コンサートの記(362) 広上淳一指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第399回定期演奏会
2006年6月15日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて
大阪へ。ザ・シンフォニーホールで大阪フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会を聴く。今回の指揮者は広上淳一。卓越した表現力が魅力の指揮者である。
プログラムは、武満徹の「弦楽のためのレクイエム」、グヴァイドゥーリナのフルート協奏曲「希望と絶望の偽りの顔」(フルート独奏:シャロン・ベザリー。日本初演)、ロベルト・シューマンの交響曲第3番「ライン」。
「弦楽のためのレクイエム」はもとから予定されていた曲目だが、先日亡くなった岩城宏之氏と、今朝亡くなった佐藤功太郎氏という二人の指揮者のため、特別に追悼曲として演奏された。純粋なコンサートピースとしてではなく、追悼曲、鎮魂曲として演奏される曲は、前後に拍手をせず、死者の冥福を祈るというのがマナーである。
しかし今回は、プログラムに「弦楽のためのレクイエム」を追悼演奏とする旨が書かれた紙は挟んであったものの、事前のアナウンスがなかったため、広上氏が演奏の主旨を述べて指揮棒を振り始める前と演奏後に拍手が起こってしまった。会場には当然ながらコンサートビキナーもいる。マナーを知らない人のためにも事前のアナウンスは必須のはずなのだが。
10年前の3月。NHK交響楽団の定期演奏会で、その年の2月20日亡くなった武満徹追悼のために、やはり「弦楽のためのレクイエム」演奏された(ハインツ・ワルベルク指揮)。この時はアナウンスがあったため、演奏前にも後にも拍手は起こらず、日本を代表する作曲家の逝去を悼む雰囲気がNHKホールを満たしていた。
グヴァイドゥーリナはロシアの作曲家。現代の女流作曲家としては最も著名な人物である。フルート協奏曲「希望と絶望の偽りの顔」は2005年5月に世界初演が行われたばかりの新曲。今日、フルート独奏を務めるシャロン・へザリーのために書かれている。
フルートは通常のフルートの他に、アルト・フルート、バス・フルートの2本を加えた3本が交代で吹かれる。
まずティンパニを始めとする打楽器群がプリミティブな迫力に満ちた音で会場を満たす。日本人である私の耳にはまるで陣ぶれの太鼓のように聞こえる。そしてフルートの独奏が入るのだが、これも日本人である私には、戦を前にして、武将が一人、瞑想しながら吹いている笛の音に聞こえる。
現代音楽は一回聴いてわかるものは少ないので、こちらで勝手にイメージを膨らまして聴いた方が面白い。
そうするうちに、騎馬が疾駆しているようなリズムが現れる。広上の指揮姿も独特であり(指揮というより何かのスポーツをしているように見える)、こちらのイメージ展開に拍車をかける。
弦楽の響きはあたかも武満作品のよう、というより明らかに武満の影響を受けているのがわかる。広上さんもそれが故に、武満作品とこの曲をセットでプログラミングしたのだろう。
そして音が激しさを増し、あたかも戦いを描いているような音楽世界が拡がっていく。
音楽はその後、内省的になるが、これは夜になって休戦しているようにも聞こえるし、夜討ちの機会を窺っているようでもある。
夜が明け、城攻めが始まる(もちろん、これは私のイメージでしかない)。ラストのチェレスタの独奏は、炎上する天守の上を、地上のことは我関せずとばかりに優雅に舞う鳥を表現しているかのようだ。
と恣意的な想像をしてみた。作曲者の意図は別にあるのだろうが、音楽自体はイメージ喚起力豊かであり、独自の解釈で楽しむことの出来るものだった。映画好きや、小説を読んでイメージを膨らませることに慣れている人はこういう曲は好きだろう。
もちろん、そういう人ばかりではないので、演奏中眠っている人もいたし、演奏終了後にブーイングをする人もいた(奏者にではなく曲に対して起こったブーイングだろう)。
メインであるシューマンの交響曲第3番「ライン」は実に爽快な演奏であった。とにかくオケが良くなる。ロベルト・シューマンの交響曲というと「憂いに満ちた」だとか「神経質な」と形容されることが多いが、広上のシューマンはそんな固定観念をあっさりと打ち破ってみせる。
テンポが速く、音色も明るく、健康的な演奏だ。大阪フィルはいつもホルンがやや弱いのだが、今日のホルンは朗々と響き渡る。
広上の指揮も「ユニーク」という言葉では足りないほど独特だ。指揮棒を溌剌と振り回していたかと思うと、両手を上に上げて喜びの表情を見せたり、空手チョップのような動きをしたり、首を左右に振り、更には指揮棒を手放してダンスのような動きで指揮台でステップを踏む。
ここまでくると指揮とは思えないほどだが、表現力は確かであり、腕のちょっとした動きで音楽のニュアンスを変えてみたり、単純な音型を魅力的なものに昇華したりと、現役日本人指揮者最高峰とも言われる実力をいかんなく発揮してみせる。
何よりも、広上自身が、音楽が面白くて面白くてたまらないという表情を見せるのが良い。見ているこちらの頬も緩む。
広上を見ているうちに、何故か名馬を自在に操る騎手の姿が目に浮かんだ。広上は背が低く、ずんぐりむっくり体型で、燕尾服を着た姿はペンギンを連想させ、騎手からは遠いイメージなのに不思議である。
| 固定リンク | 0
« コンサートの記(361) ヤープ・ヴァン・ズヴェーデン指揮ニューヨーク・フィルハーモニック来日演奏会2018京都 | トップページ | コンサートの記(363) 團伊玖磨 歌劇「夕鶴」2018西宮 »
コメント