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2019年12月の29件の記事

2019年12月31日 (火)

コンサートの記(616) 尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団「第9シンフォニーの夕べ」2019

2019年12月30日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで大阪フィルハーモニー交響楽団「第9シンフォニーの夕べ」を聴く。指揮は今年も音楽監督の尾高忠明。

独唱は、森谷真理(ソプラノ)、清水華澄(アルト)、福井敬(テノール)、甲斐栄次郎(バリトン)。合唱は、大阪フィルハーモニー合唱団。

今日のコンサートマスターは、須山暢大。ドイツ式の現代配置での演奏である。

昨年の大フィルの年末の第九はフェスティバルホールの最前列下手寄りで聴いており、指揮者の尾高の姿はほとんど見えなかったが、今日も下手寄りの前から2列目。尾高の姿は微かに見え、第1ヴァイオリンに指示を送る時のにこやかな表情が印象的であった。

尾高らしい見通しの良い第九であり、京響を指揮したスダーンとは違って第九を独立峰と見たようなアポロ芸術的な演奏である。全てが中庸であり、傑出した個性がない代わりに抜群の安定感がある。1年を振り返る第九としてはある意味理想的かも知れない。

大フィルの技術は高く、朝比奈隆の時代から脈々と受け継がれてきたベートーヴェン演奏に対する誇りが感じられる。昨年、一昨年はホルンのミスが目立ったが、今年はそれもない。

第2楽章の音型や第4楽章のピッコロの浮かび上がりなどがあったことから、おそらくベーレンライター版での演奏であったと思われるが、古楽は一部を除いて意識されていないようである。

天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典での国歌独唱を務めた森谷真理。日本人ソプラノとしては硬質の声を持つ人だが、こうした声で聴く第九もいい。


演奏終了後には今年も福島章恭指揮大阪フィルハーモニー合唱団による「蛍の光」がある。溶暗の中、福島は緑の灯りのペンライトを振り、大フィル合唱団のメンバーも同色のペンライトを掲げたキャンドルサービスの中での合唱。今年あった様々な出来事が、清められた上で空へと昇っていくような趣があった。


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2019年12月30日 (月)

コンサートの記(615) ユベール・スダーン指揮 京都市交響楽団特別演奏会第九コンサート2019

2019年12月27日 京都コンサートホールにて

午後7時から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団特別演奏会第九コンサートを聴く。指揮は、東京交響楽団とのコンビで日本でもお馴染みになったユベール・スダーン。独唱は、吉田珠代(ソプラノ)、八木寿子(やぎ・ひさこ。アルト)、清水徹太郎(テノール)、近藤圭(バリトン)。合唱は京響コーラス。

 

オランダ・マーストリヒトに1946年に生を受けたユベール・スダーン。ブザンソン国際指揮者コンクール優勝、カラヤン国際指揮者コンクール2位、グイド・カンテルリ国際コンクール優勝といった輝かしいコンクール歴を誇る。
岩城宏之が首席指揮者を、尾高忠明が首席客演指揮者を務めていたことで日本でも知名度の高いメルボルン交響楽団の首席客演指揮者、フランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団やザルツブルク・モーツァルティウム管弦楽団管弦楽団の首席指揮者を経て、2004年に東京交響楽団の音楽監督に就任。一時代を築き、14年に退任した際には同楽団から桂冠指揮者の称号を贈られている。2018年9月にはオーケストラ・アンサンブル金沢の首席客演指揮者にも就任し、今後も日本での活躍が期待されている。
基本的にノンタクトで指揮する人であり、今日も指揮棒を持たず両手と頭の動きによってオーケストラをリードする。

 

まず、メンデルスゾーンの序曲「静かな海と楽しい航海」が演奏され、休憩を挟まず第九の演奏が行われる。
管の首席は、オーボエの髙山郁子とホルンの垣内昌芳が第九のみの出演。メンデルスゾーンにはトロンボーンパートがないので、トロンボーン奏者も全員第九からの参加となる。他のパートの首席奏者は全編に出演する。

コンサートマスター・泉原隆志、フォアシュピーラー・尾﨑平といういつもの布陣。第2ヴァイオリンの首席は客演の安井優子が入る。ドイツ式の現代配置での演奏。

 

メンデルスゾーンの序曲「静かな海と楽しい航海」。ベートーヴェンも同じゲーテの詩に基づいたカンタータを残していることから選ばれたのだと思われる。令和という新時代の幕開けに相応しい曲であり、今回が新元号初の第九となることはプログラム決定の前に決まっていたはずであるが、そのためのプログラムと取るのは考えすぎかも知れない。ただ、平成の海はとんでもないことになったため、令和の海は静かであって欲しいとは思う。
スダーンは京響の弦から温かい音を弾きだし、冴え冴えとした管の響きと対比させる。安定感と切れ味を兼ね備えた演奏である。バロックティンパニの力強さも特徴的であった。

 

スダーンの描く第九は、テンポが速めでリズムを強調し、内声部えぐり出すなどベートーヴェンの荒ぶる魂を浮かび上がらせるものである。結構ロックな第九であり、人類史上初のロックである交響曲第7番と、山椒は小粒でもピリリと辛い交響曲第8番との連続性を感じさせる解釈である。非常に面白い。

