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2019年12月の13件の記事

2019年12月15日 (日)

コンサートの記(613) 沼尻竜典指揮 京都市立芸術大学音楽学部・大学院音楽研究科第162回定期演奏会

2019年12月9日 京都コンサートホールにて

午後7時から、京都コンサートホールで京都市立芸術大学音楽学部・大学院音楽研究科第162回定期演奏会を聴く。指揮はびわ湖ホール芸術監督としても有名な沼尻竜典。京都市交響楽団(この度、英語名をバーミンガム市交響楽団に倣ってか、City of Kyoto Symphony Orchestraに変更することになった)への客演も多いが、京都市立芸術大学音楽学部・大学院音楽研究科の定期演奏会へは初登場となる。

曲目は、ベートーヴェンの劇音楽「エグモント」序曲、ブラームスの「運命の歌」、マーラーの交響曲第1番「巨人」。京都市立芸術大学音楽学部・大学院管弦楽団の演奏。「運命の歌」での合唱は京都市立芸術大学音楽学部・大学院合唱団。ソプラノパートには、以前、浄慶寺での「テラの音」コンサートの参加していた女の子がいる。更にヴァイオリンパートとアルトパートの両方に名前が載っている女の子もいるのだが、これは本当に兼ねているのだろうか?

芸術大学の音楽学部や音楽大学は女子の割合が約9割であり、今日の京都市立芸術大学音楽学部・大学院管弦楽団のヴァイオリンパートはなんと男の子は一人だけで、他は全員女の子である。コントラバスやテューバなど、比較的男性の多い楽器(大きいので持ち運ぶのに力がいる)は京芸でも男子の方が多いが、近年女性奏者の進出が著しいホルンはやはり男子は一人だけで他は女子が演奏を行う。京都市交響楽団などはトロンボーンは現在全員男性奏者であるが、京芸は女子の方が多い。
京都市立芸術大学にはハープの専攻はないようで、京都市交響楽団の松村衣里が客演で入る。松村衣里はハープ専攻のある大阪音楽大学で講師をしているようだ。

客席には、下野さんや京響の早坂さんなど、京芸で教える音楽家の姿も見受けられる。

 

ベートーヴェンの劇音楽「エグモント」序曲。弦楽パートの方が優秀である。始めは学生オーケストラにしては渋い音で演奏していたが、クライマックスでは明るめで輝かしい音色に転じ、威力もある。管楽器も技術はあるのだが、各々がそれぞれの音楽を奏でるという領域には達していない。まあ学生だしね。
日本の芸術大学や音楽大学でのHIP教育がどれほど行われているのかはよくわからないが、そうしたものはほとんど意識はしていないようである。「ほとんど」と書いたのは全く意識していないというわけでもないからである。ビブラートも掛けながらの演奏であるが、その後のブラームスやマーラーに比べると明らかに抑え気味ではある。またバロックティンパニこそ使用していなかったが、先端が木製のバチなども使って硬めの音を出させており、無理をしない程度に取り入れようとしていることは感じられる。

 

ブラームスの「運命の歌」。合唱はポディウムに陣取る。
オーケストラが非常に温かい音を出し、合唱も予想以上にレベルが高い。沼尻の過不足のない表現もこの曲に合っているように思われた。
パンフレットに歌詞対訳が載っているとありがたかったのだが、京都市はあんまりお金がないので省いたのかも知れない。無料パンフレットでは音楽学専攻の学生が解説を手掛けており、ドイツ語翻訳も出来る学生はいるはずなので独自のものを出してくれると嬉しい。

 

マーラーの交響曲第1番「巨人」。マーラーはオーケストラに威力がないと話にならないため、実力が試される。実は京都市立芸術大学音楽学部・大学院音楽研究科の定期演奏会では、これまでマーラーが取り上げられることが余りなかったそうなのだが、マーラーがオーケストラレパートリーの王道となった今ではそれはまずいということもあってか、マーラーも得意としている沼尻に振って貰うことにしたのかも知れない。ちなみに沼尻は来年は京都市交響楽団を指揮して「巨人」の演奏を行う予定がある。

各パートとも技術はしっかりしているのだが、最初のうちは上手く噛み合わず、全楽器の合奏時には雑然とした印象も受ける。ただ流石は沼尻で各楽器を上手く捌いて次第に見通しの良い演奏となる。
第2楽章はメリハリも利き、音にも爆発力があってなかなかのマーラーとなる。
先にコントラバスは男子の方が多いと書いたが、第3楽章のコントラバスのソロを取るのは女子である。鄙びた感じを上手く出した優れたソロを奏でていた。中間部の憧れを奏でる部分は、若者ならではの瑞々しさの感じられる演奏となり、ある意味理想的だったと言える。
第4楽章の迫力も優れたものであり、沼尻のオーケストラ捌きの巧みさが光る。フォルムをきっちり固める人なので、余り好きなタイプではないのだが、統率力に関してはやはり日本人指揮者の中でも最上位を争う一人だと思われる。

チケットが安いということもあるが客の入りも良く、若い人を見守る雰囲気も温かで、京都市民であることの幸せが感じられるコンサートであった。

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2019年12月14日 (土)

観劇感想精選(329)ヤスミナ・レザ「正しいオトナたち」&これまでに観た映画より(147)ヤスミナ・レザ+ロマン・ポランスキー「おとなのけんか」

舞台「正しいオトナたち」
2019年12月7日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて

午後6時から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「正しいオトナたち」を観る。作:ヤスミナ・レザ、テキスト日本語訳:岩切正一郎、演出:上村聡史(かみむら・さとし)。真矢ミキ、岡本健一、中島朋子、近藤芳正による四人芝居である。上演時間約1時間45分、1幕もの場面転換なし、リアルタイムでの展開である。2008年の初演で、2011年にはロマン・ポランスキーの監督で映画化もされている(タイトルは「おとなのけんか」)。

開場から開演まで、ずっとヴィヴァルディの「四季」が流れている。昨年、やはり上村聡史の演出で上演されたヤスミナ・レザの「大人のけんかが終わるまで」でも「四季」が流れていたが、上村の好みなのかレザの指定なのかは不明である。

ヴェロニック(真矢ミキ)とミシェル(近藤芳正)のウリエ家の居間が舞台である。
ヴェロニックとミシェルの11歳の息子であるブリュノが、アラン(岡本健一)とアネット(中島朋子)のレイユ夫妻の息子で同級生のフェルディナンに棒で顔を打たれ、前歯が欠けるという事件が起こる。片方の前歯の神経は抜けてしまい、18歳まではインプラントなどの施術も不可能であるため、当分の間はセラミックを被せた状態でいるしかない。ということでレイユ夫妻がウリエ夫妻に謝罪に来たのだ。だが、アランはヴェロニックが宣誓書で用いた「棒で武装し」という言葉に反対する。武装では計画的に殴りかかったような印象を受けるためだ。流れの中で偶発的かつ突発的にということにしたいようである。
何故、フェルディナンがブリュノを棒で叩いたのかについては、フェルディナンもブリュノも詳しくは言わないため不明である。だが、ブリュノがグループを作っており、フェルディナンが仲間はずれにあったらしいということは噂で聞こえてきたようだ。ブリュノがフェルディナンに「お前チクっただろう」と言ったらしいことはレイユ夫妻も把握している。

最初は冷静を装っていたウリエ夫妻とレイユ夫妻であるが、次第にいがみ合いが始まる。弁護士をしているアランは、薬害事件を起こした製薬会社の弁護に取り組んでおり、四六時中、製薬会社の重役や助手と携帯で通話をしているという状態でせわしなく、ウリエ夫妻は勿論、妻であるアネットも苛立ちを隠せない。そもそもが仕事人間のアランは子どもの喧嘩など訴訟の仕事に比べれば取るに足らないことと考えており、やる気がない。
ヴェロニックはアフリカ史関係の著書がある作家であり、歴史や美術関係の出版社でも働いているのだが、パート勤務だそうである。
ミシェルは金物を中心とした小さな家庭用品販売店を営んでいる。売り上げは余りないようだが、仕事に誇りを持っているようだ。
アネットは、投資関係のコンサルタントを行っているという。

アネットが突如気分を悪くして、嘔吐し、ヴェロニックの大切な美術書を汚してしまうなど、散々な展開。レイユ夫妻がバスルームに行っている間、ヴェロニカは、「あの二人は怖ろしい!」と言い、アランがアネットのことを「トゥトゥ」と呼んでいることをからかったりするのだが、それを戻ってきていたアランに聞かれるなど、更に険悪さが増す(余談だが、「トゥトゥ」というのは、「シェリーに口づけ」の冒頭に由来しているらしい)。

それでもなんとか丸く収まりそうになるのだが、ミシェルが前日ハムスターを路上に置き去りにしたという話を聞いていたアネットが、「ハムスターを殺した」となじったことから事態は更なる悪化を見せ……。

ちょっとした見解の相違から敵と味方が次々入れ替わり、それぞれの個性の強さが溝を生んだり、逆に接近したりと目まぐるしい展開を見せるヤスミナ・レザらしい心理劇である。

