2014年12月5日 京都芸術劇場春秋座にて
午後6時30分から、京都芸術劇場春秋座で、「グレゴリオ聖歌&真言宗声明」という公演を聴く。ミラノ大聖堂聖歌隊が来日してグレゴリオ聖歌を歌い(指揮:クラウディオ・リヴァ)、福岡の真言宗僧侶を中心に結成された真言宗青教連法親会が真言宗の声明を歌うという企画。前半が真言宗声明、後半がグレゴリオ聖歌の歌唱で、ラストに両者のコラボレートがある。
グレゴリオ聖歌というと、20年ほど前にブームがあり、ヒットチャートにグレゴリオ聖歌のCDが入るという異常事態が発生し、「グレゴリアン・チャント」という言葉が定着したりもしたのだが、ブームはあっという間に過ぎ去ってしまったため、今の大学生はおそらくグレゴリオ聖歌ブームを知らないと思われる。ということもあって、京都芸術劇場のある京都造形芸術大学の学生は、チケット料金が3分の2で聴けるにも関わらず、二十歳前後の人すら数えるほどという状況であった。聴きに来ているのはやはりグレゴリオ聖歌ブームを知っている世代であり、私と同世代以上である。入りは良く、1階席はほぼ埋まっていた。
まずは真言宗声明。密教であるため密具が台の上に置かれている。法螺貝を吹きながら僧侶達が登場。天台宗だったら僧兵を思い浮かべるところだが、同じ密教でも今回は真言宗である。読経の中に「弘法大師」という言葉も登場する。
インドの古典語である梵語による「庭讃(にわのさん)」に始まり、「散華」、「唱礼」、「光明真言行動(こうみょうしんごんぎょうどう)」、「称名礼」と続く。厳粛な空気が漂い。自然とありがたい気持ちになる。
グレゴリオ聖歌であるが、普段は残響がコンサート専門ホールのもの(約1・5秒から2秒)の倍ほどあるカテドラル(大聖堂)で歌われるのが普通であり、カテドラルで歌われた場合は声が天井から降ってくるようになって、CD録音でも豊かな残響が収められている場合が多いのだが、春秋座は残響ゼロである。残響ゼロでグレゴリオ聖歌を聴くと思ったよりも神聖な感じがしない。普通の合唱である。ヨーロッパに行くと、大聖堂が至るところにあるが、やはり教会音楽の神々しさを高める上では長い残響が不可欠であるため、音に配慮した結果、聖堂が巨大化した可能性もある。
ということで、聴き終えた後の感銘は自分でも意外であるが真言宗声明の方が上であった。グレゴリオ聖歌を存分に味わいたいなら少なくとも音響設計のしっかりしたところで聴かないと駄目なようだ。
グレゴリオ聖歌といっても膨大な量があるが、今日歌われたのは賛課(朝の祈り)の賛歌「永遠の創造主よ」、「待降節第4のマニフィカト・アンティフォナ「あなたは幸いなかたマリア」とマニフィカト、待降節第4の主日の応唱「天使ガブリエルの口によって」、ミサのグロリア「天のいと高きところには神に栄光」、主の御降誕のミサからアレルヤ唱「幼子が私たちのために生まれた」、主の御降誕のミサ奉納唱「見よ、神殿は開かれ」、主の御降誕のトランジトリウム(拝領唱)「喜び、歓喜しよう」、公現節の晩課(夕の祈り)の賛歌「いと高きものよ、輝かせ」、公現節の晩課(夕の祈り)のアンティフォナ「すべての父祖らは」、公現節後4主日のトランジトリウム(拝領唱)「あなたを賛美します」以上であった。グレゴリオ聖歌というと、ベルリオーズやラフマニノフが引用したことで知られる「怒りの日」が最も有名であるが、今日のプログラムのそぐわないためか、歌われることはなかった。
真言宗声明とグレゴリオ聖歌によるコラボレーション。まず真言宗声明が「露地偈(ろじのげ)」とグレゴリオ聖歌がアンティフォナ(交唱)「異邦の者が我に逆らいて立ち」詩編54編「主よ、御名によって」が同時に歌われる。勿論、一緒に歌った噛み合う楽曲選んでいるのだから歌唱に問題はない。聞き比べると真言宗の僧侶達は野太い声で歌い、ミラノ大聖堂聖歌隊の隊員の声は僧侶達に比べるとずっとマイルドである。
続いて真言声明「理趣経善哉譜(るりしゅきょうせんざいふ)」とグレゴリオ聖歌「第4のキリエ」。
日本の僧侶達が何を歌っているかわからないのに、ミラノ大聖堂聖歌隊は「キリエ・エリソン(主よ、哀れみ給え)」を繰り返しているため、ラテン語の方は意味がわかるという不思議な世界になった。
アンコールでは、まず、真言宗青教連法親会が歌う。コンサートホールだと、終演後にアンコール曲目がホワイトボードに書かれたり張り出されてたりするのだが、春秋座でコンサートが行われることは滅多にないため、そうしたサービスは行われず、曲名はわからなかった。
続いて、ミラノ大聖堂聖歌隊による「きよしこの夜」。これは誰が聴いても曲名はわかる。
ラストは両団体による斉唱「いろは歌」。「けふ」は慣例通り「きょう」と読まれる。「あさきゆめみし」は、「あさきゆめみじ」という否定形が採用されていた。私自身は濁音でない肯定系の方が好きなのだが。
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