バロックティンパニの強打は、ピリオド・アプローチによる演奏ではよく聴かれるものだが、第2楽章でのティンパニの5連打で、5打目をピアノに変えずにフォルテのまま叩かせたのが新鮮であった。スダーンは下手に置かれたティンパニへの指示は左手と頭を振ることで行う。

京響の第九というと、広上淳一や、昨年の第九を振った下野竜也のようにアポロ芸術的な第九を生み出す人が多いのだが、スダーンの第九はそれとは真逆である。ディオニソス的とまではいかないが、エネルギー放出量は極めて高い。それでいながらフォルムを崩さないのがスダーンの至芸である。

第3楽章もかなり速め。ひょっとしたら上岡敏之の第九よりも速いかも知れない。スリリングな展開になる場面もあったが、薄味にはならない。低弦をしっかり弾かせて全体の音に厚みと奥行きを出すなど演出も巧みである。

第4楽章も前半は前のめりの演奏。ただゲネラルパウゼはしっかりと入れるため、せわしないという印象は受けない。
京響コーラスは、快速テンポということで、最初の内はどうしても声の精度に粗さが出てしまっていたが、力強さがあり、立体的な音響が見事である。アンサンブルも徐々に整っていき、オーケストラ同様、堅固なフォルムが築かれる。スダーンの音響設計力はほぼ完璧といって良い領域に達している。
スダーンは、古楽の本場であるオランダ出身ということもあってピリオドを援用したモダン楽器による演奏はお手の物である。今日は弦のビブラートはさほど抑えてはいなかったが、第4楽章ではヴィオラに完全ノンビブラートで弾かせて浮かび上がらせるなど、ピリオドとモダン両方の長所を止揚した音楽作りで聴かせる。

とにかく面白さに関しては、これまでに接したことのある第九の実演の中でも上位に入る出来。東響の音楽監督を10年務めた実力が伊達ではないことを示していた。

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2019年12月29日 (日)

これまでに観た映画より(149) 没後30年「サミュエル・ベケット映画祭」より「ゴドーを待ちながら」

2019年12月20日 京都造形芸術大学映像ホールにて

京都造形芸術大学芸術映像ホールで、没後30年「サミュエル・ベケット映画祭」、「ゴドーを待ちながら」を観る。マイケル・リンゼイ=ホッグ監督作品。出演は、バリー・マクガヴァン、ジョニー・マーフィーほか。英語での上映、日本語字幕入りである。2000年代初頭にベケットの祖国であるアイルランドのダブリン・ゲート・シアター芸術監督であったマイケル・コールガンの企画によるベケットの戯曲映像化作品の中の一作である。途中、機材の不調により上映が中断されるトラブルがあった。

ベケットの代表作にして現代演劇のマイルストーンとなった「ゴドーを待ちながら」。アメリカ初演の際は大半の客が休憩時間に帰ってしまうというスキャンダルを起こしたことでも知られる(「ゴドーを待ちながら」が「抱腹絶倒の喜劇」などと宣伝されたことも原因の一つである)。

舞台では3度観ている「ゴドーを待ちながら」であるが、映像を観るのは初めてである。個人的には演劇と映画は全くの別物と考えているのだが(演劇は映像よりもボードゲームに近いものがある)今回の「ゴドーを待ちながら」ではその感がより一層強くなった。

エストラゴンとウラディミールのいる場所が、舞台よりもより死に近い場所に感じられる。二人の老いもより切実なものがある。あるいは荒涼とした景色がそういった印象を強くしているのかも知れないし、私自身が四十代半ばに差し掛かっていて、元々病弱ではあったが、若い頃よりも健康に気を遣わざるを得ない状態となり、死への坂を下りつつあることを実感しているからかも知れない。最初に「ゴドーを待ちながら」を観たのは、2002年であったが(串田和美、緒形拳ほかによるシアターコクーン内特設劇場であるシアターPUPAでの上演)その頃とは比べものにならないほど死はリアルな存在となっている。

柳の木(に見えないが)は、「ハムレット」のオフィーリアが川に転落したり、日本では幽霊が現れる場所だったりと、死に纏わるイメージを持っている。エストラゴンが裸足で歩く場面で、ゴルゴダの丘を上がるキリストの話が出てくるが、これも死に直結した話である。

映像は舞台とは違い、「空間」をさほど意識することはない。そのため流れに意識が行き、過ぎゆく時間の性質がよりはっきりと感じられることになる。二人は死の瀬戸際にいる。
エストラゴンとウラディミールが生きているのは「人生」そのものの場所であるが、個々人の人生ではなく、全人類の総体としての人生であり、ポッツォとラッキーを含めた4人は全人類の寓喩でもある。彼らの話す言葉は、多くの人々の人生に通底したものであり、時代と場所を越えた人間存在そのものの悲しみでもある。結局の所、本質的なことは何一つ掴み得ずに過ぎゆく人生と、幾世代にも渡ってそれを続けてきた人類の。
いつの時代も権力者と奴隷の構造は見え方が異なるだけで変わらないが、栄耀栄華はやがて衰え、他の者が成り代わるもまた移ろうことを繰り返す。そして権力者もまた時代の奴隷である。そんな中にあっても我々はゴドーを待たなければならない。ゴドーの正体については色々な説があるが、実際のところ正体はどうでもいいし、ゴドーが来たからといって状況は大して変わらないのかも知れない。少なくともゴドーは解決をもたらす存在ではないと思われる。実際、楽観的な解釈をしそうな人のためにベケットは、「世の中のやつらはみんな無知なサルだからね」というセリフを用意している。
「待たねばならないこと」が重要なのだ。それが我々、誰にもなれない自分の宿命なのである。