子どもの喧嘩が元なのだが、それぞれの親の持つ問題点が浮かび上がる仕掛けである。原因を作った子ども二人が舞台に登場することはなく、ある意味、主役不在で脇役が勝手な展開を見せていると捉えることも出来る。

ハムスターの話は、ラストでも出てくるのだが、劇は近藤芳正演じるミシェルの示唆的なセリフで終わる。男優3人の芝居である「ART」(来年、上演される予定がある)でもそうだったが、ヤスミナ・レザの劇は個性的なセリフで締められることが多い。

原題の「Le Dieu du carnage」は「修羅場、虐殺、殺戮」というような意味だそうだが、今回の邦題が「正しいオトナたち」、日本初演時の邦題が「大人は、かく戦えり」で、いずれも「大人」という言葉が入っている。基本的にヤスミナ・レザの作品は大人向けであり、内容もシリアスで渋めのものが多い。初めて観たヤスミナ・レザの作品は、昔のABCホール(ザ・シンフォニーホールよりも北にあったABCテレビ社屋内にあった。ほたるまちに移転したABCテレビ新社屋内にあるABCホールとは別物である)で観た「偶然の男」である。長塚京三とキムラ緑子の二人芝居であったが、あれはもう一度観てみたい。とても愛らしい大人のための寓話であった。

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映画「おとなのけんか」
2019年12月7日

配信で、映画「おとなのけんか」も観てみる。原題は、「God of Carnage(殺戮の神)」。ロマン・ポランスキー監督作品。原作:ヤスミナ・レザ。脚本:ヤスミナ・レザ&ロマン・ポランスキー。2011年の作品。フランス・ポーランド・ドイツ・スペイン合作。上映時間79分の中編である。出演は、ジョディ・フォスター、ケイト・ウィンスレット、クリストフ・ヴァルツ、ジョン・C・ライリー。ポランスキー監督作品だけにかなり豪華である。ノンクレジットで少年達も登場し、木の棒で顔を殴るシーンも引きで撮られている。

英語圏の俳優を使っているため、舞台はパリからニューヨークのブルックリン地区に置き換えられており、役名もアラン(クリストフ・ヴァルツ)以外はアメリカ人風のものに変わっている。ミシェルは英語発音のマイケル(ジョン・C・ライリー)に変わっただけだが、ヴェロニックがペネロペ(ジョディ・フォスター)、アネットがナンシー(アンの愛称。ケイト・ウィンスレット)になっている。子ども達の名前も、フェルディナンがザカリーに、ブリュノがイーサンに変更になっている。だが、実際の撮影はパリで行われたそうだ(ポランスキー監督のアメリカ入国が困難だったため)。

アパートメントの一室が舞台であるが、映画であるだけに舞台の移動も可能で、一度だけだが全員が玄関を出てエレベーターの前まで出るシーンがある。また、舞台版では描くことの出来なかったトイレ(バスルーム)内でのシーンも撮影されている。

ヤスミナ・レザの作品はセリフの量が多いのだが、実際に狭いアパートメントの居間でこの量のセリフが語られると、情報過多の印象を受ける。少なくとも我々日本人はこれほど膨大な量で会話することは稀なので、空間が言葉で隙もなく埋められていくような窮屈さを覚える。だが、それこそがこの作品の本質であるため、居心地の悪さも含めて把握は出来る。
映画の場合、構造は舞台よりも把握はしやすくなっており、TPOをわきまえずに携帯で電話をしまくるアランがまず今この場所に向き合わないことで全員の気分を波立たせ、「大人として求められること。守らねばならないこと」の防波堤が崩れていく。他の登場人物も一言多いため、その余計な一言が波紋を呼んで、やらずもがなの行動を招いてしまう。「殺戮の神」という言葉は、アランがアフリカの情勢を語るときに登場するのだが、アフリカ史専門の著書のあるペネロペに向かってそうした言葉を用いて教授するような言い方をしたためペネロペの怒りを招くなど(専門家の前でさもわかったようなことを言ってはいけない)事態が悪化していく。

子どもの場合は活動の範囲が狭く、友人達と情報を共有した小さな世界で生きていることが多い。性差も大人ほどには大きく意識されず、世間のことについても詳しいとはいえない状態である。一方、大人の場合は好き好んだ場所に移動が可能で、それぞれ専門と呼べる分野を持っていることが多く、多くの場合矜持を伴っている。個人的な知識や経験も豊富で、それぞれに価値観と哲学がある。男女の指向性の違いも大きい。そのため、溝が出来ると子どもとは比べものにならないほど広く深くなり、収拾が付かなくなってしまう。ミニバベルの塔状態が簡単に生まれてしまうわけだ。

舞台版ではラストに登場するハムスターの話は映画版には登場しない。ネタバレになるのは避けるがケータイが鳴ることで「取り越し苦労が多かった」ことがわかるだけである。
ただエンドクレジットにハムスターが登場し、その後、公園で子ども達が遊ぶ姿が映される。ハムスターは子どもの寓意でもあるので、映像で表現出来るならということで会話は敢えて持ち出さなかったのであろう。

 

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2019年12月12日 (木)

笑いの林(120) よしもと祇園花月 「祇園ネタ」&祇園吉本新喜劇「社長という名のもとに」2019.12.8

2019年12月8日 よしもと祇園花月にて

午後3時30分から、よしもと祇園花月で「祇園ネタ」と祇園吉本新喜劇「社長という名のもとに」を観る。

「祇園ネタ」の出演者は、8.6秒バズーカー、タナからイケダ、モンブラン、スーパーマラドーナ、トミーズ(登場順)。

久しぶりに見る8.6秒バズーカー。赤い服にサングラスという出で立ちは変わっていないため、行方不明者と再会したような気分である。田中シングルは風邪のためか喉をやられていて発声が上手く出来ない。
「テレビで僕らを見たことがあるという方」と田中シングルは客席に聞き、手を挙げた人に「お久しぶりです」「あの頃は忙しかったけど今は忙しくないんで」と言っていた。「最近はテレビには出ないようにしています」とも言っていたが、はまやねんに「嘘はやめろや」と突っ込まれていた。

まずは、「ラッスンゴレライ」をやる。始まりのポーズを取るだけで笑いが起こり、田中シングルは「なんの笑いなんでしょうか?」と言う。田中シングルの喉はやはり不調。終わった後で田中シングルは「もっと声出るかと思ったけど」と言い、はまやねんも「僕ですらなんて言っているか聞き取れなかった」と語った。
元々リズムネタしか出来ないということで「ラッスンゴレライ」を始めた二人なので、その後もリズムネタをやる。「白米、玄米、タイ米。それ俺の」というネタをやった後でホワイトボードに50音が書かれたものを用意し、「あ」から順番にリズムに乗せて田中シングルの一人クエスチョン&アンサーを行っていく。はまやねんは合いの手を入れる。
何よりも大事なものは「あい」、酒を飲み過ぎて戻しそうになり「うえ」、おばあちゃんが好きなもの「おかき」という風に繋げていく。悪くはないかも知れないが、想像が付いてしまうため、余り芸という印象は受けない。ばいきんまんの「はひふへほ」で一気に繋げたり、「はまやらわ」を「はまやねん」に結びつけたりするのは上手いのだが。

 

タナからイケダ。京都府住みます芸人である。田邊猛德が、「まだ漫才だけで食べられてるわけではないんですけど」と言った後で、「結婚してます」「子どもが三人います」と明かし、池田周平に「大丈夫かという目で見られてる」と昔からやっているネタでスタート。子ども三人のうち二人は双子である。池田も最近結婚したのだが、そのことは明かされなかった。

田邊がヤンキーマンガに憧れるというのでタイマン勝負の再現を行うが、池田は敵のはずなのにいつの間にか味方になっていたり、池田が「致命的な状況になっているのがわかっていないようだな」と言って子分が田邊を囲んでいるような雰囲気を匂わすも実際は、田邊が握りこぶし、池田がそれを止めるために手を開いている状況であることを「ジャンケンだと負けている」と言うだけだったりする。

高校時代のキャッチボールの思い出。卒業したらどうするか語りながらキャッチボールを行うのだが、右利きのはずの池田が左手で投げ、しかも返球も左手で受け取る。田邊「お前、グラブしてへんやろ?」
田邊の夢は「京都の大学に行って教師になる」なのだが、池田の夢は「左利きになる」でそのための左投げの訓練だったことがわかる。
田邊が教師になったとしてのモンスターペアレンツ対応のシミュレーションでは、池田が「うちの子が左投げをして肩を痛めた」とクレームを言いに来て、さっきのキャッチボールの続きの話になってしまう。

田邊は浮気を疑われているというので、そのシミュレーションも行う。田邊が「仕事して食事に行ってそのまま帰ってきた」とその日のことを話す。池田は「嘘つかないで!」と言うが、「あなたに仕事が見つかるとは思えない!」、田邊「そこ?!」
その後、池田が田邊の名前を「ケンジ」と間違え、池田の方が浮気をしているという展開になる。田邊が「ケンジを呼ぼう」と提案すると池田は、「その必要はないわ。ベランダの方を見て。雨が降ってきた」
田邊「てっきりケンジがベランダにいるんかと思った!」
池田「違うわよ。ケンジだったらこっちの部屋にいるわよ」
田邊「結局、いるんかい!」

 

