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2019年7月23日 (火)

観劇感想精選(309) 文学座公演「ガラスの動物園」

2019年7月15日 尼崎市塚口の兵庫県立ピッコロシアター大ホールにて観劇

午後2時から、尼崎の塚口にある兵庫県立ピッコロシアター大ホールで文学座公演「ガラスの動物園」を観る。

テネシー・ウィリアムズの出世作にして代表作の一つである「ガラスの動物園」。新劇の王道であり、学生演劇の定番でもある作品だが、文学座が「ガラスの動物園」を上演するのは意外にも1990年以来、実に29年ぶりになるという。先月28日から今月7日まで東京芸術劇場シアターウエストでの上演を行った後、新潟県の長岡市での公演を経て、昨日今日と尼崎での関西公演を行う。この後、岐阜県可児市での上演も予定されている。
上演自体は間が開いてしまったが、文学座では研究所の長崎紀昭のクラスで毎年のように「ガラスの動物園」をテキストに使った授業が行われていたそうである。

小田島恒志による新訳テキストを使用(ちなみに、現在、新潮文庫に入って広く読まれているものは、小田島恒志の父親である小田島雄志が翻訳したものである)。高橋正徳による新演出での上演。出演は、塩田朋子、亀田佳明、永宝千晶(ながとみ・ちあき)、池田倫太郎。塩田朋子は、アマンダを演じるが、実は29年前の上演で塩田は、アマンダの娘であるローラを演じていた。

紗幕を使った巨大な父親の肖像画(顔ははっきりしない)が下がっているという舞台装置。ウイングフィールド家3人のシーンが始まってからは肖像画は吊り上がって斜めになるが、舞台上から消えることはない。

テネシー・ウィリアムズの自伝的作品といわれており、詩人志望のトム(亀田佳明)同様、テネシー・ウィリアムズも靴会社に勤めていた経験があり、またテネシー・ウィリアムズの実姉であるローズは、ローラ(永宝千晶)同様、心身を病んでいた。

 

1930年代、ミズーリ州セントルイス。足が不自由なローラは、高校を中退後、引きこもりの状態となる。ビジネススクールに通ってタイピングや速記を習っているはずだったが、実際はすぐに辞めてしまい、母親のアマンダ(塩田朋子)には、ビジネススクールに行っていると嘘をついて公園で時間を潰していた。ローラは小さなガラスの動物像をコレクションしており、アマンダはそれを「ガラスの動物園」と呼んでいた。ローラは内気でガラスの動物のように壊れやすい心を持っている。ローラが最も好きな動物像は架空の生き物であるユニコーン。
アマンダの夫、つまりローラとトムの父親はふらりと出て行ってしまったため、一家の家計はローラの弟であるトムが支えている。トムは退屈な靴屋の倉庫勤めに飽き飽きしており、上司の目を盗んではトイレで詩作などにふけり、しょっちょう映画館にも通っている。作家になりたいという気持ちはあるが、まずは現実逃避だった。

南部の大農園出身のアマンダは、トムにはたくましくて魅力的な男に、ローラには良妻賢母になるよう望んでおり、ローラに相応しい男を自宅に招くようトムにいう。トムは会社の同僚であるジム・オコーナー(池田倫太郎)を自宅に招くことにする。苗字からしてアイルランド系のオコーナーは、ハイスクール時代は学校のヒーロー的存在だったが、その後泣かず飛ばすの男だった。アマンダはローラとジムが接近するよう切望していたのだが……。

実は、ローラとジムは、高校時代から知り合いであった。かつてジムはローラに容態を聞き、ローラは「プルーローシス(胸膜炎)」と答えたのだが、 ジムは、「ブルーローズ」と聞き間違え、ローラをそういうあだ名で呼んだことがあった。ブルーローズ、今でこそ存在するが、長い間幻の存在とされていた青い薔薇のこと。幻の世界に浸ることしか出来ないローラそのままの名前である。ガラスで作られた架空のユニコーンを愛するローラ、はっきりしない将来に夢を託すトム(結局、倉庫はクビになってしまう)、南部的な幸せを思い描いているアマンダ、そうしたそれぞれの幻想が現実の前に破れていくことになる。いかにもテネシー・ウィリアムズの原点と呼ぶに相応しい作品である。
家族を捨てたトムのローラへの贖罪の念は、テネシー・ウィリアムズの実姉・ローズへの思いと重なっていたであろう。

 

演劇界の東大、新劇界の東大などとも呼ばれる文学座だが、今ではいわゆる新劇的な演技からは少し離れた状態にある。ただ、時折、堅い演技になるところはあったように思う。とはいえ、全員、演技の水準は高い。

テネシー・ウィリアムズのテキストには、スクリーンに文字が投影されたり、舞台袖で声がしたりと、当時としては前衛的な手法が書かれているのだが、そうした要素はカットされており、全体的に新劇として手堅い上演になっていた。

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