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2018年7月17日 (火)

「Theatre E9 Kyotoオープニングプロジェクト・シンポジウム 民間劇場の公共性~京阪神の劇場~」

2018年7月4日 京阪なにわ橋駅アートエリアB1にて

午後7時から、京阪なにわ橋駅アートエリアB1で「Theatre E9 Kyotoオープンリサーチプロジェクト・シンポジウム 民間劇場の公共性~京阪神の劇場~」に参加する。京都の東九条に来年オープン予定のTheatre(イギリス式表記を採用しているようである)E9 Kyotoの現状報告と将来に向けてのシンポジウム。theatre E9設営計画の中心にいる、あごうさとし、蔭山陽太(共にアーツシード京都)と、大谷懊(神戸アートビレッジセンター館長、ArtTheater dbエグゼクティブ・ディレクター)、橋本匡市(ウイングフィールド)、繁澤邦明(シアトリカル應典院)といった大阪、神戸の劇場関係者らが参加する。


まず、京都の下鴨にあった小劇場・アトリエ劇研の閉鎖の経緯について説明がなされる。仏文学者の波多野氏の篤志によって1984年にアートスペース無門館としてオープンしたアトリエ劇研。ただ家主である波多野氏の高齢化により、昨年8月に閉鎖となった。ただ、波多野氏の年齢は90歳を超えているそうで、なぜ今の今まで新しい小劇場の建設が計画されて来なかったのか、強い疑問を感じる。アトリエ劇研自体、下鴨の高級住宅の中にあり、アクセス的には不便な場所である。近所に演劇人の拠点となる場所があるわけでもないため、アトリエ劇研は地域の住民から特に愛されたというわけでもないそうだ。演劇的には陸の孤島とでもいうべき側面があった。

小演劇は、日常生活において必要かといわれれば、必ずしもそうとは言い切れない。小演劇に限らず、生涯一度も演劇というものを観ずに過ごす人はかなりのパーセンテージを締めるはずである。そうした演劇から遠い人達に自分たちのやっていることを分かって貰うためには演劇人の方から歩み寄る必要があるのだが、そうしたことを積極的に行っている人を私は残念ながら知らない。

演劇が力を持つとすれば、日常の閉鎖性、牢獄的感覚を抱いている人に向けての場合である。「デンマークは牢獄だ」ではないが、「どこにも行けない日常」に倦み飽きている人々には、演劇の非日常性は「救済」である。私自身、詳しくは語らないが19歳の時にそれを強く感じる出来事があった。
日常と非日常が連続したものであるとして、ではその境目にあるものが重要なのかどうかについては、あるいは「YES」であり時には「NO」である。このことについては後で語る。

シンポジウムのタイトルが「民間劇場の公共性」であるため、まず出演者全員が「劇場もしくは演劇の公共性」についての意見を述べる。そもそも「公共性」とは何かという話からは入らないといけないが、「あまねく、全ての人のために」と定義すると、演劇は公共性から遠いものである。特に小演劇はキャパも小さく、そもそも万人向けにやりたいと思っていたら演じ手側からも小劇場は選ばれない。そして万人向けを狙えば間違いなく演劇の質は低下する。

神戸のArtTheater db(ダンスボックス)のディレクターである大谷懊がダンスボックスのある長田区について、「在日の方が多く、雑多である」ために劇場が受け入れられやすい場所であることを述べる。Theatre E9が出来る予定の東九条は戦後すぐにバラックが並び、京都0番地と呼ばれた場所であり、その後、京都市内のインフラ建設のための朝鮮半島出身の労働者が移り住み、コリアンタウンとなっている。そのために再開発の対象から外れ続け、京都市内でも飛び抜けて治安悪い場所となっている。そうした場所に観客を呼び込める勝算があるのかどうかというと微妙と言わざるを得ない。演劇人や演劇好きは来るだろうが、それではアトリエ劇研の時と何も変わらないか、むしろ悪くなる。日本は少子高齢化に入っているということもあって、演劇好き以外の人にも劇場に来て貰わないと発展は望めない。自閉的であっても鎖国的であってもなんとかなるということは昔からもなかったが今後はもっと通用しにくくなる。

ただ、多くの人を呼ぶという意味では公共性は勿論必要だが、それらは主題であってはならないとも思う。表現が社会におもねるようになったら終わりだ。我々は演劇が日常と地続きであることを求めない。公共性はあってしかるべきなのは通奏低音としてだと思う。