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2019年12月28日 (土)

東京バレエ団×京都市交響楽団クリスマススペシャル バレエ「くるみ割り人形」(全2幕)

2019年12月22日 左京区岡﨑のロームシアター京都メインホールにて

午後2時から、ロームシアター京都メインホールで、東京バレエ団×京都市交響楽団クリスマススペシャル チャイコフスキーのバレエ「くるみ割り人形」を観る。指揮は井田勝大(いだ・かつひろ)。キャストは、川島麻実子、柄本弾(つかもと・だん)、森川茉央、鳥海創、湧田美紀、海田一成、永田雄大、政本絵美、加藤くるみ、杉山優一、伝田陽美、宮川新大、三雲友里加、ブラウリオ・アルバレス、岸本夏朱、岡崎隼也、池本祥真、昴師吏功、中川美雪、工桃子、樋口祐輝、岡﨑司、上田実歩、杉山優一、髙浦由美子、南江祐生、菊池彩美、和田康佑。

チャイコフスキーの三大バレエの一つとして知られる「くるみ割り人形」。クリスマスイブが舞台になっているということで、今のシーズンに良く上演される。

 

東京と京都の団体のコラボレーション。チケット料金も安めに設定されているため、入りも上々である。

 

指揮の井田勝大は、東京学芸大学音楽科、同大学院を修了。2003年より来日オペラ団体の公演に制作助手として携わり、小澤征爾やズービン・メータのアシスタントを務めているという。バレエを指揮した経験も豊富だそうだ。現在はオーケストラトーキョー指揮者と広島にあるエリザベト音楽大学の講師を務めている。

井田の指揮する京都市交響楽団は、ロームシアター京都メインホールのピットでの演奏ということもあって、いつもよりも音の密度が薄めに感じられるが、バレエダンサーは踊りやすそうな音楽作りである。

E.T.A.ホフマンの童話をマリウス・プティバが台本化したものをチャイコフスキーがバレエ化した作品であるが、少女がくるみ割り人形に誘われて夢の世界に遊ぶという内容で、筋書きらしい筋書きはない。「ロメオとジュリエット」のように誰でも知っている筋書きなら別だが、バレエは基本的に複雑な物語を扱うことは出来ない。

 

紗幕に雪が舞う様が投影されてスタート。人々がクリスマスパーティーが行われる家にどんどん吸い込まれていく。セットは描かれたものが中心のシンプルなものだが、とても愛らしく、子ども達も喜びそうである。

東京バレエ団のメンバーもかなり優秀という印象を受ける。白人に比べると体格で劣るため、見栄えはさほどしないのであるが、技術面では当然ながら高いものがある。
体格差でいうと、男性の方がより顕著であり、日本人も年々体格は良くなっているが、白人の迫力にはどうしても敵わない。野球やサッカーで見られるのと同じ現実である。女性の方もやはりプロポーションでは白人に勝てないが、愛らしさでカバー出来る部分もある。男性ダンサーも女性ファン向けには愛らしさを打ち出して人気を得ることは可能なのかも知れないが。

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2019年12月26日 (木)

観劇感想精選(333) 南船北馬 「これ から の町」

2019年12月13日 大阪・周防町筋のウイングフィールドにて観劇

午後7時30分から、大阪・周防町筋のウイングフィールドで、南西北馬の「これ から の町」を観る。作・演出:棚瀬美幸。
大阪を代表する演劇人の一人である棚瀬美幸。ドイツに留学し、ドイツ人の男性と結婚。大阪でドイツ料理店をやっていたが、このほど閉店。そして、石垣島に移住することにしたそうで、棚瀬美幸が大阪の演劇人として南船北馬で公演を行うのはこれが最後となるようだ。

ウイングフィールドは奥側を舞台として用いることが多いのだが、この公演では奥と手前を客席とし、挟まれる形になったスペースで演技を行う。上から見ると菱形に見える台が置かれていて、これがステージということになるのだが、片方が赤、もう片方が白く塗られており、方位磁針を模したものであることがわかる。

