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2019年3月14日 (木)

観劇感想精選(295) 文楽京都公演2019 「義経千本桜」より“道行初音旅”&「新版歌祭文」より“野崎村の段”

2019年3月3日 京都府立文化芸術会館にて観劇

正午から京都府立文化芸術会館で文楽京都公演を観る。演目は「義経千本桜」より“道行初音旅”と「新版歌祭文(しんぱんうたざいもん)」より“野崎村の段”。いずれも歌舞伎で観たことのある演目であり、比較が楽しみとなる。なお、もう一つのプログラムは「義経千本桜」より“椎の木の段”と“すしやの段”(いがみの権太)であるが、昨年の南座の顔見世で観たばかりであり、記憶が生々し過ぎるためパスする。

まず、竹本小住太夫による解説がある。

「義経千本桜」より“道行初音旅”は、“川連法眼館の場”の前の段に当たる。初音鼓にされた狐の子どもが源義経の家臣である佐藤忠信に化け、初音鼓を持ち歩く静御前の前に現れるというシーンである。歌舞伎では市川九團治の忠信で観ている。

人形による舞と扇のキャッチ、忠信の主遣いである吉田清五郎の衣装早替えが見せ場となる。華麗な衣装に身を包んだ人形が生き生きとした動きをする。狐の動きも生々しい。

謡には忠信の名を分けて「忠(ちゅう)と信(まこと)」という言葉にしたり、静御前に掛けて「静かに忍ぶ都をば」と言ったりと、日本文学の正統である掛詞がふんだんに使われている。

 

「新版歌祭文」より“野崎村の段”。歌舞伎では中村七之助のおみつで観ている。

武家の子である久松は、父の切腹により家が潰れたため、野崎村の小百姓である久作に育てられ、今は大坂の油屋の丁稚奉公に出ている。油屋の娘であるお染とは相思相愛だったのだが、お染は親が持ってきた縁談に従うほかなく、久松は油屋奉公人の小助らに騙され、店の金を横領したことにされてしまいそうになる。

一方、久作は娘のおみつと久松を夫婦にしようと思っており、おみつもその気である。

年の暮れ、久作が年末の挨拶に出掛けている間に小助が久松を連れて野崎村にやって来る小助は久松が金を盗んだとして弁償を迫るが、帰ってきた久松は小助にすぐに金を渡す。久作は久松におみつと祝言を挙げるように言い、おみつもその気になって支度を始める。そこにお染がやってくるのだが、おみつはお染の正体をすぐに見抜き、冷たく当たる。

ラストシーンでは屋形船が登場するのだが、船頭が体を拭いたり川に落ちて泳ぐシーンがあったりするのだが、とてもユーモラスであり、江戸時代の人々の粋(いき)が直に伝わってくる。

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