モンブラン。元々は漫才コンビだったのだが、今は大道芸を行っている。現在は京都府住みます芸人も務めている。
いけっちが横になり、その上に板を置いてその上にローラー。更にその上に板を置いて木下がその上に乗るといったような芸を見せる。
いけっちが顎の上に棒を置き、その上の台の上に小型のテーブルクロスとグラスを置いてバランスを取り、テーブルクロス引きをやったりもする。
木下が角の付いたヘルメットを被り、両手に棒を持ってローラーの上に乗り、いけっちが皿回しをしてヘルメットの角、両手の棒の先に皿を移すという芸も行う。

 

スーパーマラドーナ。田中が「ベルト二本してます」というネタをやり、武智が「去年のM-1でもやってたもんな。僕はM-1が終わった後に(審査員批判を)やってしまいまして。もう1年になります。早く忘れて欲しいんですが」と語る。
田中が前世の占いが出来ると言って客席の人に名前と誕生日、好きな色を聞いてから「かまきり」などと適当に答えるというネタをまずやる。
田中がヤンキーに憧れるという話をして、武智に「それ高校デビューとかで憧れるやつやんか。お前いくつ?」、田中「42。厄年デビュー。武智さんは今でも現役のヤンキーですから」
ということで田中がヤンキーの歩き方などを武智に教わるのだが、武智が「あおり運転の宮崎容疑者の歩き方。怖いでしょ。僕、宮崎容疑者に顔が似てるって言われるんです。声も似てるって言われるんです。『逃げも隠れもしませんから。喜本さん! 喜本さん! 手繋ぎましょ』」と真似を始めてしまう。田中はガラケー女として有名になった喜本容疑者のようにガラケーで撮影をする真似をして武智に頭をはたかれる。
武智は更にヤンキーの脅し文句として、「ケツの穴から手突っ込んで歯ガタガタいわしたろか!」と伝えるが、田中は「ケツの穴に手突っ込んだろか」で止めてしまい、武智に、「それはただの痴漢や!」と駄目出しされた。

 

トミーズ。雅が「私がトミーズのイ・ビョンホンです」と嘘の自己紹介をして健に「何言うてんねん! 文庫本みたいな顔して」と突っ込まれ、健は「キンコンカンコン。健です」と自己紹介して滑ったことを雅に突っ込まれる。
この頃、災害が多いという話をする。去年は超大型の台風が大阪を直撃し、大阪のほぼ全ての施設が運休したのだが、
雅「なんばグランド花月だけは開いてる。何考えてんねん吉本?」

トミーズ雅の娘が結婚したという話をする。アメリカ人との国際結婚なのだが、雅は「アメリカ人と日本人なので生まれる子どもはフランス人になるんじゃないか」とボケる。
その後、雅が嫌いな歌を紹介するというお馴染みのネタ。森高千里の「私がおばさんになっても」。「秋が終われば冬が来る。知っとるわ! 秋が終わって夏が来たらもう一回半袖出さなあかんやないか!」「私がおばさんになったらあなたはおじさんよ。当たり前じゃ! あなたがおばさんになったら性転換しとるやないか!」。夏川りみの「花」(以前は石嶺聡子の「花」と言っていたのだが変わったようだ)「川は流れてどこどこ行くの。海や! それから「どこどこ」ってなんや? どこは一回」。福山雅治「家族になろうよ」。「100年経っても好きでいてね 死んどるって! お前50やろ。150まで生きるって亀か?!」

今の若い人はパソコンばかりやって家にテレビがないことも珍しくないという話から、自分たちはテレビっ子で刑事ドラマに憧れたということで、刑事のシミュレーションを行う。刑事には「聞き込み、張り込み、踏み込み」の3つの「込み」が必要だと雅が健に教えるのだが、健は、「炊き込み、(銀行の)振り込み、(ラーメン屋の)住み込み」の話を始めてしまうという展開であった。

 

 

祇園吉本新喜劇「社長という名のもとに」。出演は、信濃岳夫(リーダー)、レイチェル、多和田上人、松浦景子、岡田直子、桜井雅斗、大黒ケイイチ、帯谷孝史、筒井亜由貴、伊丹佑貴、小林ゆう、チャーリー浜、辻本茂雄。

座長勇退後の辻本茂雄を見るのは初めてである。

restaurantフラワームーンと向かいの学生寮・花月荘が舞台である。花月大学の学生で花月荘に住んでいる信濃岳夫は、貧乏であるためrestaurantフラワームーンでバイトをしている。そんな信濃がrestaurantフラワームーンを訪れた白薔薇女子大学の学生である松浦景子にわかりやすく一目惚れ。同じ花月荘の寮生である吉田(レイチェル)や多和田上人から告白するよう言われる信濃だが、超お嬢様大学である白薔薇女子大学に通う松浦景子が自分のような貧乏学生を好きになってくれるはずがないと自信がなく告白に踏み切れない。
そんな中、若い男が花月荘の前に鞄を捨てていく。男の正体は、吉本エージェントの社長である桜井雅斗。仕事が嫌になり、スーツやネクタイなどが入った鞄を捨てていったのだ。多和田や吉田が桜井が捨てていった鞄を拾う。中からはバーバリーのスーツ(多和田はブルーベリーと読み違える)、シャネルのネクタイ(多和田はやはりチャンネルと読み間違える)、プラダの靴(小沢健二の「痛快ウキウキ通り」を思い出してしまった)などが出てくる。そこで多和田と吉田はこの服を着て金持ちになりすますことを信濃に提案する。ネクタイには「桜井」という名が入っており、これらのものが吉本エージェントの桜井社長のものであることが判明する。信濃の正体は実は吉本エージェントの社長である桜井で、信濃と名を変えてアルバイト体験をしているのだというストーリーがでっち上げられ、フラワームーンのマスターである辻本茂雄もそれを信じ込んで態度を豹変。下へも置かぬ厚遇ぶりである。松浦景子も信濃が桜井だと思い込んで告白を受け入れる。
一方、吉本エージェントに契約を打ち切られたことで瀬戸際に追い詰められた帯谷工業の帯谷孝史が契約破棄の撤回を頼むため、桜井を探している。桜井はテレビにも出る有名人なのだが普段はサングラスをしているため素顔はわからない。そのため帯谷は信濃のことを桜井と思い込んでお願いをするのだが、そんなことを言われても迷惑なので信濃は「自分は桜井ではない」と断言する。だがそこに自分のことを桜井だと信じている松浦が来たため「桜井だ」と前言撤回。松浦がフラワームーンの中に入ると、「桜井じゃない」。また松浦が出てきたため「桜井だ」が繰り返される。

信濃岳夫のリーダー公演であるが、元座長である辻本茂雄の存在感は絶対的。警官役のチャーリー浜がアンチョコを持っているのに読み間違えることを突っ込んだり、帯谷とアドリブ勝負をしたりする。「28年ぶりだな。ずっとやりたかったのにこいつが(不祥事で)何十年とおらんかったから」

ちなみにチャーリー浜は4回も離婚しているそうで、それを聞いた客席の若い女性が「えー!」と悲鳴を上げたりしていた。

祇園吉本新喜劇では、本編終了後に「ずっこけ体験」があるのだが、応募してステージに上がった22歳の男性が「友達と一緒に」来たと言ったところ、辻本が横の席にいるのが女性であるのを見つけ、「彼女だな」と言う。信濃が男性に彼女なのかどうかを聞くと「これから」と言ったため、公開告白が行われることになり、見事女性から「よろしくお願いします」とOKを勝ち取った。

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志村喬 「ゴンドラの唄」(映画「生きる」より)

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2019年12月11日 (水)

観劇感想精選(328) 京都観世会館 第256回市民狂言会

2019年12月6日 左京区岡崎の京都観世会館にて観劇

午後7時から、左京区岡崎の京都観世会館で、第256回市民狂言会を観る。演目は、「宝の槌」(出演:茂山七五三、茂山茂、網谷正美)、「御茶の水」(出演:茂山逸平、茂山あきら、茂山千之丞)、「附子(ぶす)」(出演:丸石やすし、茂山千三郎、松本薫)、「蟹山伏」(出演:茂山忠三郎、山口耕道、鈴木実)

「御茶の水」の住持役は元々は茂山千作が予定されていたが、死去により茂山あきらが代役を務めることになった。


「宝の槌」。太平の世となり、人々は皆、道具自慢にふけるようになる。果報者(金持ちのこと。茂山七五三)も、家の蔵に自慢となるような宝が眠っていないか太郎冠者(茂山茂)に聞くが、太郎冠者は見覚えがないという。そこで果報者は太郎冠者に都に行って宝物を買い求めるよう命じる。
初めての都ということで、ウキウキの太郎冠者であったが、浮き足立っているところをすっぱ(網谷正美)に見抜かれ、ただの太鼓のバチを「鎮西八郎為朝(源為朝)が鬼ヶ島の鬼から奪った打ち出の小槌だ」と売りつけられてしまう。なんでも弓の名手である鎮西八郎為朝が鬼ヶ島に行って、鬼と弓の勝負をして勝ち、隠れ蓑、隠れ傘と共に勝ち取ったのがこの打ち出の小槌なのだという。呪文を唱えると(結構長い)欲しいものが出てくると聞かされた太郎冠者は、すっぱの誘導尋問により腰のもの(太刀)を所望。すっぱが仕込んでおいた太刀が現れたため、すっかり信じ込んでしまう。
さて、実際は太鼓のバチでしかない打ち出の小槌を持ち帰った太郎冠者。主の果報者の前で呪文を唱え、舞を舞い、小槌を振るって馬を出そうとするが何も出ない。太郎冠者は誤魔化すために、口のない馬(エサをやらなくていい)を出そうなどと、現実味のないことを言い始める。
呪文を唱える時の舞は迫力があり、見所の一つとなっている。


