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2019年11月25日 (月)

コンサートの記(610) シルヴァン・カンブルラン指揮 京都市交響楽団第640回定期演奏会

2019年11月17日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで京都市交響楽団の第640回定期演奏会を聴く。今日の指揮は読売日本交響楽団の前・常任指揮者、現・桂冠指揮者として日本でもお馴染みのシルヴァン・カンブルラン。

現代音楽の世界的な名解釈者としても知られるシルヴァン・カンブルラン。1999年から2011年までバーデン=バーデン・フライブルクSWR交響楽団の首席指揮者の座にあり、現代音楽アンサンブルであるクラングフォーラム・ウィーンの首席客演指揮者なども務めた。現在は、日本でも人気と評価の高いバンベルク交響楽団の首席指揮者に就任している。
オペラでも活躍しており、2012年から2018年までシュトゥットガルト歌劇場の総監督を務めた。ちなみに私が初めてカンブルランの演奏に触れたソフトは、1999年のザルツブルク音楽祭でオペラ形式で上演されたベルリオーズの劇的物語「ファウストの劫罰」である。
日本では、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキの後任として読売日本交響楽団の常任指揮者を9年間務め、今年の4月からは同楽団の桂冠指揮者の称号を得ている。また、2002年からはドイツ・マインツのヨハネス・グーテンベルク大学で指揮科の招聘教授を務めている。

 

曲目は、武満徹の「夢の時~オーケストラのための」、ハイドンの交響曲第104番「ロンドン」、ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」

 

今日のコンサートマスターは、客演の豊嶋泰嗣。泉原隆志がフォアシュピーラーに回る。テューバの一人として京響を定年退職した武貞茂夫が招聘されているのも興味深い。第2ヴァイオリンの客演首席は大森潤子、チェロの客演首席にはルドヴィート・カンタが入る。
ドイツ式現代配置での演奏。木管楽器の首席奏者は、小谷口直子が全編に出演。その他は後半のストラヴィンスキーのみの参加である。ホルンは前半が副首席の水無瀬一成がトップの位置に入り、首席ホルン奏者の垣本昌芳はストラヴィンスキーのみの出演となる。トランペットは、武満がハラルド・ナエスと早坂宏明のコンビ、ハイドンが稲垣路子と西馬健史の二人で、ストラヴィンスキーでは全員が出演し、更に客演の小和将太が加わった。

 

プレトークでカンブルランは、楽曲の解説を行う。ストラヴィンスキーの「春の祭典」はバレエ音楽であるため、リズムやテンポが協調される。ハイドンの交響曲もリズムやテンポに独特のものがあり、また独特の楽器の扱い方を行うというところにストラヴィンスキーとの共通点があるとする。ハイドンとモーツァルトは同時代人であるが、モーツァルトは独特の楽器の使用法を追い求めることはなかったとする。
一方、武満徹の音楽は、ストラヴィンスキーやハイドンとは一線を画しており、リズムやテンポなどが曖昧になっており、独特の音像の築き方をする。
カンブルランは、「三者三様の音楽を楽しんで欲しい」というようなことを言って、いったんステージを後にする。

 

武満徹の「夢の時~オーケストラのための」。ネザーランド・ダンス・シアターとその芸術監督であるイリ・キリアンの委嘱によって書かれたものであり、「春の祭典」同様、舞踊のための音楽である。ただストラヴィンスキーとは大きく異なり、精妙なテクスチュアがたゆたうようなある意味、東洋的な趣を持つ。押すのではなく絶えず引き続けるような音楽だ。ドビュッシーを思わせるようなところもあるが、それもまた武満のイディオムに昇華されており、武満にしか書き得ない地点にまで達している。
現代音楽のスペシャリストであるカンブルランの「最適」を探り当てて行く巧みな再構築性が光る演奏であった。
武満はティンパニという楽器が好きではなかったので、この曲ではティンパニは用いられておらず、普段ティンパニを演奏することの多い京都市交響楽団首席打楽器奏者の中山航介はヴィブラフォンを担当。ヴィブラフォンを弦の弓で引いて音を出すという特殊奏法も行っていた。

 

ハイドンの交響曲第104番「ロンドン」。ハイドン最後の交響曲である。
テンポは中庸かやや速め。バロックティンパニを採用しており、中山航介の思い切った強打が効果的。意気軒昂なハイドンとなる。
弦であるが、ビブラートを抑え気味の人とそうでない人がいるという折衷スタイルであり、響きとしてはモダンに近いが、豊嶋のソロは徹底した古楽的技法で弾かせて他の弦楽器から浮かび上がらせるなど、対比を鮮やかにつけていた。

 

ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」。カンブルラン指揮の「春の祭典」は、以前、読売日本交響楽団の大阪定期公演で聴いたことがある。
京響の力強さが印象的な「春の祭典」。だが現代音楽の明解釈者であるカンブルランの指揮ということで、初演時のスキャンダルを忘れさせるかのような、よくこなされた演奏が展開される。打楽器の大音量もどことなくまろやかであり、鮮烈という印象よりも音楽的な充実の方がより耳に届く。
ある意味、ベートーヴェンの音楽に接するのと同じ感覚で聴くことの出来る「春の祭典」である。こうした演奏を聴くと、「春の祭典」もいよいよ古典の領域に達したことを実感させられる。もはや特異な印象を受ける現代音楽ではなく、普通にクラシックの王道として楽しめる馴染み深い音楽にまで消化されたのだ。

ラストも鮮やかに決めたカンブルラン。聴衆も大いに沸き、京都の人々にその実力を知らしめることに成功したようである。

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