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2018年5月27日 (日)

コンサートの記(392) 広上淳一指揮京都市交響楽団第623回定期演奏会

2018年5月20日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで京都市交響楽団の第623回定期演奏会を聴く。今日の指揮者は京都市交響楽団常任指揮者兼ミュージック・アドヴァイザーの広上淳一。

演目は、レナード・バーンスタインの交響組曲「波止場」、ショスタコーヴィチの交響曲第9番、バーンスタインの交響曲第2番「不安の時代」(ピアノ独奏:河村尚子)。バーンスタイン生誕100年記念といってもいいプログラムである。

開演30分前から広上淳一と京響シニアマネージャー代行兼チーフマネージャーの柴田智靖によるプレトークがある。4月からオーケストラの登場の仕方が変更になったため、プレトークの開始も10分早くなったそうである。アムステルダム・コンセルトヘボウでバーンスタインの助手を務めたこともある広上淳一。レナード・バーンスタイン(愛称:レニー)の弟子はとても多く、広上も、小澤征爾、大植英次、佐渡裕、大野和士らがレニーの弟子であることを紹介する。

ショスタコーヴィチの交響曲第9番であるが、交響曲第9番というのは作曲家にとって運命の数字でもある。ベートーヴェンが交響曲を9曲書いて他界したが、今では7曲ということになったものの以前の解釈ではシューベルトも9番まで、そしてブルックナーも9番まで書いて亡くなった。ドヴォルザークも今では初期交響曲にも番号が付けられて9曲までとなっている(私が小学生の頃の音楽の教科書には「新世界」交響曲の番号がまだ5番であった)。マーラーは交響曲第9番を書いたら死んでしまうのではないかと怖れ、9番目の交響曲には番号を付けず「大地の歌」とした。だが、結局は交響曲第9番を書くことになり、悪い予感が的中して、第9番が遺作となった。ということで特別な番号であり、ソビエト当局はショスタコーヴィチにベートーヴェンの第九に匹敵する曲を期待したのだが、ショスタコーヴィチはどちらかというとおちゃらけた感じの曲を書いてしまう。先にショスタコーヴィチとリヒテルによるピアノ2台版の試演会が行われ、放送によって世界配信されたのだが、ソビエトのみならず世界的な失望を買ってしまった。それでもエフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー交響楽団による初演は好評だったが、ジダーノフ批判を受けて、以後しばらくの間はショスタコーヴィチ作品のソビエト国内での演奏が禁じられてしまう。
広上によるとレニーはこの曲をしばしば取り上げていたそうで、その理由を「この世のあらゆるものが含まれているから」と説明していたそうである。なお、バーンスタインはこの曲をウィーン・フィルハーモニーを指揮してドイツ・グラモフォンにライブ録音しているが、今に至るまでこれを凌ぐ録音は出ていないと断言していいほどの名演である。

バーンスタインの交響曲第2番「不安の時代」の解説にはピアノ独奏の河村尚子も加わる。河村はこの曲の性質を「トリッキー」と語り、「常に黄色信号が出ていて、よそ見をしていると落とし穴に嵌まってしまう」と話す。日本人ピアニストの河村だが身振り手振りが大きく、ドイツで育ったことが現れていた。
河村と広上は7年前にオーケストラ・アンサンブル金沢の定期演奏会で、ヒンデミットの「四つの気質」で共演したのだが(私も金沢まで聴きに行った。調べたら6年前だったが、もうそんなになるのか)、バーンスタインはヒンデミットの音楽を高く評価しており、ヒンデミット的な要素をこの曲で取り入れたのではないかと河村は推理していた。

今日のコンサートマスターであるが、客演の須山暢大(大阪フィルハーモニー交響楽団コンサートマスター)が務める。フォアシュピーラーは泉原隆志。4月から京響のコンサートマスターは泉原の一人体制になったのだが、2度目の定期にして早くも客演コンサートマスターが入ってしまうという異様な事態になってしまっている。

