月と文化
※ この記事は2017年12月4日に書かれたものです。
「月見れば千々にものこと悲しけれ 我が身一つの秋にはあらねど」(大江千里。おおえのちさと)
「嘆けとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな」(西行)
昨夜、12月3日の満月は、スーパームーンといって特別に大きな月でした。
私は深草にある京セラ美術館に行った帰りにスーパームーンを見ましたが、東山の山の端に鎮座まします満月は威厳があるというか、主張が強いというか、とにかく独特の風情がありました。
月は、人類の歴史において、常に特別な存在であり続けました。
日本においての月の神様は、月読神です。物静かな神様なので、姉の天照大神(太陽神)、弟の素戔嗚命(元々は海の神)に比べると地味な印象ですが、伊勢の月読宮は立派な社ですし、京都・松尾の月読神社(松尾大社摂社)は、安産の神様として、厚い信仰を集めています。
月は満ちてはかけるため、気まぐれな性質の象徴となっており、ギリシャ神話のヘカテーは、後世、魔女として扱われることになりました。
月にまつわる話として日本で有名なのは、なんといっても「竹取物語」。月に帰っていくかぐや姫の物語です。
さて、このかぐや姫の性格を「満ちては欠ける月のように気まぐれで、どうしようもなくわがままな箱入り娘」とする解釈がありますが、それにはどうしても承服できかねる部分があるので、独自の解釈を示してみたいと思います。
かぐや姫を月の国からのスパイだと仮定してみましょう。彼女は日ノ本の国での情報収集のために遣わされました。さて、見目麗しい赤子としておじいさんに拾われ、この国で生活するための基盤を築きますが、その美貌が災いして、多くの美男子より求婚されることになります。結婚してしまったら任務を遂行することも月に帰ることも叶わなくなってしまう。そこでかぐや姫は求婚者たちに絶対に実現不可能な要求を突きつけます。達成されることはないので結婚に漕ぎつけられることはないだろうし、相手を傷つけず、無理なく結婚の申し込みを断ることが出来る。それでも向う見ずにも宝を探すための危険を冒して命を落としてしまう者や、嘘をついて宝物を獲得できたなどの吹聴する輩が出てきてしまうわけですが、これはかぐや姫側の問題というよりも求婚者の浅ましさと見るべきでしょう。かぐや姫は放恣な性格のとんでも女ではなく、思慮深く相手思いな女性だったように思われます。
かぐや姫が月に帰る場面でも、多くの人が「月には返すまじ」と戦っているので、彼女は人々からあたかも月そのもののように愛されていたことがうかがえます。
最後に、月に対する大和心を表していると思われる、吉田兼好の『徒然草』からの一説を紹介して締めたいと思います。
「長月廿日の比、ある人に誘はれたてまつりて、明くるまで月見ありく事侍りしに、思し出づる所ありて、案内せさせて、入り給ひぬ。荒れたる庭の露しげきに、わざとならぬ匂ひ、しめやかにうち薫りて、忍びたるけはひ、いとものあはれなり。
よきほどにて出で給ひぬれど、なほ、事ざまの優に覚えて、物の隠れよりしばし見ゐたるに、妻戸をいま少し押し開けて、月見るけしきなり。やがてかけこもらましかば、口をしからまし。跡まで見る人ありとは、いかでか知らん。かやうの事は、ただ、朝夕の心づかひによるべし。
その人、ほどなく失うせにけりと聞き侍りし」
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