出演は、橋本浩明、桂ゆめ(俳優座)、竹内宏樹(空間悠々劇的)、岩本苑子(少年王者舘)、高橋映美子、出口弥生。

出演者は6人であるが、最後の場面を除き、俳優を入れ替えながら2人ないし3人での芝居が行われるシークエンスが連続する。

関係を整理しておくと、悟(橋本浩明)の妻であったミカの姉が史歩(高橋映美子)。悟の妹が絢奈(桂ゆめ)で、絢奈は睦月(竹内宏樹)と同棲していたが、同じアパートに暮らしていた人が火事を起こして二人の部屋にも煙が充満してしまい、いられなくなったため、絢奈は兄である悟の部屋に移っている。睦月はといえば、もう一人の恋人である麻友(岩本苑子)と日帰り出来る場所を転々とする旅を続けている。観光をするような生やさしものではないという意識を麻友は持っているようだ。麻友は睦月の子どもを身籠もっている。
結月(出口弥生)は睦月の姉である。睦月は背中に瘤があるが、これは子どもの頃、結月の鼓膜が破れるほどの殴り合いの喧嘩をして、姉弟もろとも階段から転げ落ちた際に出来た傷が元で出来たものである。結月は編み物を得意としていて、レッサーパンダのニット帽を編んでいたりする。

ミカが亡くなってから3年が経つ。詳しいことは語られないが、ミカは災害によって亡くなったようである。その災害では多くの人が亡くなり、ミカ自身の遺体も見つかっていない。悟は、自宅をミカがいた時のままに保存している。ミカがいなくなってからの悟は毎日のように家を掃除して清潔に保っている。男としては珍しいが、実は悟はミカの死を受け入れてはおらず、「遺体が見つかっていないので、死んだとはまだ言い切れないはず」として、ミカがいた時の状態のままに家を保っており、いつミカが帰ってきてもいいよう整えていたのであった。史歩(フルネームは田中史歩で、キンタロー。の本名である田中志保と音は一緒である。この役名は漢字も意味ありげだが、音にも意味があり、キンタロー。を意識してつけられた名前ではない。そもそもキンタロー。の本名を知っている人はそれほど多くないはずである)は、3年が経過したため、妹の遺品を引き取りたいと悟に申し込んでいる。史歩は、悟の妹の絢奈を何度も「アヤメ」と言い間違え、悟も最初の内はうちは訂正を入れていたが、無駄だと悟ってスルーするようになる。

睦月と旅を続ける麻友は、睦月の同棲相手であった絢奈や睦月の姉である結月に敵愾心をむき出しにする。とにかく自分の方が睦月を理解しているのだとアピールしたがるのだが、結月に「ほあのきつむ、るたれかわ」という呪文を教わり、絢奈が語る睦月の一面を知り、引き下がることを決意するようになる。ちなみに「ほあのきつむ、るたれかわ」は、「睦月のアホ! 別れたる!」を逆から読んだものである。
資産家の子どもとされる睦月と結月は仲は良いのだが、結月は親からの遺産を睦月に譲る気はない。睦月に遺産を分けるくらいならいっそのこと絢奈に渡した方がましだと思っているのだが、睦月と絢奈にも別れと新たな旅立ちが迫っていた。

悟とミカ、悟と史歩、睦月と絢奈、睦月と麻友、睦月と結月など、とにかく登場人物全てが別れと再出発の季節を迎えており、悟も思い出詰まったこの部屋を出て行くことになる。なんとなくチューリップの「サボテンの花」っぽい展開だが(サボテンの話は実際に劇中に登場する)、大阪の街を離れて新天地へと向かう棚瀬美幸の心境が込められているのだろう。

言葉の食い違いに始まり、やがて登場人物達は逆回しの言葉を話し始める。ミカはカミになる。名古屋生まれで大阪弁のセリフも書いた棚瀬美幸が島ごとに言葉が異なるという沖縄に向かう。
「いゃしっらてっい。ねすでいいとるかつみがばとこいしらたあ」
ダンケシェーン! アウフヴィーダーゼン!

 

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2019年12月25日 (水)

観劇感想精選(332) 戸田恵子一人芝居「虹のかけら~もうひとりのジュディ」(ネタバレありバージョン)

2019年12月3日 大阪・西梅田のサンケイホールブリーゼにて観劇

午後6時30分から、大阪・西梅田のサンケイホールブリーゼで「虹のかけら~もうひとりのジュディ」を観る。構成・演出:三谷幸喜。戸田恵子による一人芝居である。音楽監督は、三谷作品にはお馴染みとなった荻野清子であり、荻野のピアノ、平野なつきのベース、BUN Imaiのドラムという3人の女性バンドの演奏に乗せて、戸田が演じ、歌う。
振付・ステージングは、本間憲一。
昨年初演が行われた作品で、今回は再演となる。

開演前に三谷幸喜による録音のアナウンスが2度あったのだが、内容は少し異なり、一度目は「私が三谷幸喜です」と落ち着いた自己紹介を行っていたが、二度目は「そうです! 私が三谷幸喜です!」と演説調になり、「会場内での録画、再生、早送りはご遠慮下さい」が、「会場内での録画、再生、巻き戻しはご遠慮下さい」に変わったり、「音の出る電子機器をお持ちの方は、電源を切るか、いっそのこと壊すかして下さい」が「電源を切るか、水に漬けて下さい」に変わったりする。2度目のアナウンスでは、「まもなく開演です! 開演です! 開演です!」とせかしていた。
そういえば、青山劇場で「オケピ!」の初演を観た時も、三谷の録音によるアナウンスがあり、「埼玉県にお住まいの方は、早めにお帰りになるか、引っ越すかして下さい」と言っていたっけ。

