽演奏専門の集団であるアンサンブル・アンテルコンタンポランを指揮した現代音楽の演奏で活躍。2014年9月からフランス国立ロワール管弦楽団の音楽監督に就任予定である。大阪フィルにも客演したことがあり、お国ものであるフランス音楽の演奏を私も聴いている。
今日のコンサートマスターは、N響ソロ・コンサートマスターの堀正文。
8月は、日本や世界の各地で音楽祭などが行われる時期であり、祝祭オーケストラのメンバーとして参加したり、学生やアマチュアの指導を行ったりする楽団員もいるはずである。N響のオーボエには茂木大輔と池田昭子(いけだ・しょうこ)という二人の有名奏者がいるが、今日は二人とも降り番。私がNHK交響楽団の定期会員だった頃に比べると知っている楽団員も少なくなっている。今日いるメンバーの中で私の知っている奏者は堀正文以外では、第2ヴァイオリンの大林修子(おおばやし・のぶこ)、チェロ首席の藤森亮一(茂木大輔が書いたエッセイを読むと、90年代には「藤森大統領」という渾名で呼ばれていたことがわかる。ペルーのアルベルト・フジモリ大統領の失脚以後もその渾名のままなのかは不明)ぐらいであろうか。なお、藤森亮一夫人であるチェロの向山佳絵子(茂木大輔のエッセイによると、渾名は「向山奥様」)は、以前はソリストであったが、昨年の7月に夫婦揃ってとなるNHK交響楽団の首席チェロ奏者に就任している。向山は今日は降り番である。
ホルンの松崎さんも樋口さんも、クラリネットの磯部さんも、オーボエの北島さんも、ティンパニの百瀬さんも、皆、定年退職などで退団されてしまった。
曲目は、ドヴォルザークのチェロ協奏曲(チェロ独奏:堤剛)とチャイコフスキーの交響曲第4番。
NHK交響楽団によるチャイコフスキーの交響曲第4番というと、指揮者のアシュケナージが演奏会の前半に指揮棒の先で手を突いてしまい、メインであるこの曲を指揮することが出来なくなったため、オーケストラのみで演奏することになったことが思い起こされる。また、シャルル・デュトワの指揮でDECCAにレコーディングを行った2枚のCDのうちの1枚のメインがチャイコフスキーの交響曲第4番であった。
ドヴォルザークのチェロ協奏曲。ソリストの堤剛は、日本チェロ界の大御所的存在であり、齋藤秀雄に師事しているが、齋藤秀雄に指揮ではなく、チェロを学んだということからも年齢が感じられる(齋藤秀雄は指揮の教育者や指揮者活動に入るまではチェロ奏者であった)。インディアナ大学に留学し、ヤーノシュ・シュタルケルにもチェロを学んでいる。カザルス国際コンクールで優勝後、ソリストとして活躍。母校であるインディアナ大学のチェロ科教授を経て、2004年から2013年までやはり母校である桐朋学園大学の学長を務め、現在はサントリーホールの館長でもある。2009年に紫綬褒章受章、2013年に文化功労賞に選出されるという、とにかく偉い、日本チェロ界の徳川家康のような人である。
当然ながら主導権は堤が握る。堤は緩急自在の表現をするため、ロフェとN響は合わせるのに苦労しているようだった。
ドヴォルザークのチェロ協奏曲は、ドヴォルザークがアメリカのナショナル音楽院の学院長として渡米していた時期に書かれたものであり、チェコへの郷愁が色濃く出ている作品であるが、堤のチェロはしっとりとした音色でノスタルジアをいや増しに増すものである。
ロフェの指揮するN響であるが、ドヴォルザークのチェロ協奏曲に相応しい渋い音色を出す。音の張り、立体感ともに見事で、やはり日本ナンバーワンオーケストラの座は揺るがない。
堤は、アンコールとして、パブロ・カザルスが編曲して良く演奏したことで知られるカタルーニャ民謡の「鳥の歌」を弾く。平和への祈りに満ちた、良い演奏であった。
チャイコフスキーの交響曲第4番。ロフェは今日は前半、後半ともにノンタクトで指揮する。極めて明快な指揮であり、奏者はロフェの腕の動きをなぞるように演奏すればOKである。明晰で知的なアプローチであるが、チャイコフスキーの交響曲第4番には運命の過酷さや悲しみがそのままに書かれているため、ドラマティックに演奏しようとすると大袈裟になりすぎる可能性があり、ロフェのような客観的な姿勢を取った方がチャイコフスキーの心境が惻惻と伝わってくるようだ。実際に、チャイコフスキーの交響曲第4番の第1楽章を生で聴いて、これほど胸が締め付けられるような思いがしたのは初めてである。
第2楽章の憂鬱な表情、第3楽章(弦楽がピッチカートのみで演奏することで有名である)のリズム感の出し方も見事であり、ロシア民謡「小さな白樺」の旋律が用いられることで知られる最終楽章もラストで不安定な音型が徐々に安定したものへと変化していく過程がはっきりわかるように表現されていた。
ドヴォルザークでは渋い音色を出していたN響であるが、チャイコフスキーではそれに相応しいヒンヤリとした音色で演奏する。
90年代のN響には「パワーはあるがそれほど器用ではない」というイメージを持っていたが、独墺系以外の指揮者をシェフに招き続けたことで音色や表現に多彩さが生まれたようである。
アンコールはドヴォルザークの「スラヴ舞曲」第1番。ロフェが一ヶ所振り間違えて音が弱くなってしまったところがあったが、それ以外は快活な優れた演奏であった。
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