「御茶の水」。私の青春の街である東京の御茶ノ水とは関係がない。私の出身地である千葉市にもお茶の水はあるが特に関係はない。
住持(茂山あきら)が、明日茶会を開くことになり、新発意(新米の僧侶のこと。茂山逸平)に、野中の清水からお茶に使うための水を汲んで来て欲しいと頼むのだが、すげなく断られる。そこで、恋仲のいちゃ(茂山千之丞)に水を汲んできてくれるよう頼む。
実は、新発意は、自分が断れば住持はいちゃに水を汲みよう頼むであろうことを読んでおり、清水に一人で来たいちゃに思いを伝えるべく計算していたのだった。
男女の言葉のやり取りは謡として交わされる。伝統芸能の粋である。
二人の男の間で振り回されるいちゃ役が一番重要な役だと思われる。男二人が取っ組み合い(見た目は相撲である)になる場面があるのだが、ここでのいちゃの心の揺れが面白い。


「附子(ぶす)」。数ある狂言の中でも最も有名な演目である。私が小学生の頃の国語の教科書にも載っており、筋書き自体は多くの人の知るところとなっている。元々は中世の説話集である「沙石集」に入っている物語だそうで、一休のとんち話に出てくるよく似た話も「沙石集」に由来しているようだ。
主人(茂山千三郎)が、「山一つあなた」へ行くことになり、太郎冠者(丸石やすし)と次郎冠者(松本薫)に留守を言いつけるのだが、附子(トリカブトのこと)には決して近づかぬよう厳命する。だが実際は附子と言っていたのは砂糖のことであり、留守中に砂糖を盗む食いされぬよう附子だと嘘をついたのである。結局、砂糖は太郎冠者と次郎冠者に全て食べられてしまい、太郎冠者は砂糖を全て食べてしまったことの言い訳を考え出す。普通に考えたらそんな言い訳は通用しないのだが、狂言の中でのことなので「上手い落ち」となっている。実際には誰が損するわけでもないし。


「蟹山伏」。大峯山と葛城山で修行した山伏(茂山忠三郎)が、強力(山口耕道)を従えて、出羽・羽黒山に帰ることにする。山伏はうぬぼれきっており、出羽国に帰れば皆が自分のことを「生き不動」と崇拝するだろうと天狗になっている。
江州(近江国)の蟹が沢にたどり着いたとき、一転にわかにかき曇り、蟹の精(鈴木実)が非常にわかりやすい形で現れる。
山伏は蟹の精を調伏しようとするが全く効かず、という話である。
元々は、甲斐国に伝わる伝承で、謎の雲水が寺の住職に問答を仕掛け、答えられないと殴り殺してしまうという、「オイディプス王」にも描かれたスフィンクス伝説に近いものがあったようだが、「蟹山伏」では山伏は蟹の謎かけにすぐに答えており、問答が解けぬ話ではなくなっている。
蟹は民俗学的にはその姿から千手観音の化身とされる場合があるそうで、修験道と仏法の対比が発展した可能性も考えられる。

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2019年12月10日 (火)

観劇感想精選(327) 南座新開場一周年記念「當る子歳 吉例顔見世興行 東西合同大歌舞伎」夜の部

2019年12月5日 京都四條南座にて観劇

午後4時45分から、京都四條南座で、南座新開場一周年記念「當る子歳 吉例顔見世興行 東西合同大歌舞伎」夜の部を観る。演目は、近松門左衛門作「堀川波の鼓」、河竹黙阿弥作「釣女」、河竹黙阿弥作「魚屋宗五郎」(「新皿屋敷月雨暈」より)、「越後獅子」

「堀川波の鼓」と「魚屋宗五郎」は共に「酒乱」が鍵となっている作品であり、それを縦糸としたラインナップなのだと思われる。大人気といえる演目が存在しないため、今日は空席も比較的目に付いた。

 

「堀川波の鼓」。堀川というのは京都の堀川のことであるが、今回の上演は通し狂言ではないので、堀川の場は出てこない。鼓の師匠である宮地源右衛門(中村梅玉)が京都の堀川下立売に住んでいるという設定である。
因幡鳥取藩で実際に会った不義密通事件を題材にした世話物である。
鳥取藩士の小倉彦九郎(片岡仁左衛門)が参勤交代で江戸に出向いている時の話から始まる。彦九郎の妻お種(中村時蔵)は、江戸詰である夫が恋しくてたまらない。彦九郎が江戸詰の時は、お種は実家に帰っているのだが、そこでも妹のお藤(中村壱太郎)に夫に会えない寂しさを語って聞かせている。お種は、実弟の文六(片岡千之助)を連れ養子としているのだが、文六は、京都の鼓師である宮地源右衛門に鼓を習っている。稽古が終わり、お種と宮地は初対面の挨拶をするのだが、酒が入ることになり、お種は酒好きなのでつい盃が進んでしまう。お藤と文六は帰宅し、源右衛門が場を外している時に、お種に懸想している磯辺床右衛門(中村亀鶴)がやって来て関係を迫る。床右衛門は隣から謡の声が聞こえたのに驚いて帰って行くが、源右衛門に話を聞かれたと思ったお種は源右衛門に口外しないよう誓わせようとする。だが酒で酩酊していたお種は、つい源右衛門と道ならぬ関係になってしまう。その後、引き返してきた床右衛門は、お種と源右衛門のそれぞれの袖を引き剥がすことに成功し、これをネタにゆすりを掛けようとする。5月半ばに彦九郎は帰国するが、藩内にお種が不義密通をしたという噂が流れており、お藤は彦九郎とお種を離縁させようとすると計るも失敗し、結局、彦九郎は泣く泣くお種を手に掛けることになる。
酒の勢いでついという話であるが、当時は不義密通は死罪相当であり、酒のせいでは済まされなかったのである。というわけで誰のせいにも何のせいにも出来ないやるせなさが残る。

彦九郎役の仁左衛門(松嶋屋)は、実は登場している時間はそれほど長くないのだが、貫禄と悲しみを併せ持った彦九郎を浮かび上がらせている。お種を演じた時蔵(萬屋)も酒に溺れてしまった不甲斐なさを適切に表現している。お藤を演じた壱太郎(かずたろう。成駒屋)の可憐さも光る。
この演目では音楽が実に効果的である。南座は新しくなって音の通りが良くなっただけに、一層、音楽の良さが引き立つ。

 

「釣女」。狂言の「釣女」を常磐津で演じる。
妻を娶りたいと思っている大名(いわゆる何万石という所領を持っている大名ではなく、地方の有力者程度の意味である。演じるのは中村隼人)が、縁結びの神として知られている西宮戎(西宮神社)に参詣することを思い立ち、太郎冠者(片岡愛之助)と共に出掛ける。西宮の戎は社伝そのままに夷三郎と呼ばれている。狂言では演者が最初から舞台の前の方に立つことはないのだが、大名のような身分の高い人はそれを表すために他の人よりも前寄りに立つ。

参詣した大名は、美しい女性と出会えるよう、夜通しの籠祈願を行うことにするのだが、太郎冠者に寝ずの番をさせて自分はさっさと寝てしまう。あきれた太郎冠者は何度も大名の眠りを妨げようとする。そうするうちに大名が夢を見る。神社の西の門に運命の人が現れるというのである。西の門に駆け付けた大名と太郎冠者であるが、そこに釣り竿が落ちているのを見掛ける。「女を釣り上げろ」ということかと合点した大名が釣り糸を垂れ、何度か引いている内に、見目麗しい上臈(中村莟玉)が釣り上がる。早速に三三九度を取り交わし、太郎冠者が「高砂」を真似た祝いの舞を演じると、大名と上臈も喜びの舞を始める。

今度は、太郎冠者が釣り針を垂れる。やはり女(中村鴈治郎)が釣り上がるのだが、これがとんでもない醜女であり、太郎冠者は嫌がる。だが、女は太郎冠者にぞっこんで、大名も神が決めた相手なので拒むことは出来ないと言い……。

愛之助(松嶋屋)の軽やかな舞が一番の見所である。隼人(萬屋)は、台詞回しが板に付いていなかったが、若いということだろう。
中村莟玉(かんぎょく。梅丸改。高砂屋)は、襲名披露ということで「おめでとうございます」と言われるシーンがあった。素顔が男前ということで、女形としてもやはり美しく華やかである。

 