実は、この作品、重要なネタバレ禁止事項がある。12月25日のクリスマスの日に行われる千秋楽を迎えたため明かすことにする。

 

映画「オズの魔法使」や「スタア誕生」などで知られるジュディ・ガーランドの生涯を、ガーランドのスタンドインや付き人を務めたジュディ・シルバーマンの目を通して語る作品である。戸田恵子と三谷幸喜による一人芝居は先に「なにわバタフライ」があり、「なにわバタフライ」がセリフのみによる進行だったのに対して、「虹のかけら」は、ストーリーテラーとセリフを兼ねる語り物である。歌も全11曲が歌われるため、ショーの要素もふんだんにある。

歌唱楽曲は、「I got rhythm」「Zing! went the string of my heart」「over the Rainbow」「I Love A Piano」「A couple of swells」「You made me love you(Dear Mr Gable)」「The trolly song」「Get Happy」「Swanee」「Over the Rainbow(Rep)」「On the sunny side of the street」

まず、荻野清子、平野なつき、BUN Imaiのバンド3人が、客席入り口から現れ、客席通路を通ってステージに上がる。一応、3人にもセリフがあり、荻野「今日、これ終わったら何食べる?」、平野「餃子」、荻野「私は551の豚まん(大阪ネタ)」、BUN「ゆで卵」、荻野「みんなそれぞれだね」というもので、入れる意味はあんまりない。まあ、折角なので喋って貰おうということなのだろう。

その後、戸田恵子がやはり客席入り口から、「遅くなっちゃった!」と言って現れる。

まずはジュディ・ガーランドの説明から入る。ジュディ・ガーランドは1922年生まれ。1929年に二人の姉とガムシスターズを結成し、幼くしてデビュー。ちなみにガムは、本名であるフランシス・エセル・ガムに由来する。
13歳にしてMGMと契約を交わして映画デビューし、天才子役として持て囃され、17歳の時に「オズの魔法使」のドロシー役で人気を決定的なものにする。
しかし、子どもの頃から薬物中毒に苦しめられ、若くして成功したことに由来すると思われる奔放さによって多くの人から見放されることとなり、47歳の若さで他界している。ちなみに娘は女優となったライザ・ミネリである。

そんなジュディ・ガーランドの姿が、もうひとりのジュディであるジュディ・シルバーマンの日記から構成されたテキストによって浮かび上がる。
ちなみに「虹のかけら」というのは、戸田恵子がニューヨークに行った時に発見し、夢中になって一晩で読んだというジュディ・シルバーマンの著書『Piece of Rainbow』に由来する。

ジュディ・ガーランドは、トニー賞やグラミー賞を受賞しており、アカデミー賞は何度もノミネートされるも手が届かなかったが、女性としては最高の栄誉をいくつも手にしたアメリカンドリームの体現者である。ただその栄光とは裏腹に、結局、全員が最後は彼女を見捨て、心から愛してくれる人に巡り会うことが出来なかった人間としての失敗者でもある。オーディションで「オズの魔法使」のドロシー役に手が届く所にいながら、ガーランドに奪われ、平凡な道のりを辿ることになったジュディ・シルバーマンとの対比により、人生の意味が問われることになる。

実は、ジュディ・シルバーマンというのは架空の人物である。これはクライマックスにおいて、三谷の影アナによって明かされる。『Piece of Rainbow』という書籍も当然ながら存在せず、全ては三谷が書いたテキストである。

三谷幸喜「そもそも戸田恵子に英語の原書を一晩で読める英語力はありません」

というわけで、三谷幸喜の構成というのも実はフェイクで、実際には三谷幸喜の作と書いた方が適当である。表裏一体ともいえる人生の明と暗を描く上で三谷が行った仕掛けというわけだ。
なお、ドロシー役をジュディ・ガーランドに奪われることになった女優は、実際はシャーリー・テンプルだそうで、「ジュディ・ガーランドよりもずっと成功することになった。人生どうなるかわからないもんですね」と三谷は語っていた。

 

当て書きを常とする三谷幸喜であるが、今の年齢の戸田恵子にまさにぴったりの作品となっている。戸田恵子以外の俳優には上手く馴染まないだろうし、もう少し若い時の戸田恵子が演じても今ほど奥行きは出ないだろう。

なお、終演後のアナウンスで三谷は、「戸田恵子生誕70年記念作品として、『三人目のジュディ 魅せられて』を上演する予定です」と、どう考えてもジュディ・オングを描いた一人芝居の上演を予告していたが、本当にやるのかどうかはわからない。

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2019年12月24日 (火)

コンサートの記(614)「古楽最前線!――躍動するバロック2019 脈打つ人の心―中後期バロック いずみホールオペラ2019『ピグマリオン』」

2019年12月14日 大阪・京橋のいずみホールにて

午後2時から、大阪・京橋のいずみホールで、「古楽最前線!――躍動するバロック2019 脈打つ人の心―中後期バロック いずみホールオペラ2019『ピグマリオン』」を観る。いずみホールのディレクターでもあった故・礒山雅が企画・監修したバロック音楽のシリーズであり、礒山の遺志を引き継ぐ形で続けられている。

