コンサートの記(430) 井上道義指揮 京都市交響楽団 第22回 京都の秋 音楽祭開会記念コンサート
2018年9月16日 京都コンサートホールにて
午後2時から京都コンサートホールで、第22回 京都の秋音楽祭開会記念コンサートを聴く。演奏は京都市交響楽団、指揮は元京都市交響楽団音楽監督兼常任指揮者の井上道義。
前半はホルストの組曲「惑星」、後半がショスタコーヴィチの交響曲第12番「1917年」というプログラム。
今日のコンサートマスターは客演の男性奏者。誰なのかはわからない。わかった書くことにする(東京交響楽団のコンサートマスターである水谷晃だったようである)。泉原隆志は降り番でフォアシュピーラーに尾﨑平。
今日は両曲共に実力の高い奏者が必要ということで、管楽器は前後半とも多くの首席奏者が顔を揃えていた。
まず、門川大作京都市長による開会宣言がある。門川市長は今年の夏がことのほか暑かったこと、3日続きの豪雨に地震、3つの台風が京都を襲ったことに触れ、日本の各地でも地震が水害が起こったことも述べて、「鎮魂と復興の祈り」を捧げる演奏会にしたいと語った。
ホルストの組曲「惑星」。オーケストラピースとして人気の曲で、録音では次々と名盤が生まれているが、コンサートで取り上げられる回数も増加中である。
近年の京都市交響楽団に於いては、ジェームズ・ジャッドが定期演奏会で演奏している。
井上登場。ポディウム側と正面に向かって手を振る。相変わらずキザである。
輝きと迫力に溢れる音を響かせる京都市交響楽団にピッタリの曲である。ただ、合奏は良いのだが、ソロになると実力を発揮出来ていないように感じられることも多く、イタリアのオーケストラと真逆である。サッカーでのスタイルも一緒なので国民性なのだろう。
「火星」の迫力、「金星」の美的センス、「水星」の浮遊感、「土星」での奥行き、「天王星」での神秘感の表出などいずれも長けているが、「木星」では造形の端正さをもっと望みたくなる。なお、「海王星」の女声合唱はシンセサイザーを使用。演奏終了後に井上が女性奏者を連れてステージに登場し、ジェスチャーで「彼女が弾いたの」と示した。
ショスタコーヴィチの交響曲第12番「1917年」。
演奏の前に井上がマイクを手に「少しお話しして良いですか?」と言いながら現れる。
「市長はもう帰っちゃったかな?」と下手袖を振り返り、「京都の秋音楽祭開会記念コンサート、おかげさまで完売だそうで、切符安かったからね」
「今日のコンサートは僕の歴史を振り返るプログラムにしてみました。京都コンサートホールが出来る前、僕が(小学校2年生ぐらいの少年が最前列を通るのを見て)これぐらいだった時、京都市交響楽団とホルストの『惑星』を録音しまして」と語る。井上道義指揮京都市交響楽団による「惑星」のCDは、今では手に入らないようだが、発売当時話題になったものである。同時期にNHK教育テレビ(現在のEテレ)で、京都会館でだったと思うが、井上と京都市交響楽団の演奏による「惑星」演奏の模様も放送されている。今と違って京響はそれほど上質のアンサンブルを誇っていたわけではなかった。
井上が就任した当時は、京響は旧京都会館を本拠地としていたのだが、「とにかく響きが悪くてねえ」。定期演奏会での集客も振るわず「がらんどう状態」。とにかく響く曲はないかと色々やってみたのだが全て駄目。ショスタコーヴィチをやった時は良く聞こえるような演奏が出来たのだが、「皆さん、ショスタコーヴィチお嫌いでしょう?」
ショスタコーヴィチには、「ソビエトの思想のようなもの」が込められていると勘違いしているというのがその理由だと語り、ロシアでもサンクトペテルブルクとモスクワ以外ではショスタコーヴィチの交響曲はほとんど取り上げられていない、取り上げられたとしても5番だけという状態が今も続いているそうだ。否定されたソビエトを代表する作曲家だと誤解されているのがその理由らしい。
その後、井上は交響曲第12番「1917年」におけるトロンボーンのメロディーがスターリンを象徴しているという話を始めたのだが、ただでさえ京都コンサートホールのスピーカーは音が聞き取りにくい上に、私の席のすぐそばでチケットをめぐる問題(前半、私の席の隣2席が空いていたのだが、その横にいた二人が、もう人が来ないものだと思い込んで休憩中に席を詰めたところ、その席の人が来てしまった)があってレセプショニストさんとお客さんとでやり取りがあったためよく聞こえなかった。ただ、どこでどうなるのかは想像出来る。
ショスタコーヴィチの交響曲第12番「1917年」は冒頭で響く英雄的で悲劇的なメロディーと、その後に現れる「歓喜の歌」にオマージュを捧げたブラームスの交響曲第1番第4楽章のパロディーのようなチョイダサの旋律の二つが軸となる。他の要素も勿論あるが、この2つの歌は全編を通して循環形式のように何度も繰り返される。
悲劇的な旋律にチョイダサ歓喜的歌が勝って凱歌になりかけるのだが、突如としてメロディーが消え去れ、茫漠とした弱音が響く場面は、「勝利の白昼夢が破られたかのような衝撃」があり、印象的である。
トロンボーンが活躍した後で、弦楽が恐ろしげな音を出す場面があるのだが、井上が語っていたのはここだと思われる。
悲劇的旋律はその後も同じ形で登場するのだが、チョイダサ歓喜の歌はその後、音が分散されたり、短調に変貌したりしながら現れる。全楽合奏の中でホルンだけが異質のことをしている場面もあるのだが、やがてトロンボーンがチョイダサ歓喜の歌を挽歌のように演奏。凄絶なラストへとなだれ込むのだが、勝利のための旋律が二つ合わさるのに破滅の音楽のように響くのが印象的である。
井上道義は大阪フィルハーモニー交響楽団ともこの曲を演奏しているが、京都市交響楽団は各楽器の音の輪郭がクッキリしているため、より分析的に聞こえる良さがあったように思う。
演奏終了後、井上はガッツポーズを見せ、最後は「俺じゃなくて京響を称えよ!」というジェスチャーをしていた。
ショスタコーヴィチの交響曲第12番「1917年」には駄作説も多く、音楽的にはショスタコーヴィチの他の交響曲に比べると皮相な印象で充実感に欠けるかも知れないが、聴きながら仕掛けられた謎を解き明かしていくという、ミステリー小説を読むような面白さがある。
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