観劇感想精選(325) 神里雄大/岡崎藝術座 「ニオノウミにて」
2019年10月26日 京都芸術センターフリースペースにて観劇
午後7時から、京都芸術センターフリースペースで、神里雄大/岡崎藝術座の「ニオノウミにて」を観る。英語のタイトルは「Happy Prince Fish」である。作・演出:神里雄大。
ニオノウミというのは琵琶湖の別名(ニオというのは滋賀県の県鳥になっているカイツブリのこと)である。日本三大弁財天の一つを祀る竹生島を舞台とした異人との遭遇を巡る物語。能の「竹生島」がモチーフとなっている。出演は、浦田すみれ、重実紗果(しげみ・さやか)、嶋田好孝。
京都国際舞台芸術祭参加作品としての上演であり、舞台上方(天井の近く)にセリフの英訳が投映されての上演である。意味としては似通っているが、思考パターンが異なるためニュアンスに大きな隔たりが出ているのを見るのも楽しい。
まず、薄明の中で舞台上にタブレット端末が置かれてスタートする。
治安の悪い国からやって来た男が滋賀県にたどり着く。日本に希望を持ってやって来たのだが、日本語をきちんと話せないことで(セリフ自体はきちんとした日本語として語られている)日本人から見下されており、日本人が嫌になって日本語の学習もやめてしまっていた。男は琵琶湖に釣りをしにやって来たのだが、そこで琵琶(タブレット端末から竿状のものが伸びており、画面に琵琶の腹部が映されている)を拾う。背後で若い女の声がする。女は「それは私の琵琶です。返してください」と男に言う。女は「じじい」と呼んでいる祖父と二人暮らし。両親は離婚して家を出て行き、兄が一人いるが東京に出たまま一度も帰ってこない。漁師をしている「じじい」と共に女は毎晩、漁に出ている。種明かしをするとこの女の正体は弁財天なのだが、共に竹生島に渡ろうと女は男に提案する。
琵琶湖では、ブラックバスやブルーギルという外来魚が固有種を食い荒らしてしまうため、問題となっている。「じじい」は外国人観光客を外来魚になぞらえて罵り始め、「下等動物」とまで呼んで怖れている。
ブルーギルは実は明仁上皇が皇太子時代に外遊先のシカゴで市長から贈られたものを持ち帰ったのが最初である。ブルーギルは水産庁淡水区水産研究所が食用研究の対象として飼育していたのだが、淡水真珠養殖で母貝として用いるイチョウガイの養殖場でイチョウガイ幼生の宿主としてブルーギルが利用され、逃げ出したものが琵琶湖で繁殖するようになった可能性が高いようである。実はブルーギル繁殖のきっかけを作ったことについて、上皇陛下が天皇であられた時に謝罪なされたことがある。
3つの場からなる芝居だが、1場が終わった後で10分間の休憩が入る。お弁当付きの前売り券があった他、少数だが当日申し込み用のお弁当も用意されており、スナック菓子やお茶も売られる。
客席もフリースペースの段差を利用した椅子状のものと座布団を敷き詰めた床席が用意されており、自由なスタイルで芝居を観ることが出来るようになっている。観劇に「多様性」を持たせたいという神里の意思である。
異人と外来種を「じじい」が語る(録音された声による)が、今度はブルーギルが謝罪と自己弁護を述べることになる。ブルーギルは食用にも適さず、臭く、何の取り柄もないと自分を卑下するが、一方で、明仁上皇がやはり皇太子時代にやはり外来種のティラピアをタイに食用として贈り、現在ではティラピアはブラーニンという名で国民食として愛されているという話もする。同じ外来種でもティラピアは食用として役に立つから良く、役に立たないブルーギルは差別されて当然なのかという問いがある。近年の日本では「実用性」ばかりが叫ばれ、差別や区別が当然のように論じられているがこれは正しいことなのか。外国人に限っても安くて便利な労働力として重宝する一方で治安が問題視され、観光客となると「観光公害」として排斥運動が起こる直前の情勢になっていたりする。これは雇用の調整弁と見なされた日本人においても同様である。
3つの楽器がキーとして登場する。まずは琵琶湖の名の由来にもなった琵琶。ペルシャが起源であり、シルクロードを伝わって奈良時代に日本に渡来し、琵琶法師や仏話の際に用いる楽器として広まった。2つめは三線である。沖縄の民族楽器として有名だが、中国由来の楽器である。これが関西地方に伝わって生まれたのが三味線で、胴体にはニシキヘビの皮ではなく手に入りやすい猫や犬の皮を用い、琵琶のようにバチを使って弾く。日本は海外から様々な文化要素を取り入れ、それを吸収してオリジナルへと昇華させるという歴史を歩んできた。しかも元も文化を否定せず、共生させる。楽器に限らず、言葉から演劇から音楽からあらゆることにおいてそうであり、これこそが日本の伝統なのである。無料で配られた用語集に「琵琶湖周航の歌」がさらっと入っていて、休憩時間に流れていたが、実は「琵琶湖周航の歌」はオリジナルではなく、第三高等学校(現在の京都大学)の生徒が書いた詩を「ひつじぐさ」のメロディーに乗せたものなのだが、これが今では滋賀県のご当地ソングとして愛されるまでになっている。また「琵琶湖哀歌」も用語集に入っていて、「琵琶湖周航の歌」の後で流されたが、これまた「琵琶湖周航の歌」のメロディーを転用したものである。だが、そのまま受け入れられている。こうした懐の深さが日本人にはあったのだ。
ところが現代の日本は取り込むことを止めて排斥へと変化している。それは「男性的」と呼ばれる刹那の喜びのために行われるブラックバスフィッシングのキャッチアンドリリースにも例えられる(ネット用語の「釣り」も関連しているのかも知れないが)。伝統的ではない状態なのに排外に回る人は自身を伝統的な保守主義者だと勘違いまでしている。そういった状態に無関心の人も多く、とにかく選挙にも行かない。権利を行使しなかったわけだが、その結果生まれた社会を意思を示さなかった人々が本当に受け入れられるのかどうか。
日本だけが正義で被害者というわけでもない。オセアニアやヨーロッパでは、日本や朝鮮半島では食用として愛されているわかめが侵略的な外来種として問題になっていることが用語集には書かれ、劇中でも仄めかされている。
弁財天である女は仏教の十善戒から6つを唱えるが、もうそれは死んだしまった人間の言葉だとつぶやく。無宗教者が大多数を占める今の日本では仏教も神仏習合時代の言葉も心に届かない。そして女は男に自分の座を譲ろうとまでする。弁財天から渡された三味線の歴史が語られ、特に救いらしい救いもなく、不毛の未来が提示されて黙示録的に終わる。弁財天は男の良き未来を祈り、「またどこかでお会いすることがあるといいですね」と言うも、「でもわかりません」と続ける(英語字幕では、ビートルズやMr.Childrenの歌でお馴染みの「Tomorrow never knows」と表示されていた)。
芝居では答えは示されなかったが、日本人はどうすればいいのか? まずは本当の伝統を知ることである。受け入れ、止揚し、自らのものとしていった日本の歴史。それを断ち切らせることがあってはならない。「排除」を「正義」にしてはならない。三味線に見られるような「昇華」と「共生」を可能としてきた希有な伝統をもう一度振り返る必要がある。
我々は幕末の志士達よりも賢いはずだと思いたい。
内容は当然ながら異なるのだが同じ「共生」への意識を描いた黒沢清監督の「カリスマ」を見直してみたくなった。
内容が気に入り、台本が500円で売っていたので購入し、読む。「いいね!」。いや「いいね!」だけでは駄目なのだが。
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