今日は、日本におけるバロックヴァイオリン演奏の第一人者である寺神戸亮(てらかど・りょう)が率いるレ・ボレアードの演奏会である。
レ・ボレアードとは、ギリシャ神話に登場する北風の神々で、東京都北区にある文化施設、北とぴあ(ほくとぴあ)で行われた国際音楽祭から生まれた古楽オーケストラである。「北区から文化の風を吹かそう」というメッセージが込められているそうだ。

今回は、バロックのバレエとオペラの企画である。
演目は、前半が、リュリの「アティス」より序曲~「花の女神のニンフたちのエール」~メヌエット~ガヴォット、コレッリの「ラ・フォリア」、リュリの「町人貴族(変換したら「超人気族」と出たがなんだそりゃ?)」より「トルコ人の儀式の音楽」と「イタリア人のエール」、リュリの「アルミード」より「第2幕第2場の音楽」と「パサカーユ」。後半がラモーのオペラ「ピグマリオン」(演出:岩田達宗)。

岩田さんも神戸のお寺の子なので、寺神戸さんと一緒に仕事をするのに似つかわしい気もするが、それはどうでもいいことである。

寺神戸亮は、ボリビア生まれ。桐朋学園大学に学び、東京フィルハーモニー交響楽団のコンサートマスターを務めている。その後、オランダのデン・ハーグ音楽院に留学。オランダはイギリスと並ぶ古楽のメッカであり、寺神戸も世界的に知られた古楽の大家、シギスヴァルト・クイケンに師事。レザール・フロリアン、ラ・プティットバンド、バッハ・コレギウム・ジャパンなどのコンサートマスターを歴任し、ソロでも多くのCDをリリースしている。1995年には北とぴあで上演されたパーセルのオペラ「ダイドーとエネアス(ディドとエネアス)」で指揮者としてもデビューしている。現在は、デン・ハーグ音楽院教授、桐朋学園大学特任教授、ブリュッセル音楽院と韓国の延世大学校(ヨンセ大学。日本では「韓国の慶応」として知られる)の客員教授を務めている。ブリュッセル在住。

 

オペラ「ピグマリオン」の演出を務める岩田達宗が司会役となり、寺神戸と二人で進行を行うのだが、二人とも話すのは本職でないため、聞きたいことと言いたいことがチグハグになって、客席からの笑いを誘っていた。

寺神戸は、「バロック音楽というと、イタリアのヴィヴァルディ、ドイツのバッハ、ヘンデルがイギリスに渡って『メサイア』を書くといったことがよく知られていますが」と他国のバロック音楽を紹介した上で、フランスのバロック音楽の豊穣さを述べていた。

 

リュリは、クラシック音楽好きの間では、「指揮中に怪我をしてそれが元で亡くなってしまった作曲家」として知られている。というよりそれでしか知られていなかったりする。
ジャン=バティスト・リュリは、イタリア出身であり、フランスに帰化して「太陽王」ことルイ14世のお気に入りの作曲家として政治分野でも権勢を振るった人物である。
ルイ14世は、音楽とバレエをことのほか愛した王様であり、自らもバレエを踊ることを好み、王立の舞踏アカデミーも創設している。

今日は二段舞台を使っての上演である。舞台にはリノリウムカーペットが敷き詰められており、ここが舞踏のスペースとなっている。レ・ボレアードは後方の一段高くなった特設ステージ上での演奏となる。

弦楽器はガット弦を用いた古楽使用のものでの演奏であるため、音はかなり小さめとなるが、いずみホールは空間がそれほど大きくないのでこれで十分である。いかにもベルサイユ宮殿での演奏が似合いそうな典雅な楽曲が流れる。

バロック時代のバレエを行うのは松本更紗(まつもと・さらさ)。桐谷美玲の本名である松岡さやさに少し似た名前である。どうでもいいことだけれど。
実は松本は、国立音楽大学とパリ市立高等音楽院でヴィオラ・ダ・ガンバ(チェロの先祖に当たる楽器)を専攻したという演奏畑出身の人であり、演奏家としての活動も行っているようである。元々クラシックバレエを習っており、在仏時代に古典舞踊を学び、2014年にはオペラ「ディドとエネアス」に演奏と踊りの両方で出演。2018年に帰国し、様々な舞踏公演に出演している。
松本がフランスバレエについての解説を行う。バレエには譜面が存在するそうで、小さいがバレエ譜(舞踏譜)を使っての説明も行われた。バレエもベルサイユ宮殿のようにシンメトリーが重要視されたようで、男女が並んだり離れたりしながら、上から見ると一対の動きをしているように進んでいくバレエが理想とされたようである。また、バレエの動きは雅やかだが、それは振りのための振りではなく、日常動作を美しく行うために考えられた振りなのではないかとのことである。

 

コレッリの「ラ・フォリア」。
「ラ・フォリア」というのはイベリア半島由来の音楽であり、ポルトガル起源だそうである。「狂乱する女性」という意味があるそうで、元々は速めの曲調を持つものがラ・フォリアと呼ばれたそうだが、コレッリのものは比較的ゆったりとしている。
この曲は比較的有名な旋律を持っており、誰もがどこかしらで一度は耳にしたことがあるはずである。アントニオ・サリエリがこの曲の主題を用いた「スペインのラ・フォリアによる26の変奏曲」というオーケストラ曲を書いており、今年の夏に延原武春指揮テレマン室内オーケストラの演奏で聴いている。
寺神戸とレ・ボレアードは、高貴にしてメランコリックな曲調を適切に描き出していた。

