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2019年4月 2日 (火)

コンサートの記(541) オーギュスタン・デュメイ指揮関西フィルハーモニー管弦楽団第252回定期演奏会

2013年11月8日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

午後7時から、ザ・シンフォニーホールで、関西フィルハーモニー管弦楽団の第252回定期演奏会に接する。今日の指揮は、関西フィルハーモニー管弦楽団音楽監督のオーギュスタン・デュメイ。

デュメイは世界最高峰のヴァイオリニストとして知られているが、指揮者としての腕は未知数。2011年から関西フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任しているのだが、巡り合わせが悪く、指揮者デュメイの演奏を生で聴くのは私は今日が初めてである。
「レコード芸術」11月号の付属CDに、デュメイと関西フィルの演奏によるモーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」序曲と交響曲第35番「ハフナー」の演奏が収録されてる。それを聴いた限りでは、オーケストラの力はともかくとして、デュメイのオーケストラコントロールに問題はないようだった。
器楽の名演奏家でも、指揮者としては二流となってしまう人は多い。ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(本職はチェリスト)がその典型であったし、ウラディーミル・アシュケナージ(本職はピアニスト)も一流指揮者と認識している人は少ないのではないだろうか。もっとも、ロストロポーヴィチもアシュケナージも得意なレパートリー(ロストロポーヴィチであればショスタコーヴィチ、アシュケナージであればラフマニノフ)では高い評価を得ている。

演目は、J・S・バッハのヴァイオリン協奏曲第1番(デュメイによるヴァイオリン弾き振り)、ハイドンの交響曲第49番「受難」、シェーンベルクの「浄められた夜(浄夜)」(1943年版)。

アメリカ式の現代配置での演奏。日本ではドイツ式の現代配置を行ってる楽団が多いが、関西フィルだけは徹底してアメリカ式の現代配置を採用している。

今日も招待客が多いようである。


J・S・バッハのヴァイオリン協奏曲。バロック音楽だけにピリオド・アプローチは当然のように生かされる。ソリストであるデュメイもビブラートは抑え気味であるし、オーケストラ奏者もビブラートはほとんど用いない。テンポは普通で、ピリオドだからといって速めのテンポを採用したりはしないようだ。
長身から繰り出されるスケール豊かな音楽を武器とするデュメイであるが、今日はバッハの音楽だけに徒にスケールを拡げることなく、雅やかな音楽を奏でる。


ハイドンの交響曲第49番「受難」。
デュメイは身長が高いため、指揮台を用いる必要はなく、そのまま舞台上に立って指揮する。
指揮姿であるが、身長に比べると腕の動きはやや小さめ。またしっかりと拍を刻み、大きな音が欲しい時は振りを大きくし、特定の楽器の音を大きくしたいときにはその楽器に向かって手をかざしたり、その楽器の方を向いたりする。極めてオーソドックスな指揮である。ただ、分かりやすいと同時に面白味がない指揮姿ともいえる。デュメイは特定の人物に指揮を師事したことはなく、見様見真似で指揮を覚えたのだろう。だから、個性溢れる指揮は期待出来ないのかも知れない。レナード・バーンスタインが生きていて、今日のデュメイの指揮姿を見たらデュメイをどやしつけそうである。

ピリオド・アプローチを徹底した演奏。チェンバロを通奏低音として用いる。
ピリオド・アプローチを行うのは良いのだが、それが手段ではなく目標になってしまっている印象を受ける。ピリオドのために豊かな表情を殺しているような印象も受け、特に第2楽章では「疾風怒濤」期の交響曲と呼ばれるに相応しい悲劇的な旋律が押し殺されてしまったようで実に惜しい。全体としても殻を破れないもどかしさを感じた。


後半、シェーンベルクの「浄められた夜」。
バッハやハイドンのそれとは一転したエモーショナルな演奏で聴かせる。
関西フィルの弦楽は大阪フィルや日本センチュリー響などに比べるとあっさりしているが、今日はドイツ的な渋い音色を出すことに成功。それが曲が進みに従って、慈愛に満ちた柔らかな音色、救済を意味する明るい音色へと変化していく。
デュメイの指揮自体は特別な動きはしていないのだが、オーケストラから多様な音色を引き出す術には卓越したものがある。あたかも指揮棒を弓とし、関西フィルを巨大なヴァイオリンとして操るかのようだ。

名ヴァイオリニストであるオーギュスタン・デュメイ。指揮者としても名指揮者かというと、今日一回のコンサートだけでは判断できないが、少なくとも凡庸な指揮者でないことだけは確かなようである。

定期演奏会であるが、「浄められた夜」はメインプログラムとするには少し曲が短いということもあってか、アンコール演奏がある。ビゼーの「アルルの女」第1組曲より“アダージェット”。しなやかで優しさ溢れる佳演であった。

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