コンサートの記(539) 広上淳一指揮京都市交響楽団 「八幡市文化センター開館30周年記念京都市交響楽団特別演奏会」
2013年10月26日 京都府八幡市の八幡市文化センター大ホールにて
午後2時30分から、京都府八幡市にある八幡市文化センター大ホールで、「八幡市文化センター開館30周年記念京都市交響楽団特別演奏会」を聴く。指揮は京都市交響楽団常任指揮者の広上淳一。
京都市の南にある八幡市(やわたし)。石清水八幡宮のある街である。京阪特急で中書島まで行き、そこから各駅停車に乗り換えて二つ目の駅が八幡市駅である。八幡市文化センターは八幡市駅から放生川(ほうじょうがわ)沿いに南下、約1・5キロほどのところ、八幡市役所と同じ敷地内にある。
30周年ということは、1983年の開館ということになり、1973年オープンのNHKホールは勿論、1982年開館のザ・シンフォニーホールよりも新しいホールである。ただエントランスやホワイエ、舞台などは立派であるが、椅子などはすでに木製の肘掛けの黒い塗装がはげてしまっていたり、赤い座席カバーが破れているなど、老朽化が目立つ。稼働率も低そうであり、メンテナンスを十分に行うだけの費用がないのかも知れない。空気もいささかほこりっぽく、家と同じでホールも常に人が入っていないと活性化されず、古びるのが早いのかも知れない。
演目は、ドヴォルザークのチェロ協奏曲(チェロ独奏:宮田大)とブラームスの交響曲第1番であるが、京響の演奏が行われる前に、邦楽の演奏がある。
山本千絵(箏)、川崎貴久(尺八)、山本三千代(三絃)による宮城道雄の「比良」と、山本三千代を除いた二人による沢井忠夫の「上弦の月」である。山本千絵(八幡市在住で、本名は川向千絵とある)と山本三千代は親子ほど年が離れているが、あるいは本当の親子なのかも知れない。同じ邦楽サークルに属しているが、師範が「山本」を名乗るという習慣もないようである。
邦楽も内容自体はそれほど難しくはないのだが、私が普段邦楽を聴き慣れていないということもあって、演奏のレベルも面白さも今一つ伝わってこない。クラシック音楽に接することの少ない人がクラシックコンサートで曲を聴いたときも同じような感想を抱くのかも知れない。
京都市交響楽団の今日のコンサートマスターは渡邊穣。泉原隆志は降り番である。フルート首席奏者の清水信貴も今日は降り番であったが、クラリネット首席奏者の小谷口直子、オーボエ首席奏者の高山郁子は、今日は前後半共に出演する。
広上淳一は、今日も全編ノンタクトで指揮した。
ドヴォルザークのチェロ協奏曲。ソリストの宮田大は、1986年、栃木県宇都宮市生まれの若手チェリスト。両親共に音楽教師という家庭に生まれ、3歳からチェロを学び始め、9歳で初めてコンクールに参加して優勝。その後も参加した全てのコンクールで優勝を果たすという神童系演奏家である。2009年には第9日ロストロポーヴィチ国際チェロコンクールで日本人として初めての優勝に輝いている。桐朋学園音楽大学ソリスト・ディプロマコースとジュネーブ音楽院を卒業。今年、クロンベルク・アカデミーを修了したばかりである。
その宮田のチェロであるが、テクニックは滑らか、音はまろやかである。
伴奏を務める広上淳一指揮の京都市交響楽団であるが、京都コンサートホールで聴く時よりも音の密度が薄い印象を受ける。八幡市文化センター大ホールは多目的ホールであり、残響可動システムがあって、残響2秒までを確保出来るのであるが、やはり音響設計をして残響が2秒あるのと、可動システムで残響2秒を作り出すのとでは違い、響きの評判は今一つではあっても京都市交響楽団が京都コンサートホールの音響から恩恵を受けているのは間違いなさそうである。またこうしたホールで聴くことにより、京都コンサートホールの響きが巷間言われているよりも良いものであることがわかる。
ホールの音響にスポイルされたとはいえ、広上指揮の京都市交響楽団も力強い伴奏で、宮田のソロに応えた。
宮田はアンコールとして、J・S・バッハの無伴奏チェロ組曲第1番より「ブーレ」を弾く。ドヴォルザークではあれほど達者であったのに、バッハの演奏になると奥行きと造形美がいささか不足勝ちに聞こえる。やはりバッハの曲を十分に聴かせられるようになるには、ある程度年齢を重ねる必要があるのかも知れない。
とはいえ技術は達者であり、演奏終了後、宮田は喝采を浴びた。
後半、ブラームスの交響曲第1番。
冒頭は悲劇性を強調することはなく、音の美しさと確かな構築感を優先させた演奏である。音も明るめだ。だが、曲が進むに従って、演奏は緊迫感を増していく。広上がスロースターターなのではなく、そういう解釈なのであろう。広上はいつも以上に強い音を要求したようで、特に弦楽器奏者は体を揺らしながら激しいボウイングで力強い音を生む。
第1楽章後半の切迫感は聴いていて胸が締め付けられるようであった。
第2楽章の抒情美、第3楽章の機能美ともに優れている。広上の身振り手振りはかなり大きいが、徒に大袈裟に指揮しているわけではなく、それら全てが音楽に反映されているのは流石である。
最終楽章も入りを深々と歌い、主部に入ってからは緩急自在。凱歌は堂々として聴く者の気分を高揚させる。
独自の解釈による秀演であった。
広上と京響はアンコールとして、モーツァルトのディヴェルティメントK.126から第2楽章を演奏する。「典雅」という言葉がピッタリくる出来であった。
クラシックのコンサートは定期演奏なら通常は2時間ほど、特別演奏会でもアンコールを含めて2時間半以内に収まるが、今日は邦楽の演奏もあり、ソリスト、オーケストラともにアンコール演奏があったため、上演時間は20分間の休憩を含めて3時間に達した。
| 固定リンク | 0
« コンサートの記(538) レナード・スラットキン指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第526回定期演奏会 | トップページ | コンサートの記(540) 広上淳一指揮京都市交響楽団 モーツァルト連続演奏会 「未来へ飛翔する精神 克服 ザルツブルク[1776-1781]」第1回「溢れ出る管弦楽の力」@いずみホール »
コメント