「魚屋宗五郎」。私が初めて歌舞伎というものを観たのは、1996年の12月、東京の歌舞伎座に於いてであるが、3つあった演目のうちの最後が「魚屋宗五郎」であり、十二代目市川團十郎が宗五郎を演じていた。「魚屋宗五郎」を観るのは、それ以来、23年ぶりである。ちなみに「堀川波の鼓」で小倉彦九郎を演じた片岡仁左衛門も、1996年以来、23年ぶりの彦九郎役だそうで、偶然ではあるが繋がっている。

「新皿屋敷月雨暈(しんさらやしきつきのあまがさ)」の第2幕と第3幕を上演するもので、この二幕だけを演じる場合は、「魚屋宗五郎」という題になる。
妹のお蔦を手討ちにされた魚屋の宗五郎(中村芝翫)が、金比羅様に誓って絶っていた酒を飲んでしまったことから巻き起こる大騒動である。
実はお蔦は無実で、横恋慕していた岩上典蔵(中村橋吾)の策謀によって不義密通を仕立て上げられたのであった。

宗五郎が酒をがぶ飲みする場面では、三味線がコミカルな感じを上手く出している。

中村芝翫(成駒屋)の演技は、名人芸の域に達しつつある。歌舞伎界のトップに君臨するようなタイプの人ではないが、演技力に関しては言うことなしである。
一方、名前を継いだ長男の橋之助(四代目)は、狂言回しの役割も担う三吉という重要な役で出ていたが、明らかに「浮いている」と思うほどに下手である。同年代の隼人も上手くはないし、まだ若いということなのだろう。十代目松本幸四郎(七代目市川染五郎)などは、若い時から演技の質は高かったが、昨年の11月の顔見世などを見ると伸び悩みが感じられ、早くから完成されているが伸びないタイプと、最初は拙いがどんどん成長するタイプの二つが存在する――というよりどちらかでないと俳優としては致命的である――と思われる。五十代六十代という歌舞伎役者として大成する時期にどちらが上に来るのか見守ることも面白いように思う。

 

中村隼人、中村橋之助、片岡千之助、中村莟玉という若手歌舞伎俳優4人による舞踊「越後獅子」。江戸・日本橋駿河町(現在の東京都中央区日本橋室町)の三井越後屋前が舞台である。背景には堀と蔵屋敷が並び、正面遠方奥に掛かるのが日本橋ということになるのだと思われる(地理的には異なるはずだが芝居の嘘である)。
一つ歯の高下駄で舞うなど、「俺だったら一発で捻挫する自信がある」と思える高度な舞を全員が器用にこなす。流石は歌舞伎俳優である。
4人の中では、莟玉が小柄だが動きに一番キレがある。元々日本舞踊の世界から梨園に入ったということも大きいのであろう。

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2019年12月 9日 (月)

コンサートの記(612) Marihiko Hara 《FOR A SILENT SPACE 2019 KYOTO》

2019年12月2日 左京区岡崎のロームシアター京都ノースホール

午後7時から、左京区岡崎のロームシアター京都ノースホールで、Marihiko Hara 《FOR A SILENT SPACE 2019 KYOTO》を聴く。
野田秀樹の「贋作 桜の森の満開の下」の音楽を手掛け、「『Q』 A Night At The Kabuki」ではサウンドデザインを手掛けた原摩利彦。1983年生まれ、京都大学教育学部卒業、同大学大学院教育研究科修士課程中退で、京都を本拠地としている作曲家である。現在は京都のパフォーマンス・アート・グループであるダムタイプにも参加している。ベートーヴェンと坂本龍一に影響を受け、坂本龍一とは後に共演も果たしている。
私は音楽家ではないが、好きな音楽は一致しているようである。

《FOR A SILENT SPACE》は、原摩利彦の室内楽コンサートのシリーズで、劇場での公演は初となる。原も「室内楽と言いながら基本一人なんですが」と語っていた通り、ピアノの他はコンピューターを使って流れる音楽で構成されており、演奏者は原一人である。今後は演奏家を増やしていく計画もあるそうである。

曲目は、「Habit」「Nuage」「Vibe」「山村余情」「Grazia」「Entree」「Carina」「Circle of Life」「Fontana」「Midi」「Memoire」「Inscape」「Nocturne」、映画「駅までの道をおしえて」より「Main Theme」、NODA・MAP舞台「贋作 桜の森の満開の下」より「Waltz」と「Princess Yonaga」、「Confession」「Passion」「Via Muzio Clementi」

演奏時間約1時間20分、ノンストップでのライブである。

コンピューターを使って出すアンビエント系の音楽は、坂本龍一よりも細野晴臣に近い印象を受けるが、ピアノで弾かれる曲はどれもどこか懐かしく、坂本龍一や坂本龍一が影響を受けた音楽家(ブライアン・イーノなど)の姿が仄見えたりする。基本的は鋭さの余りない美しい音楽である。

「贋作 桜の森の満開の下」は、残念ながら観ることが出来なかったのだが(新歌舞伎座での公演は抽選に漏れた)、「Waltz」も「Princss Yonaga(夜長姫)」も野田秀樹の世界観に合いそうな音楽である。実は「贋作 桜の森の満開の下」はテレビ放送されたものを録画はしているのだが、まだ観ていなかったりする。早く観よう。

ラストに弾かれた「Via Muzio Clementi」は、ローマのクレメンティ通り沿いにピアノの弾けるアパートを借りて、一夏掛けて作曲したそうである。それを友人に話したところ、「え? お前、ずっとローマにいて1曲しか書かなかったん?」と言われたそうで、原本人は「1曲書き上げたぞ!」という達成感で得意になっていたのだが、そう言われて、「え? 足りなかったん?」と肩透かしをくらったようになったそうだ。その友人というのが作曲やなんらかの創作をするのか否かで内容が変わってきそうな話であるが。

今の天候が雨上がりということで、アンコールとして「After Rain」という曲が演奏される。三拍子のウキウキした感じの曲であった。

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2019年12月 8日 (日)

これまでに観た映画より(146) 「ボヘミアン・ラプソディ」

録画してまだ観ていなかった映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観る。イギリス=アメリカ合作作品。クイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーの伝記映画である。監督:ブライアン・シンガー&デクスター・フレッチャー。出演:ラミ・マレック、ルーシー・ボイントン、グウィリム・リー、ベン・ハーディ、ジョゼフ・マゼロ、エイダン・ギレン、トム・ホランダー、アレン・リーチ、マイク・マイヤーズほか。

1970年のロンドン。ペルシャ系でゾロアスター教を信仰する移民の家に生まれたファルーク・バルサラ(ラミ・マレック)は、ヒースロー空港で「パキ野郎(パキスタン野郎)!」と差別を受けながら働いている。仕事の合間にも作詞を行い、作曲をするなど音楽への情熱に燃えていたファルークは、ボーカルに去られた学生バンド・スマイルに参加し、やがて彼らはクイーンとして世界的な人気バンドとなっていく。ファルーク・バルサラは、芸名ではなく本名をフレディ・マーキュリーに変更した。ライブ会場で出会ったショップの店員、メアリー(ルーシー・ボイントン)と恋に落ち、やがて結婚に至るなど、公私ともに順調かと思えたフレディだが、出自の問題やバイセクシャルに目覚めたことなどが影響してメアリーとの仲は次第に疎遠になっていく。CBSからのソロデビューの話を断り続けていたフレディだが、遂にはソロデビューを受け入れることになり、家族と呼んでいたクイーンのメンバーとも仲違いすることになる。クイーンの他のメンバーは有名大学卒のインテリで、本当の家族を作り、子どもを産んで育てることを当然のように行えるが不器用なフレディはそうではない。彼の第一の家族はクイーンのメンバー達だったがそれも失うのだ。

フレディと仕事仲間にして、同性愛の関係でもあったポールは、北アイルランドのベルファスト出身のカトリックで同性愛者と、自らがイギリスから阻害された存在であることを語る場面があるが、フレディもまたペルシャからインドを経てイギリスに渡った移民の子供であり、タンザニアの生まれで、ゾロアスター教徒の子であるが、教義に背いて男も愛するという阻害された存在である。ボヘミアン=ジプシーは、まさに彼のことであり、「ボヘミアン・ラプソディ」は彼自身のことを歌ったプライベートソングである。間違いなくロックではあるが、同時に阻害された者の孤独なアリアであり、バルサラからマーキュリーへの痛みを伴った転身と再生、怖れと希望を歌い上げるソウルナンバーである。
「ボヘミアン・ラプソディ」は、6分という長さと難解さ故、EMIのプロデューサーからも理解されず、シングルカット当初は音楽評論家達から酷評されるが、音楽史上初ともいわれるプロモーションビデオが大衆に受け入れられ(多重録音を用いて製作された「ボヘミアン・ラプソディ」は全曲を通してはライブで歌うことの出来ない曲であり、そのためプロモーションビデオが作成されて公開されたのだが、これが予想以上の人気を呼ぶ)大ヒット。2002年にはギネス・ワールド・レコーズ社によるアンケートで、全英ポップミュージック史上ナンバーワンソングに選ばれることになる。

成功したアーティストになったフレディだが、合同記者会見を行っても記者達は音楽のことではなく自らのプライバシーに切り込もうとばかりする。成功者ではあっても理解された存在ではなかったのだ。

