悲運の天才指揮者 クラウス・テンシュテット
※この記事は2018年1月11日に書かれたものです。
1998年1月11日、旧東ドイツ出身で、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督として一時代を築いた名指揮者、クラウス・テンシュテットが死去した。71歳と、指揮者としては若くしての死であった。
1926年、ドイツのメルゼブルクに生まれたクラウス・テンシュテット。最初はヴァイオリンを学び、ドイツのハレ歌劇場のコンサートマスターとして活躍したが、指の病気に罹患し、ヴァイオリニストとしての道を諦め、指揮者に転身する。ハレ歌劇場の指揮者を経て、東ドイツ国内の歌劇場の音楽監督を歴任。東ドイツでの活動は順調であったが、旧東側の常として様々な制約があり、不満を抱いたテンシュテットは1971年に西側に亡命。西側諸国で確かな表現力による演奏を行い、間もなく「50代の大型新人指揮者」と呼ばれるようになり、一気に注目を集める。時を追うごとにその強烈な音楽性は評価を高めていき、「帝王」ヘルベルト・フォン・カラヤンの眼鏡にかない、「カラヤンが直々にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の次期芸術監督に指名するのではないか」という噂が絶えないようになる。
1983年、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任。ロンドンでのテンシュテットの評価は極めて高く、「オットー・クレンペラーの再来」という最大級の賛辞を受ける。「ロンドン・フィルの演奏会はテンシュテットの指揮以外では客が入らない」とまでいわれるようになっていた。ちょうど、80年代にロンドンで暮らしていた友人が、ロジャー・ノリントン指揮のロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会を聴きに行こうとしたところ、ホールの近くにいたイギリス人に、「You Know? You Know?」となんども聞かれたそうである。「テンシュテットの指揮じゃないんだぜ、お前、本当にわかってるのか?」という意味である。テンシュテットがいかにロンドン市民から敬愛されていたかがわかる。
そんなテンシュテットであるが、アルコール中毒だったようで、リハーサルも常にウィスキーの小瓶を忍ばせていて、リハーサルが上手くいかなくなると指揮台の上でウィスキーをラッパ飲みしていたという話が伝わっており、それが悪影響をもたらしたのか、喉頭がんに侵されるようになる。
1987年にテンシュテットはロンドン・フィルの音楽監督を辞任。ロンドン楽壇は火が消えたようになり、「テンシュテットのいないロンドン・フィルは、ミック・ジャガーのいないローリングストーンズのようだ」という言葉が新聞紙上に踊った。
その後、癌の状態が好転して指揮台に復帰しては悪化して静養に戻るという細切れの演奏活動が続くも、癌の転移によって動くことすら制限されるようになり、1998年1月11日に他界。十二分な実力に恵まれ、「これから」というときに病魔に倒れたテンシュテットは「悲劇の天才指揮者」として今も音楽ファンの脳裏にその雄姿が焼き付けられている。
テンシュテットの代名詞ともいうべき得意レパートリーはマーラー。レナード・バーンスタインらと共に、現代を代表するマーラーのスペシャリストとして著名であり、ロンドン・フィルと「マーラー交響曲全集」をEMIに録音。その後、ライブ録音による全集も出たほか、シカゴ交響楽団との「巨人」なども激賞されている。
生前は、ベートーヴェンの演奏などは必ずしも高くは評価されていなかったが、死後にBBCレーベルとLPOレーベル(ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団自主製作盤)から出た2種の第九はいずれもデモーニッシュな名演であり、録音史上に冠絶する第九としてベストセラーを記録。テンシュテットの名声は死後においてより高まった趣すらある。
テンシュテットの名盤としてまず挙げたいのは、バイエルン放送交響楽団を指揮したブルックナーの交響曲第3番「ワーグナー」(Profile)。ワーグナーに捧げられたためこうしたニックネームをもつこの曲の歴代の演奏の中でトップをうかがう出来である。
そのワーグナーでもベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した管弦楽曲集をリリースしており、録音に多少問題があるものの好演を示している。ロンドン・フィルハーモニーとの演奏では、LPOレーベルから放送用音源を基にしたワーグナー演奏も21世紀に入ってからリリースされ、その完成度は多くの音楽ファンを驚かせることになった。
そしてベートーヴェンの第九。先に書いた通り放送音源からCD化されたものが2種類出ているが、いずれも音像の背後に、得体のしれぬエネルギーが満ち満ちたもので、フルトヴェングラーやトスカニーニなど、大巨匠の時代の第九に繋がるものが感じられる凄絶な演奏となっており、必聴である。
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