 

リュリの「町人貴族」より「トルコ人の儀式の音楽」と「イタリアのエール」。「イタリアのエール」は、波多野睦美の歌と松本更紗による仮面舞踏入りである。
「町人貴族」は、モリエールとリュリによるコメディ・オペラ(コメディというと喜劇という訳語になりがちだが、元々は単に「演劇」という意味である)。金持ちになった町人が、貴族になることを願うが「自分には貴族に相応しい教養がない」という自覚があり、様々な道の第一人者に師事していくという、まるですぐそばにあるお城の築城主を主人公にしたようなお話である。この音楽にはトルコ趣味の音楽も登場するが、フランスを訪れたオスマントルコの大使がフランスを下に見るような発言をしてルイ14世を激怒させたという事件があったそうで、仕返しのために書かれた作品でもあるそうだ。「町人貴族」は後にリヒャルト・シュトラウスによってリメイクされているが、大失敗に終わり、現在ではリヒャルト・シュトラウス自身がまとめた組曲のみが知られている。なお、リヒャルト・シュトラウスの「町人貴族」の合間狂言として書かれたのが「ナクソス島のアリアドネ」であり、こちらの方はオペラとして大ヒットしている。
「イタリアのエール」は、イタリア語の歌詞による歌唱。歌詞はその後上演されたラモーの「ピグマリオン」の冒頭によく似ている。
松本の仮面舞踏は即興で行われるそうで、寺神戸によるとリハーサルでも毎回振りが違ったそうである。

リュリの「アルミード」より第2幕第2場の音楽とパサカーユ。パサカーユはパッサカリアのことである。リュリのパッサカリアは大人気だったそうで、聴衆もパッサカリアが出てくるのを今か今かと待ちわびていたらしい。
バロック音楽は音が意外な進行を見せることがあり、リュリの音楽もまたそうである。古典派以降の音楽は、音の進行パターンがある程度決めっているため、上手く嵌まっていく安定感があるのだが、バロック音楽はそれとは少し違う。「バロックと現代音楽は相性が良い」と言われることがあるが、いわゆるクラシック音楽の王道とは違ったスタイルであるという共通点がある。
この曲では、松本が客席通路を通ってステージに上がり、ダンスを行った。

 

ラモーのオペラ「ピグマリオン」。バロック時代のフランス人作曲家としては最も有名なジャン=フィリップ・ラモー。彼の架空の甥を主人公とした『ラモーの甥』という小説があったりする。ラモーが本格的なオペラを書き始めたのは50歳を超えてからだそうだが、最初の音楽悲劇である「イポリートとアリシ」がセンセーショナルな成功を収め、その後、ラモーは30年に渡ってオペラを書き続け、フランスバロックオペラの黄金期を牽引することになる。
ラモーは遅咲きの作曲家であり、フランス中部のディジョンに生まれ、40歳までは故郷や地方のオルガニストとして活動していた。その後、音楽理論書を発刊して成功を収め、パリに出て音楽理論家やクラヴサンの演奏家としての活動を開始。裕福な徴税請負人ラ・ププリニエール家の楽長となって本格的に作曲家としての活動を開始している。
「ピグマリオン」は、1748年8月27日にパリのパレ・ロワイヤルにあったオペラ劇場、王立音楽アカデミーで初演された作品である。大ヒット作となり、革命前までに200回以上上演されたという記録があるそうだ。
バレエの部分が長いのも特徴であり、言葉ではない表現の重要度も高い。

「変身物語」に由来する話であり、ストーリー自体はたわいないというかとてもシンプルなものである。彫刻家のピグマリオンが自身が制作した人形に恋をして、やがてその人形が意思を持つようになり、ピグマリオンの恋が報われるというそれだけの話である。
愛の神が登場し、愛が賛美されて終わる。
出演は、クレマン・ドビューヴル(ピグマリオン)、波多野睦美(セフィーズ)、鈴木美紀子(愛の神)、佐藤裕希恵(彫像)、松本更紗(バロックダンス)、中川賢(コンテンポラリーダンス)、酒井はな(コンテンポラリーダンス)。振付:小尻健太(こじり・けんた。「じり」は下が「九」ではなく「丸」)。
合唱は、コルス・ピグマリオーネス(臨時編成の合唱団)。

岩田達宗の演出は、いずみホールの空間を目一杯使ったものである。まず女性出演者達がステージ上に現れて戯れ始め、ピグマリオンとその分身のダンサーである中川賢は客席入り口から現れて通路を通って舞台に上がり、女性達と手を繋いだり、手と手で出来た橋の下を潜ったりして踊り始める。
やがて舞台から一人また一人と去って行き、ピグマリオンと一体のダンスを行っていた中川賢も下手バルコニーから降りている布の背後へと去って行く。ピグマリオンと彫像だけが残り、ピグマリオンが彫像に対する報われない恋に落ちてしまったことを嘆いている。この時はピグマリオンは愛の神が放った愛の矢を憎む発言を行っているのだが、人形に命が吹き込まれると一転して愛の神を絶賛し始め、愛の矢をもっと射るよう望み出すため、今の時代の視点からは結構いい加減な奴に見える。