父親から言われ続けた「良き思い、良き言葉、良き行い」から背いたと見做され、両性愛者であったことと奔放な私生活が原因でメアリーに去られ、子供も残せない。そしてルーズな行動が目立ち始めたことに端を発するクイーンのメンバーとのすれ違い。
最後は、この3組の家族の和解と音楽を通しての世界の融合が行われる。全てが結びつけられるのだ。

音楽の力を見せつけられるかのようなラストシーンは、実に爽快である。

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2019年12月 7日 (土)

イン・メモリアム マリス・ヤンソンス ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団 「悲しきワルツ」

先月、フェニーチェ堺で行われたパーヴォ・ヤルヴィ指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の来日演奏会のアンコール曲としてこの曲を聴いているのですが、それから一月も経たないうちに、こんな形で耳にするとは思ってもいませんでした。

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2019年12月 6日 (金)

2346月日(19) 「カルチャートーク Creator@Kamogawa」 第1部「場所の記憶」&第2部「ラ・長い息」 2019.11.30

2019年11月30日 荒神橋のゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川にて

ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川で午後3時から「カルチャートーク Creator@Kamogawa」を聴くことする。
始まる前にゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川内にあるカフェ・ミュラーで食事。本格的な食事は2種類だけで、鳥料理のものを選ぶ。

 

ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川での「カルチャートーク Creator@Kamogawa」は1階のホール(ザール)での開催。ドイツの建築家・美術家であるミヒャエル・ヒルシュビヒラーと宗教人類学者の植島啓司の対談による第1部「場所の記憶」と、ドイツの美術家であるレニ・ホフマンと美術家の今井祝雄(いまい・のりお)との対談である第2部「ラ・長い息」の二本立てである。いずれも司会進行役は小崎哲哉が務める。イヤホン付きの機械を使うことで日独同時通訳音声を聞くことが出来る。

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第1部「場所の記憶」。ミヒャエル・ヒルシュビヒラーは、1983年生まれ。哲学と建築をベルリンとチューリッヒで学び、現在はミュンヘンとチューリッヒを拠点に美術と建築の境界領域で活動。パプアニューギニアでの調査や教育活動も行っている。

ヒルシュビヒラーは、「ナラティブな考古学」と称した調査探索をパプアニューギニアで行っており、パプアニューギニアに伝わる怪談話や口語伝承を現地の人から聞き取っているそうである。
また、アゼルバイジャンの首都バクーの油田では、石油を使って絵を描き、組み上げポンプの音を録音して音楽を作るという試みも行っている。実は、石油を使って絵を描いている時に、立ち入り禁止のところに入ってしまって逮捕されたこともあるそうだ。
石油で描いた絵をギャラリー内に再現するということも行っているそうだが、これらをアゼルバイジャンの外に持ち出すのは許可がいり、下りていないため、ヨーロッパでの再現はまだ果たされていないそうである。おそらくバクー市内のギャラリーでの再現に留まっているのだろう。

一方の植島啓司は、1947年東京生まれ。東京大学と同大学院博士課程修了。ニューヨーク・ニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ客員教授、関西大学教授などを歴任し、現在は京都造形芸術大学空間演出デザイン学科教授を務めている。熊野の民俗学や聖地の研究などを行っている。

植島は「聖地は自然発生的に出来るもので、個人が聖地を作り出すことは出来ない」と主張しており、全く反対の考え方をしている荒川修作と共に聖地調査を行ったこともあるそうだ。
植島は、世界的な聖地としてアルメニアに注目しているという。アルメニアのアララト山は、エデンの園のモデルとなったところだそうで、またアルメニア国内にはノアの箱舟伝説の最初期の形態が残っているという。
熊野に伝わる小栗判官の話などもする。地獄に落とされた小栗判官が蘇るという物語だが、このように非業の死を遂げた人を神様として祀るという習慣が日本にはある。京都での例として北野天満宮が挙げられていたが、京都にはそれ以外にも上御霊神社、下御霊神社、白峯神宮、崇道神社など、怨霊を神様として味方にするという風習がある。これは世界的に見ても珍しい習慣であることは間違いない。小崎によると、他の国では地獄に落ちた人が罰せられるという救いのない話になることが多いそうだ。ヒルシュビヒラーによると、パプアニューギニアにもそんな話はないそうである。パプアニューギニアに伝わるナラティブには、例えば、母親が留守の時に父親が息子を殺してバラバラにし、庭に撒くと草木や花が生えてきて、戻ってきた母親がそれを見て喜ぶという、論理も倫理道徳もない不思議な話が多いそうである。

ヒルシュビヒラーも、「個人で聖地を作ることは出来ない」という植島の意見には賛成するが、「聖地から影響を受けて新たなものを作り出すことは可能」という考えを持っているそうだ。京都に来て、様々な妖怪の話や怪談を集めて回っているが、文学からのアプローチでは、まず日本の古典を読むことを始めたそうで、上田秋成の『雨月物語』を読むことにした。それもドイツ語訳されたものではなく、日本語の文章をGoogle翻訳機にかけたもので読もうとしたそうだが、翻訳機能がまだ正確ではないので、わけのわからないものになったそうだ。ただその滅茶苦茶さが面白いという。これはパプアニューギニアで採取した物語のわけのわからなさにも繋がっているのだろう。
京都について、ヒルシュビヒラーは、「古いものと新しいものがこれほど渾然一体となっている都市は世界中を探しても存在しない」ということで、京都という場所の歴史的重層性を芸術作品にしようと、妖怪が描かれた絵巻物を、幽霊が出るという噂のあるトンネルの中に置き、一晩寝かせた状態のものを作品とするという試みなどを紹介する。トンネルというのは近年になってから出来たもので、絵巻物の上にはタイヤの跡などがついているが、自動車も古くからあったものではない。時代の異なるものが合わさったものを重層性のある芸術作品として捉えるというあり方である。

植島は曼荼羅が土地の代わりになるという日本の考え方を紹介する。これもある意味、土地が芸術作品を生み出す例と見ることも出来る。また記号の中に物語が展開される例があるとして、中央オーストラリアのワルビリ族のイコノグラフィーを紹介する。不思議な絵のようなものが並んでいるが、全てに意味があるそうで、見て感じる物語のようなものとなっているようである。また、蛇の物語が最初に置かれているのだが、この蛇の物語は世界中の至る所で見られるそうで、例としてメソポタミアの英雄マルドゥクと大地の精霊ティアマトの絵が資料に印刷されていたが、考えてみればエデンの園の物語で悪役となっているのは蛇であり、日本でも箸墓伝説など蛇が重要な役割を果たすものは枚挙にいとまがない。

あるいは、聖なる意識というものは人類の奥底で繋がっていて、それが特別な場所や手段を経て、人類の意識上において再結合するものなのかも知れない。

 

第2部「ラ・長い息」。タイトルは、レニ・ホフマンが決めたそうだが、ドイツ語で「LA LANGER」という語感で決めたそうである。レニ・ホフマンは、自らを「アナーキスト」と語っており、前衛芸術を生み出す人であるようだ。

レニ・ホフマンは、1962年生まれ。デュッセルドルフとカールスルーエを拠点に、サイトスペシフィック(場所に帰属する芸術)な創作活動を行っているそうである。2002年よりカールスルーエ芸術アカデミーの教授を務めている。レニ・ホフマンの芸術を捉えるには「パンク」や「遊び」が重要なワードとなるようだ。

対談相手の今井祝雄は、1946年生まれ。1965年に吉原治良が率いる具体美術協会の最年少会員となる。その後、大津市にある成安造形大学教授を経て現在は同大学の名誉教授の称号を得ている。
具体美術協会では、展覧会に出展する作品などは全て吉原治良が選定していたそうだが、評価に関しては「ええで」か「あかん」の二つだけだったそうで、「ええで」と言われた時はいいが、「あかん」と言われたときは理由がわからず、悶々とすることもあったという。自分が教育者や選定者として活動する立場となった時は、流石に「ええで」と「あかん」の二つで決めるというわけにはいかず、駄目なときでもその理由を説明するようにはしているそうである。
吉原には、「これまでにないものを作れ」と何度も言われたそうで、それが作家としての指針となってきたようだ。ただ小崎によると現代芸術は新しいものを求める一方で、その根拠や歴史的な文脈を求めるところがあるそうで、真逆のことをやらねばならない難しさがあるようである。

レニ・ホフマンは、サイトスペシフィックとはいうが、デジタルな思考として「昨日」「今日」「明日」が一度に見えるような作品を指向するなど、重層性ということに関してはヒルシュビヒラーと繋がる部分があるように感じられる。
レニ・ホフマンの芸術観は、日本の観念だと「無常」と相性が良く、その日、その場所、その人でなければ味わえないアートを理想としているようである。第2部開始前に聴衆全員に粘土をこねたボールが配られたが、粘土は誰でも手軽に形を変えることの出来る芸術という意味があるようだった。私も色々と押しつぶして形を変えてみた。結局のところありきたりの形にしかならなかったわけだが。他の人も色々と試していたが、飛び抜けて創造的な作品を作ることは難しいようだった。

