ジャン・シベリウスのいる光景
※ この記事は2017年12月8日に書かれたものです。
音楽史上を代表する交響曲作曲家であるジャン・シベリウスが生まれたのは、1865年12月8日のことだった。彼が生を受けたのは、フィンランドのハメーンリンナ。だが、当時、フィンランドはロシアの統治下にあった。
フィンランドの国情も複雑だった。国民の大半はフィン人であったが、政治や文化を担っていたのは少数のスウェーデン系フィンランド人であり、公用語もスウェーデン語だった。シベリウスが生まれたのは、そのスウェーデン系フィンランド人の家系である。
幼い頃のジャン少年(ジャンというのは一種の芸名であり、出生名はヨハネ、愛称はヤンやヨハネである)は自然とヴァイオリンが大好きであり、ヴァイオリン片手に野山を駆け巡るのが何よりも好きだった。一方で、勉強には余り身が入らなかったようで、小学生の時に一度留年している。
フィンランドの民族的高揚が高まっている時期、シベリウスもスウェーデン語の学校からフィンランド語の学校に移って勉強を続けることになる。もっとも、シベリウスは生涯、フィンランド語をスウェーデン語同等に扱うことはできなかったのだが。
ヘルシンキ大学とヘルシンキ音楽院に進んだシベリウス。ヘルシンキ大学では法学部に入ったが、法律の教科書のページを開くことはほとんどなく、ヘルシンキ音楽院に入り浸って作曲とヴァイオリンの演奏に没頭する。ちなみにヘルシンキ音楽院は現在、校名をシベリウス・アカデミーに変えている。
シベリウスの夢は偉大なヴァイオリニストになることだった。だが、子供の頃からヴァイオリニストになるための教育を受けていたわけでもなく、また人前で極端に上がってしまうという性格であったため、ヴァイオリニストになることは断念せざるを得なかった。一方で作曲には熱心に取り組む。ウィーン留学時には、当時、交響曲作家としては全く認められていなかったブルックナーの作風に心酔。弟子入りしようとして断られたりしている。ブルックナーへの弟子入りが叶わなかったシベリウスはゴルトマルクに師事した。
フィンランドには民族的叙事詩「カレワラ」がある。シベリウスは、この「カレワラ」に基づくカンタータ的交響曲であるクレルヴォ交響曲を発表。作曲家としての第一歩を記す。
シベリウスが注目を浴びたのは、「新聞の日」という愛国的イベントのための曲を作曲した時であった。ラストの曲は後に「フィンランディア」というタイトルで知られるものである。
「フィンランディア」は加筆されて交響詩となり、フィンランドの独立への情熱を代弁するものとして熱狂的に受け入れられた。
こうして作曲家として順調なスタートを切ったシベリウスは美しきアイノ夫人を得て、私生活も充実していく。
交響曲第1番の成功を受けて、発表された交響曲第2番は第4楽章が「フィンランド人の意識の高揚と凱歌」と受け取られ、熱狂的な支持を受ける。現在も交響曲第2番はシベリウス最大のヒット作である。
社会的な成功を得たシベリウスだが、生活面では問題を抱えていた。とにかく浪費家だったのである。酒と煙草と芸術を愛してそれらのための金に糸目を付けないシベリウスは多額の借金を抱えるようになる。
見かねた友人たちの助言を受け入れて、シベリウスはヘルシンキを去ることになった。新たな生活の基盤はヘルシンキの北、湖に面した場所にあるヤルヴェンパーである。ここにシベリウスはアイノ夫人に由来するアイノラ荘を建てて、作曲に専念。この頃から作風は明らかに変化する。
シベリウスが癌の宣告を受けたのは、1908年、43歳の時だった。喉に腫瘍ができ、咽頭癌を疑われたのだ。腫瘍は良性で、摘出手術を受けて完治するが、この時の絶望は交響曲第4番に色濃く表れている。
交響曲第4番は、1911年に、作曲者自身の指揮によって初演されたが、これが一大事件となる。その内省的な作風に聴取は大いに戸惑い、「客席にこの曲の内容を理解できた人がほとんどいなかった」と評されるほどであった。アメリカ人の音楽評論家が、「酔っぱらいのたわごと(ちなみにこの時期、シベリウスは断酒していた)」と切り捨てる一方で、イギリスの音楽評論家であるセシル・グレイは、「無駄な音が一つもない」と絶賛。後にグレイはシベリウスのことを「ベートーヴェン以降最大のシンフォニスト」と評することになる。
その後のシベリウスの作曲活動は順調だった。ある時までは。
1923年、シベリウスは交響曲第6番、第7番、交響詩「タピオラ」を発表する。そしてその後、沈黙の時期に入ってしまうのだ。これが有名な謎となっている「シベリウスの晩年の沈黙」である。
作曲を続けていた形跡はある。交響曲第8番の初演は何度もアナウンスされたが、そのたびごとに延期された。シベリウス本人や娘の証言によると交響曲第8番は一度、もしくは数度完成した。しかし出来に満足しないシベリウスによって総譜は暖炉にくべられたという。
シベリウスはその後、作曲家としての正式な引退宣言を行う。書痙が原因とされるが、無調音楽などの台頭に失望したという説もある。
日本は、フィンランド本国、イギリス、アメリカなどの並び、シベリウスの演奏が盛んな国である。渡邉暁雄という世界的なシベリウス指揮者が活躍しており、渡邉の没後も指揮者の尾高忠明らがシベリウスを盛んに演奏している。
シベリウスを代表する曲としては、まず問題作でもある交響曲第4番を挙げたい。絶望や孤独といった意識がこれほど純粋に音化された曲は他に例を見ない。
他にお薦めの交響曲としては、第6番と第7番がある。いずれも神秘的にして純度の高い音世界が繰り広げられており、音楽好きにとってこの上ない音の宝となっている。
小品としては「悲しきワルツ」を推したい。この曲は世界的指揮者であるパーヴォ・ヤルヴィのアンコール演奏の定番となっているため、今後も聴く機会は多いだろうと思われる。
「シベリウスの音楽には人がいない」といわれている。その音光景の中に人物が存在しないという意味なのだが、本当にそうなのだろうか。
日本人的な意識に立ってみれば、音に見える自然風景の中に人間が溶けているように思える。西洋においては自然と人間は対立項であるが、日本ではそうではない。
シベリウスの光景は、徹底して自然が描かれているがゆえに最も人間的であると言っても良いのではないだろうか。
| 固定リンク | 0
コメント