関西の劇場の現状について、毎日新聞大阪本社学芸編集部で演劇欄を担当した畑律江から報告がある。やはり阪神・アワジ淡路大震災の発生をきっかけに大きく変わっていったそうである。公立の劇場が多い関東に比べて、関西では私営の劇場が力を持っており、大阪ガスのOMS(扇町ミュージアムスクエア)や近鉄小劇場などでの演劇が盛んだったが、震災を機に本社を東京に移転する企業が増え、関西の企業のパワーも衰退して小劇場が次々閉鎖されていった。その後、なんばに精華小劇場が生まれ、大阪城ホールの倉庫がウルトラマーケットという劇場になって、大いに期待したそうだが、いずれの劇場も今は存在しない。
公立の劇場に関してであるが、演劇欄を担当した当初は、「基盤がしっかりしているので公立の劇場の方がいい」と思ったそうだが、職員が公務員であるケースが多いため、発案がなされても当の本人が異同のため数年でどこかに行ってしまうため軸のしっかりしたプロジェクトが生まれないという難点があることも語られる。そういう意味では、志やビジョンのしっかりした私営の劇場の方がまだ期待は出来るそうである。

そして劇場を運営されるための補助金の話になる。補助金を申請する際には、まず公共性が問われるそうだが、この公共性がやはり厄介だそうである。「そのことに税金を使うだけの理由」が問われるのだが、税金を使う理由を突き詰めていくとどうしても「上の人が望むもの」と作る必要が出てくる。果たしてそれが演劇にとって良いことなのか。
是枝裕和監督の映画「万引き家族」がカンヌでグランプリ(パルムドール賞)を取り、話題になったが、「助成金を受け取っていながら日本を貶める話を作った」という、「今、何時代?」と首をかしげたくなるような批判が起こった。公的な金を使うなら日本賛美の作品を撮るべきだということなのだろうが、こうなると完全にナチスとレニ・リーフェンシュタールの関係になってしまい、表現者の自殺を意味することになる。

日本センチュリー交響楽団のコミュニティ/教育プログラム担当マネージャーであり、豊中市立文化芸術センターのプロデューサーでもある柿塚拓真は、クラシックの音楽を演奏することにどう公共性があるのかを問われた場合、単に演奏を行うことを評価するのではなく、演奏をブラッシュアップすることで公共性が高まるという趣旨の発言をする。
「公共性」の中でも、どれだけ良い影響が与えられたのかについての「波及性」が問題になるそうだが、演奏の質が高まれば波及性が増すのはこれまでの例から見て確実であるように思われる。
演劇に関しても、上演を行うことにどう公共性があるのかというよりも、上演を続けることで公共性を生んでいくという考えを提示した方がいいようにも思う。

演劇制作者の若旦那家康は、演芸祭を行う際に、「補助金が取れそうな団体」と「面白いけど、どう考えても補助金は出ない団体」を混ぜて上演を行うことにしているそうである。
分かりやすい演劇をやる団体には補助金は出やすいが、果たしてそれで演劇文化は発達するのかというとそうでもないように思う。一般市民から遠い内容の表現を行う人々を遠ざけてしまった場合、観客の人生の幅もまた狭まり、社会は窮屈になる。「日常」と繋がるものはわかりやすいが、安易に受け取ることの出来るものはその程度でしかないものでもある。
「日常」と「非日常」を考えた場合、その隣接点を攻めるのが第一だと人は思いがちである。互いの最前線での攻防に力を注ぐ人も多いのだろうが、実は日常から最も遠い濃密な非日常によってこそあっさりと塗り変わっていくものである。あたかもオセロのように黒だったものが白へ、白だったものが黒へと。
「異質さこそが実は最強である」。異質さが公共を「作っていく」

街と劇場の関係に関して書くなら、「街があって劇場がある」のは理想的であるが、「劇場が街を創る」になると更に素敵である。今のところ絵に描いた餅でしかないが、文化が公共性を創造出来るなら、劇場には最大級の存在価値が与えられるようになるだろう。


京都ではホームグラウンド的な映画館は持っていないが、東京に通っていた頃は、テアトル新宿や渋谷のル・シネマといったお気に入りの映画館があり、よく通っていた。「そこに行けば面白い映画がやっている」もしくは「面白くないかも知れないけれど、たまにはこういう映画もいい」と思わせてくれる映画館中心の日常があった。
同じように「劇場が中心にあること」が誇りになり、あるいは「劇場があることが日常に変わるような」街が設計出来たなら、これに勝ることはない。今はまだ全ては夢だが。

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