ある意味、「個」としての体験を重要な芸術感覚と捉えているようで、第2部終了後、ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川の裏庭に設けられたレニの作品を皆で鑑賞したのだが、様々な角度を向いたミラーに人々が映り込むことで、1回きりの芸術体験が出来るようなものであった。1回きりではあるがそれは瞬間瞬間においてはということで、形を変え続ける作品をずっと見続けることは出来る。ただ、写真とは相性は悪く、私もスマホで何枚か撮影したが、「写真には写らない美しさがある」作品だと確認した。

レニは芸術の幅を広げることを重要視してるようだが、今井によるとメンターの問題として美術系芸術系大学が増えて、売り出し方までも教えるようになった結果、アカデミズムから抜け出ることが難しくなっているという。
都市芸術にも話は及ぶ。都市芸術というと、私などは名古屋市立美術館で観たハイレッド・センター(高松次郎、赤瀬川源平、中西夏彦による前衛芸術グループ。東京の路上で過激なパフォーマンスを行うことで都市における芸術を提唱した)を思い浮かべるが、今井も御堂筋の3階建てのビルの最上階のネオンを使った都市芸術作品を作ったことがあるそうである。レニも都市は市民にとって重要な表現の場という考えを抱いているようであった。

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2019年12月 3日 (火)

コンサートの記(611) 準・メルクル指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第533回定期演奏会

2019年11月28日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第533回定期演奏会を聴く。今日の指揮者は大フィルへの客演も多くなってきた準・メルクル。

まずNHK交響楽団への客演で日本での知名度を上げた準・メルクル。日独のハーフである。おそらくN響の年末の第九で、史上初めてピリオドの要素を取り入れた演奏を行ったのがメルクルだと思われる。ハノーファー音楽院で学んだ後、チェリビダッケらに指揮を師事。タングルウッド音楽祭ではレナード・バーンスタインと小澤征爾に師事している。リヨン国立管弦楽団、MDRライプツィッヒ放送交響楽団、バスク国立管弦楽団の音楽監督を務め、2021年からはオランダのハーグ・レジデンティ管弦楽団の首席客演指揮者に就任する予定である。

 

曲目は、ドビュッシーの「子供の領分」(カプレ編曲)、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、武満徹の「夢の引用-Say sea,take me!-」(ピアノデュオ:児玉麻里&児玉桃)、シューマンの交響曲第3番「ライン」

メルクルは、リヨン国立管弦楽団と「ドビュッシー管弦楽曲全集」を、NHK交響楽団とは「ロベルト・シューマン交響曲全集」を作成しており、いずれも得意レパートリーである。

ドビュッシー、武満徹、シューマンの3人に共通しているのは、「夢」を意味するタイトルの入った曲を代表作にしていることである。武満徹は、今日演奏される「夢の引用」の他にも「夢の時」や「Dream/Window」(駄洒落のようだが夢窓疎石のこと)といった夢をタイトルに入れた曲を多く書いており、タイトルに「夢」は入っていないが実際に見た夢を音楽にした「鳥は星形の庭に降りる」という曲も有名である。
ドビュッシーは、今日演奏される「牧神の午後への前奏曲」も牧神のまどろみが重要なモチーフになっているが、ずばり「夢」というタイトルの有名ピアノ曲を書いている。
シューマンは、言わずと知れた「トロイメライ」の作者である。シューマンの名前を知らなくても、「トロイメライ」を一度も聴いたことがない人は存在しないというほどの有名曲である。

というわけで、「夢」をモチーフにしたプログラミングなのかを、開演前に大フィル事務局次長の福山修氏に聴いたのだが、そうしたことは意識していなかったそうで、メルクルの得意としているシューマンとドビュッシーの曲をというリクエストから始まったそうである。大フィルはシューマンは不得手としているためメルクルに鍛えて貰いたいという思いもあったようだ。
その後、「シューマンの交響曲だと「ライン」よりも第2番の方が夢っぽいですよね」と私が話したことから、オーケストレーションと交響曲第2番の第3楽章と第4楽章の話になったのだが、結構コアな話なので、ここに書いてもわかる人は余りいないと思われる。少しだけ書くと、シューマンの交響曲第2番が陰鬱というのは間違った評価だという話である。

 

今日のコンサートマスターは、東京フィルハーモニー交響楽団のコンサートマスターでヴァイオリニストの三浦文彰の父親としても知られる三浦章宏が客演で入ったが、これが抜群の上手さであった。ソロのパートを弾き始めた瞬間に、「あ、これは上手い!」と感じるのだから半端な腕前ではない。関西は人口が多いということもあって、オーケストラも群雄割拠。コンサートマスターも名手揃いなのだが、次元が違うようである。

 

ドビュッシーの「子供の領分」(カプレ編)。原曲はドビュッシーが愛娘のシュウシュウ(本名はクロード=エンマ)のために書いたピアノ曲である。極めて描写的な「雪は踊っている」や黒人音楽の要素を取り入れた「ゴリウォーグのケーク・ウォーク」などの曲は単独でもよく知られている。ただ、個人的にはやはりオリジナルのピアノ曲版の方が好きである。オーケストラで聴くと例えば「雪は踊っている」の雪が風に舞う場面などは迫真性に欠けて聞こえてしまう。
フランス音楽は得意としていない大フィルであるが、メルクルの指揮に乗って繊細で美しい音色を紡ぎ続ける。これに小粋さが加わると良いのだが、現時点の大フィルにそれを求めるのは酷かも知れない。

 

ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」。フルートが鍵を握る曲であるが、冒頭のフルートは音が大きすぎる上に雑な印象。その後、メルクルが左手で何か指示を出しているように見えてからは少し安定する。ポディウム席だと指揮者が何を要求しているのかよく分かったりするのだが、フェスティバルホールはオペラ対応形式ということで、ステージ後方の席は設けられていない。そのため本当に左手でなんらかの指示を行ったのかも良くは分からない。
立体感のある音響が特徴の演奏であったが、「牧神の午後の前奏曲」としては分離が良すぎる印象も受ける。まどろみの要素が吹き飛んでしまったかのようだ。
この曲の演奏が終了した後では、多くの場合、フルートが単独で拍手を受けるのだが、今回はメルクルはオーケストラ全員を立たせて、単独で拍手を受けるシーンは作らなかった。

 

武満徹の「夢の引用-Say sea,take me!-」。1991年に初演された2台のピアノとオーケストラのための作品である。12の夢を描いたとされる作品で、ドビュッシーの「海」からのそのままの引用が印象的である。
2台のピアノを受け持つ児玉麻里と児玉桃の姉妹は、大阪府豊中市出身。幼い頃に両親と共にフランスに渡り、二人共にパリ国立音楽院に入ってピアノを専攻。姉の児玉麻里は、ケント・ナガノ夫人としても名高い。関西生まれということもあって、京阪神地域で演奏会を行うことも多い二人である。
ドビュッシーの「海」の第3楽章のタイトルは「風と海の対話」なのだが、2台のピアノもまた対話している。2台のピアノとオーケストラも対話していて、武満とドビュッシーもまた対話しているということで、音の背後で縦横無尽なやり取りが行われていることが感じ取れる。
「夢」というのが、いわゆる夜に見る夢のようなものなのか、あるいは「憧憬」として語られているのかはわからないが、後者だとしたらそれはドビュッシーに対してのものであろう。
この曲で武満が書いた旋律は、簡潔で明瞭で温かく、その後に書かれることとなる「系図~ファミリー・トゥリー」を先取りしているかのようである。特に4つの音は印象的で、武満の刻印のように聞こえる。武満が、自分が歩んで来た音楽の原点を振り返るような趣さえある。あたかもショスタコーヴィチが交響曲第15番で引用を多用したように。

児玉姉妹は、元々武器としている煌びやかな音色を生かした切れ味鋭いピアノを弾いた。

児玉姉妹のアンコール演奏は、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」より“金平糖の踊り”。「夢の引用」では、第1ピアノが児玉麻里、第2ピアノが児玉桃であったが、アンコールでは場所を入れ替え、原曲ではチェレスタが奏でるメロディーを第1ピアノの児玉桃が主に弾いた。

 

ロベルト・シューマンの交響曲第3番「ライン」。シューマンの4つある交響曲の中では最も人気が高く、コンサートプログラムに載る回数も多い。メルクルは暗譜での指揮である。
シューマンのオーケストレーションの弱さに関しては、彼の生前からいわれていたことであり、19世紀末から20世紀中盤に掛けては、もっとよく聞こえるようにと楽器を足したりオーケストレーションにメスを入れたりということもよくあった。ただシューマン独自の渋い響きを支持する人も多く、例えば黛敏郎などは、「あの音を出すにはあのオーケストレーションしかない」と全面的に肯定している。
フェスティバルホールは空間が広いので、シューマンの交響曲をやるには不利のように思える。スケールがやや小さめに聞こえてしまうのである。
「ライン」交響曲に描かれた滔々とした流れや、巨大な構造などをメルクルと大フィルは音に変えていく。ドイツ文学や神話、叙情詩などが音として結晶化されているのが把握出来るかのようである。
一方で、音の生命力に関してはホールがシューマンの曲には向いていないということもあって、十分に溢れているとはいえないかも知れない。
ただシューマンが曲に託そうとしていた希望は伝わってくる。

「夢だわ!」(チェーホフ 「かもめ」よりニーナのセリフ)

 

