コンサートの記(409) 下野竜也指揮京都市交響楽団第625回定期演奏会
2018年7月22日 京都コンサートホールにて
京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第625回定期演奏会を聴く。午後2時30分開演。京都市交響楽団常任首席客演指揮者の下野竜也がタクトを執る。
曲目は、シューマンの「天使の主題による変奏曲」からテーマ(野本洋介編曲)、尾高惇忠のピアノ協奏曲(ピアノ独奏:野田清高)、ブルックナーの交響曲第1番(リンツ稿・ハース版)。
現代音楽とブルックナーの初期交響曲は不入りな演目の両巨頭(?)だが、今日は二つとも入っている。ということでチケットは売れず、下野も京響のFacebookページに載せられた映像でに「チケット売れてません。特に日曜日」と語っていたが、当日券売り場にもそれなりに人が並んでおり、演目からいえば入った方だと思える。
午後2時から下野竜也によるプレトークがある。下野は初演魔と呼ばれた岩城宏之の言葉を引用し、「昔に書かれたものは色々な録音が残っていて聞き比べが出来る。その面白さはあるが、今の時代に書かれたものを演奏することも演奏家の使命である」ということで、一昨年に書かれたばかりの尾高惇忠の曲を取り上げる意義について述べた。
ブルックナーの交響曲第1番は一般的に演奏される機会が比較的多いウィーン稿ではなくリンツ稿を今回は採用。リンツ稿は作曲された当時のスコアを基本にしたものであり、ウィーン稿は初演から四半世紀ほど経過してからブルックナー本人が加筆訂正を加えたものである。下野はスコアを文章に例え、「若い頃書いたものは未熟で文法的間違いがあり、月日が流れてから書き直すというのはよくあること」。ただし、若い頃の勢いで書かれた魅力も捨てがたいとしてリンツ稿を取り上げることにしたそうだ。ブルックナーは、「苦手な作曲家・嫌いな作曲家の1位の常連」と紹介し、同じようなことが繰り返されてドラマもないということで面白くないと取られることがあるが、そうしたものとは別の魅力、日々の細かな幸せが綴られたものというブルックナーの味わい方を説明していく。ハース版とノヴァーク版の違いであるが、ハース版の方がブルックナーのオリジナルの譜面に近く、ノヴァーク版の方が合理的に書かれていて採用する人も多いが、ブルックナー自身のスコアに近づけたいということでハース版を選んだと話した。
今日もコンサートマスターは客演で豊嶋泰嗣が入る。フォアシュピーラーに泉原隆志。第2ヴァイオリン首席も客演の長岡聡季が務める。オーボエの髙山郁子以外の管楽首席奏者はブルックナーのみの出演。
シューマンの「天使の主題による変奏曲」からテーマ。読売日本交響楽団の打楽器奏者である野本洋介の編曲である。下野竜也は読売日本交響楽団の正指揮者(下野のために特別に新設されたポスト。2006年から2013年まで務めた)と首席客演指揮者(2013-2017)を務めており、野本とは旧知ということで、下野が音楽総監督を務める広島交響楽団のために昨年書かれたもののようだ。
3分ほどの小品だが、シューマンらしいロマンティックな味わいがある。
尾高惇忠は、1944年生まれ。実弟は指揮者の尾高忠明、実父は作曲家で指揮者の尾高尚忠である。東京藝術大学作曲科を卒業。作曲を池内友次郎、矢代秋雄、三善晃に師事、ピアノを安川加寿子に師事している。1970年にパリ高等音楽院に留学し、作曲をモーリス・デュリュフレ、アンリー・デュティーユらに師事している。実父を顕彰する尾高賞を2度受賞したほか、別宮賞なども受賞している。
ピアノ協奏曲は、今日のソリストである野田清高のために書き下ろされたものである。
その野田清高は、東京藝術大学および大学院修士課程を修了後、ブラームスと20世紀作品を組み合わせたリサイタルを連続して行い、これが評価されて博士号を授与されている。現在は東京学芸大学准教授を務める。
ピアノ協奏曲は、2016年3月に野田のピアノ、広上淳一指揮日本フィルハーモニー交響楽団の演奏によりサントリーホールで初演され、同年7月には尾高忠明指揮札幌交響楽団、清水和音の独奏によりKitaraでも演奏されている。
チェレスタやジュ・ドゥ・タンブルなどを使った独特の大編成での演奏。ピアノ協奏曲ではあるが、ピアノも含めた全体の音響で聴かせる作品である。
第1楽章では低音がショスタコーヴィチ、高音がメシアンのような音楽で対比がなされ、第2楽章では武満徹にも通じるような音響とサティの「ジムノペディ第1番」を短調にしたような旋律が特徴的であり、第3楽章では同じ音型を繰り返すパワフルな音像が印象的な楽曲となっている。
ピアノの鍵盤を幅広く使う作品であり、野田清高のシャープな音楽性と力強い打鍵力が発揮されていた。
演奏終了後、客席にいた尾高惇忠がステージ上に呼ばれ、下野や野田と共に拍手を受けた。
ブルックナーの交響曲第1番。この曲のリンツ稿を聴くのはおそらく初めてになるはずである。
ブルックナーは若い頃はオルガン演奏の名手として鳴らし、特に即興演奏を得意としたが、交響曲に取り組んだのは比較的遅く、この第1番が完成したのは彼が42歳になる年であった。初演はその2年後にブルックナー本人の指揮によりリンツのプロアマ混成オーケストラのよってなされた。
ブルックナーというの素朴で野人というイメージであるが、初期の交響曲は当時のオーストリア楽団を意識した端正な趣もある。ただブルックナーの個性が従来の音楽の器をはみ出しており、そのことが如実にわかってしまうため、当時の聴衆に「異様」という印象を抱かれたことも想像される。
ブルックナーと得意とする下野竜也。ただ、今のところ、下野のブルックナーで名演と讃えられる水準に達したものはないように感じられる。堅固の構築力は感じさせるが柔らかさがなく、ミリタリー調になる傾向はある。
ただ今日の第1番は下野の個性に合っており、推進力やスケールの豊かさなどは十分で、秀演の領域には達したように思われる。曲も見通しの悪さはあるがブルックナーならではの発想があちこちで生きており、興味深い。京都市交響楽団の音色とパワーも十二分に発揮され、魅力的であった。
今日は客席にムスリムの女性、白人男性、北京語を話しているカップルなどがおり、国際色豊かである。
| 固定リンク | 0
« コンサートの記(408) 萩原麻未ピアノ・リサイタル 2018@大和高田さざんかホール小ホール | トップページ | コンサートの記(410) ユッカ=ペッカ・サラステ指揮 N響「夏」2018 大阪公演 »
コメント