バーンスタインの交響組曲「波止場」。エリア・カザン監督の映画のための音楽として書かれたものをコンサート用に編み直したものである。私が持っているレニー自作自演の「ウエストサイド・ストーリー」全曲版のフィルアップに交響組曲「波止場」自作自演(オーケストラはイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団)が入っているのだが、今もこの組み合わせで出ているのかどうかはわからない。
広上はバーンスタインについてクリーニング屋の息子で余り裕福ではなかったと語ったが、文献に基づくとバーンスタインの父親のサミュエル・バーンスタインは理髪店を営み、パーマネントのための機器を独自に発明した発明家でもあった。サミュエルは特許料で稼ぎ、アメリカン・ドリームの体現者となる。息子にも家業を継がせたいと考えていたサミュエルだが、息子のレナードは意に反して音楽家への道を歩むことになる。ハイスクールを卒業したレナードはカーティス音楽院かジュリアード音楽院に進みたかったのだがサミュエルがそれを許さず、妥協の結果、レナードはハーバード大学音楽学部に進学する。世界最高の大学ともいわれるハーバード大学だが音楽学部に関してはカーティスやジュリアードより格下。レナードは満足出来ずに、その後、カーティス音楽院で学ぶことになる。バーンスタイン親子の関係はその後も複雑であったようだ。
いかにも映画音楽的な楽曲である。最初のホルンで示されるテーマがその後、様々な楽器で繰り返される。盛り上がりの部分はこの楽曲の冒頭部分によく似ているが、偶然だと思われる。
広上と京響のコンビの充実が確認出来る好演であった。

ショスタコーヴィチの交響曲第9番。全曲の演奏時間が5楽章で25分程度と短いこともあり、軽めの楽曲と目されているが、ユーモラスな感じがするのは第1楽章と第5楽章のみであり、他はシリアスな音楽が続く。
古典的な造形といわれることもある。そういえば、ショスタコーヴィチと犬猿の仲といわれたプロコフィエフの交響曲第1番「古典」は古典的造形そのものだが、多分、関係はない。
レニーとウィーン・フィルによる演奏はスケール豊かな、悪くいうと肥大化した音楽であったが、広上と京響はタイトにしてパワフルというこの曲本来のスタイルを採用。推進力にも富んでいたが、この曲の苦み走った面を強調するのが広上らしい解釈である。

バーンスタインの交響曲第2番「不安の時代」。イギリス出身でアメリカに帰化した詩人のW.H.オーデンの長編詩に基づく交響曲である。オーデンの長編詩「不安の時代」は邦訳も出ており(日本語で読むと詩というより完全な物語文という印象を受ける)私も読んでみたことがあるのだが、長い上に余り面白くなかったので途中でリタイアしてしまった。
ピアノ独奏と含む交響曲という比較的珍しいスタイルを取っているが、宗教や思想の影響の強い交響曲第1番「エレミア」や交響曲第3番「カディッシュ」よりはわかりやすく、バーンスタインの交響曲の中ではおそらく最も演奏される機会が多いと思われる。初演はクーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団によって行われ、バーンスタインはピアノソロを受け持った。
この曲は、レナード・バーンスタイン指揮イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団盤(ピアノ独奏:ルーカス・フォス)、ジェイムズ・ジャッド指揮フロリダ・フィルハーモニー管弦楽団盤(ピアノ独奏:ジャン=ルイ・ストイアマン)などで聴いており、「いかにもアメリカ的な交響曲」という印象を受けたが、広上と京響の生む音色はどちらかといえばヨーロッパのオーケストラに近く、マーラーやショスタコーヴィチとの類似点が確認出来るのが興味深いところである。またそれによってシリアスで痛烈な印象も強まる。

日本の若手としてはトップクラスのピアニストとなった河村尚子(ただし音楽教育は全てドイツで受けている)。ハノーファー国立音楽演劇大学大学院ソリスト課程を修了。ミュンヘン国際コンクールで2位入賞、クララ・ハスキル国際コンクールでは優勝に輝く。今年は出身地の西宮市にある兵庫県立芸術文化センターでベートーヴェン・シリーズを行い、京都コンサートホール小ホール・アンサンブルホールムラタでもオール・ベートーヴェン・プログラムによるリサイタルを行う予定である。現在はドイツ・エッセンのフォルクヴァング芸術大学教授。東京音楽大学ピアノ科の特任講師として現在も大学のホームページに名前があるが、ページ自体が更新されていないので今はどうなっているのかわからない。
今日はピアノは蓋を取り払って指揮者と対峙する位置に据えられている。
色彩感豊かなピアノを弾く人であるが、今日は高音の豊かさに魅せられる。ピアノを弾いたことがある人ならわかると思うが、鍵盤の右端に近い高い音は基本的に痩せた音しか出ない。ただ、今日の河村の弾く高音はボリュームがあって美しいのである。どうやったらああした音を出せるのかわからない。
この曲ではジャズテイストの旋律が登場するのが特徴であるが、その語り口が上手くいっているのかは私にはよくわからない。私もジャズピアノは聴くが、いずれもクラシカルな要素が強いピアニストばかりだ。プレトークでの河村本人のコメントによると「ジャズは好きだがジャズを弾くのは初心者」だそうである。

ちなみに第1部おける変奏曲の主題はグレゴリオ聖歌の「怒りの日」の模倣のように思われるのだが、そういう指摘は今まで行われていないようである。


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