「ライン」もなんだかんだで人気曲だけに、実演に接する機会は多いが、その中でのベストはやはり一番最初に聴いたウォルフガング・サヴァリッシュ指揮NHK交響楽団のものだったように思う。ドイツ精神が音と化してNHKホール一杯に鳴り響いたかのような強烈な体験であった。

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2019年12月 2日 (月)

コンサートの記(610) 以和貴会演奏会「欣求浄土~天台聲明と天王寺楽所」

2019年11月25日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後6時30分から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、以和貴会演奏会「欣求浄土~天台聲明と天王寺楽所」を聴く。
天王寺楽所(てんのうじがくそ)は、四天王寺ゆかりの聖徳太子の時代にまで遡る歴史を誇る雅楽集団である。内裏の大内楽所、奈良の南都楽所と共に三方楽所に数えられていた。だが、明治になって三方楽所の楽師達は東京に召され、雅楽局の団員となる。雅楽局の後継団体が宮内庁式部職楽部(宮内庁雅楽部)である。このため、天王寺楽所の歴史も途絶えそうになったが、これを憂いた有志が雅亮会という団体を結成。事務所を大阪木津の浄土真宗本願寺派願泉寺に置き、天王寺楽所を名乗ることを四天王寺から許されている。平成26年に雅亮会の維持のため以和貴会が結成され、天王寺楽所の名は以和貴会の演奏時の名前となったが、この12月の頭に再統合されて、天王寺楽所雅亮会としてスタートする予定である。
事務所が願泉寺内に置かれているためか、浄土真宗本願寺派の大学で音楽学部のある相愛大学の特別受け付けが設けられていたりする。


曲目は、第1部が「欣求浄土の響」と題され、講式「順次往生講式『述意門』より」、極楽声歌「萬歳楽(只拍子)」、聖衆行道「付楽 菩薩」、舞楽「迦陵頻伽」
第2部が「念仏會」で、舞楽「振鉾(合鉾)」、聲明「引聲阿弥陀経(散華)」、雅楽「賀殿」、聲明「引聲阿弥陀経(四奉請)」、舞楽「還城楽」、退出音声「長慶子」


まず、天王寺楽舞協会常任理事で以和貴会副会長の小野真龍から本日の舞台の解説がある。第1部の前半は往生に向かう道であり、力尽きて途中で緞帳が降りる。その後は極楽の描写となり、極楽の音楽である雅楽が鳴って、迦陵頻伽達(少年達が扮する)の舞となる。

第1部前半は、舞台後方に四天王寺の鳥居と、その上に被さるような夕陽が映されている。夕陽を見ながら極楽を思い浮かべる日想観(じっそうかん)である。夕陽は徐々に沈んでいき、下にまで達したところで声歌が終わって緞帳が降りる。
舞台下手から楽師達が登場。演奏途中で、上手の者から順に緞帳の側に向き直る。全員が緞帳の側を向いたところで、緞帳が上昇。舞台背後には今度は阿弥陀来迎図が浮かんでいる。

少年達による「迦陵頻(迦陵頻伽)」の舞は可憐であった。


第2部は背後に阿弥陀如来像の絵が浮かんでいる。

鉾を持った二人の男の舞の後で、僧侶達が登場し、阿弥陀経と唱えつつ散華を行う。花は紙で出来たものを撒いているようだ。

舞楽「賀殿」。4人の男達による勇壮な舞である。舞人達は戻る時に一人一人阿弥陀如来を見上げてから立ち去っていった。
終わった後で、今のことが全て夢だったかのような不思議な感慨にとらわれる。

再び僧侶達による阿弥陀経が唱えられた後で、今度は仮面を被った男による豪快な舞「還城楽」が行われる。とぐろを巻いた蛇を手にしての舞であり、蛇は迦陵頻伽を舞っていた少年の一人が手渡す。おそらく音楽の神様である弁財天とも関係があるのだろう。
同じ古代の舞踏をモチーフにしているためか、音やリズムがストラヴィンスキーの「春の祭典」を連想させるようなものであるのも面白い。
舞は3部に分かれ、徐々に楽器の厚みが増していく。第3部の重厚な音楽は黛敏郎の「舞楽」に近い迫力を持つ。
さて、舞人はステージ下手手前の仮花道から退場するのであるが、仮面をつけているため前がよく見えず、壁に激突するなどかなり危なっかしい。

最後は、「長慶子」。夢枕獏の『陰陽師』でもお馴染みの源博雅が作曲したという華やかな曲である。

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2019年12月 1日 (日)

これまでに観た映画より(145) アキ・カウリスマキ監督作品「希望のかなた」

2019年11月27日 京都シネマにて

京都シネマで、アキ・カウリスマキ監督の「希望のかなた」を観る。英題は「The Other side of Hope」で、邦題とはニュアンスはかなり異なる。フィンランドを代表する映画監督であるアキ・カウリスマキ(アキやミツコはフィンランドでは男性の名前である)であるが、これを最後の映画にしたい旨を発表済みである。2017年にベルリン国際映画際銀熊賞(監督賞)や、国際批評家連盟年間グランプリ、ダブリン国際映画祭でのダブリン映画批評家協会賞と最優秀男優賞、ミュンヘン映画祭の平和のためのドイツ映画賞ザ・ブリッジ監督賞などを受賞した作品。出演は、シェルワン・ハジ、サカリ・クオスマネン、イルッカ・コイヴラ、ヤンネ・ヒューテンアイネン、ヌップ・コイブ、サイモン・フセイン・アルバズーン、ニロズ・ハジ、マリヤ・ヤルヴェンヘルミほか。

内戦に揺れるシリア。北部のアレッポで暮らしていたカーリド・アリ(シェルワン・ハジ)は、空襲やテロが酷く、家族や親族のほとんどを失ってしまったこともあって亡命を決意し、国境を越えてトルコへ、更にギリシャを経て東欧を北へと向かう。ポーランドの港町でネオナチに襲撃されたアリは、貨物船の石炭の中に隠れる。船員一人に見つかるが、通報されるどころか食事を与えられるなど厚遇される。船員はフィンランドについて、「みんな平等でいい人が多いいい国」と語っていた。
ヘルシンキに着き、早速、難民申請を行うアリだったが、審査が降りるまでは囚人と同じような扱いである。そこでアリはイラク人の難民であるマズダック(サイモン・フセイン・アルバズーン)と出会い、親しくなる。
政府がアレッポの現状を戦地とはいえないと見做したため、アリの強制送還が決まる。シリアに送り返される日、アリは収容所を抜け出してヘルシンキの街に出る。アリには妹が一人いて、ずっと彼女を探して東欧を彷徨っていたのだ。シリアに帰るわけにはいかない。

一方、販売商などを行っていたヴィクストロム(サカリ・クオスマネン)は店を畳み、新たにレストラン経営を始めようとしていた。妻とは別れ、ポーカーで圧勝した金で、裕福な学生が多く住む地区で売りに出されていたレストランを買い取る。店員も前の店から引き継いだが、看板になる料理がなく、ビールしか売れない。そんなある日、レストランのゴミ出し場を占領していた男が一人。「ここが自分の家だ」と主張する男とヴィクルトロムは殴り合いとなる。その男こそアリであり、アラブ人で身長も171cmと西洋人に比べると小柄であるアリは、一発で伸されてしまうのだが、結果としてレストランの店員として採用される。アリは身の安全のために身分証を偽造して貰い(名をアリからフセインに変える)。マズダックに妹の居所がわかったら教えてくれるように頼む。

アキ・カウリスマキ監督の作品は、暴漢が出てくることが多いのだが、アリもレストランにたどり着くまでに、ごろつきのような地元の親父達に絡まれ、逃げ込んだバスにウイスキーの小瓶を投げつけられたりする。レストランでのライブを聴いていると、フィンランド解放軍という極右排斥主義組織のメンバーに囲まれ、会場を出た後で襲撃され、あわや落命寸前のところまで追い詰められている。フィンランドでも難民排斥問題は持ち上がっており、決していい人達ばかりではない。

アリとフィンランドの人達との交流であるが、センチメンタルになったりヒューマンドラマになったりするのは避け、クールな描写が一貫されている。いわゆる「感動」とは少し距離を置いて撮られた作品である。

どうもヘルシンキでは今、寿司がブームになっているようで、店の売り上げに悩むヴィクストロムは、ウエイターのカラムニウス(イルッカ・コイヴラ)の提案を受け、書店で日本関連の書籍を買い漁って得た知識で、「インペリアル・スシ」という店を始めてしまうのだが、ネタもシャリも全てがいい加減で、わさびはドデカ盛り。店員達は法被や浴衣を着て、「いらっしゃいませ」と日本語で日本人客を出迎える。店内には「竹田の子守唄」が流れている。当然ながら成功するはずもないのだが、このシーンで一番笑えるのはやはり日本人であろう。映画の中では日本酒の話が出てきたり、ラスト近くの良い場面でも日本の歌謡曲が流れたりと、日本的記号が鏤められている。

ラストはささやかな幸せの場面なのだが、悲しさも漂っており、「解決」はさせていない。物足りなく思う人も結構いそうだが、これが現実に最も近いのであろう。
あるいは、「続きはもう引退するような人間ではなく、もっと若い人が書け」ということなのかも知れない。

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