ちなみにピグマリオンにはセフィーズという愛人がいるのだが、ピグマリオンは生身の人間であるセフィーズよりもまだ動く前の彫像を選んでおり、彫像に負けたセフォーズの身になってみればたまったものではないが、彫刻家と彫像ではなく、ラモーのような作曲家と作曲作品に置き換えると、案外まっとうなことに思えてしまう。もし仮に私が作曲家だったとしたら、女よりも自作を選んでしまう可能性は結構高い気がする。

彫像が命を得た後で、愛の神が客席後方(いずみホールの客席は緩やかな傾斜となっており、バルコニー席以外の2階席はないが、1階席の後方には2階通路から入る構造となっている)から分身を伴って現れる。

その後、コルス・ピグマリオーネスのメンバーが現代風の衣装で舞台に現れ、客席通路を通って後方へと進み、ピグマリオンとの掛け合いが行われる。更にそれが終わるとコルス・ピグマリオーネスは2階バルコニー席に現れ、最後は舞台上から再び客席に降りて手拍子を行い、観客にも手拍子を促す。

バルコニーにいた愛の神と分身が階段を降りてパイプオルガン演奏スペースに進み、手に手を取って舞い始める。ダンスと音楽の素敵な結婚。ヴァイオリン奏者たちが立ち上がっての演奏を行い、最後は寺神戸もコンサートマスターの位置を離れて舞台前方へと歩み出る。

衣装や空間の用い方により、時代や境界を超えたありとあらゆる愛が讃えられるかのような祝祭性に満ちあふれたオペラ上演となっていた。

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2019年12月23日 (月)

観劇感想精選(331) shelf第29回公演「AN UND AUS/つく、きえる」

2019年12月15日 東九条のTHEATRE E9 KYOTOにて観劇

午後2時から、東九条にあるTHEATRE E9 KYOTOで、shelfの第29回公演「AN UND AUS/つく、きえる」を観る。ドイツの劇作家であるローラント・シンメルプフェニヒの戯曲の上演。テキスト日本語訳:大塚直、構成・演出・美術:矢野靖人。出演は、川渕優子、三橋麻子、沖渡崇史、横田雄平、江原由桂、大石憲、鈴木正孝、古木杏子。

 

昨夜、たまたま立ち寄った外国人のお客さんが今日の公演を観に来たということで、矢野靖人は、開演前の挨拶を(急遽らしいが)英語でも行い、「英語字幕はございません」という言葉も入れていた。

 

東日本大震災と福島第一原子力発電所での事故を題材にした作品である。具体的な地名として「いわき」という言葉が出てくるため、福島県いわき市をモデルにした場所が舞台であることがわかる。

椅子が7脚、真横に並んでいるだけのシンプルな舞台である。各椅子の前には靴が投げ出された形で置かれている。舞台下手には自転車が置かれている。
ト書きに当たる部分が背後に白い文字で投影される。状況や服装が俳優達に当てはまる場合もあれば一致していないケースもある。

登場人物は、3組の夫婦と、若者と娘である。3組の夫婦であるが、それぞれが別の相手の不倫をしている。しかも不倫場所が3組とも同じホテルである。A(鈴木正孝)はZ夫人(川渕優子)と、A夫人(古木杏子)はY(沖渡崇史)と、Z(横田雄平)はY夫人(江原由桂)と浮気をしている。しかも全員、月曜の夜、同じ時間にである。ホテルには部屋が3つしかないが、AとZ夫人が1号室、YとA夫人が2号室、ZとY夫人が3号室を使っている。ホテルのフロント係をしている若者(大石憲)は、ルームキーを探す時に後ろを振り返るのだが、そこには有名な絵が掛かっている。字幕で「北斎」と投影されるため、「神奈川沖浪裏」であるらしいことがわかる。実際には違うが津波を想起させる絵である。

若者は沿岸警備のために高台に住んでいる娘(三橋麻子)とSMSのやり取りをしている。文章の中で娘は自身をミツバチに、若者をクジラに例えている。

その日、3組のカップルがホテルにいる時にそれは起こる。ライトが「つく、きえる」を繰り返し、壁やベッドが騒ぎ始める。高台からは、街が海と一体になるのが見えた。

3組のカップルにはそれぞれ特徴がある、Aは口のあった部分に何もなくなってしまい、思ったことを言えなくなる。だが口とは異なる場所から自身の意思とは関係のない言葉が発せられるようになっていた。Z夫人は気づくと頭が二つあるようになっている。A夫人は突然、自身が何百歳もの老女となり石に変わってしまった感じ、Yは心臓が燃えるようになり、自身では運動をやめることが出来なくなる。Zは自分のことを死んだ魚だと思い、Y夫人は雨に濡れた蛾であるという自己認識がある。3号室の中で雨が降る。黒い雨だ。Y夫人は雨でびしょ濡れになる。
その後、若者はクジラが横を通るのを見掛け、ホテルにいた他の者達も魚の群れや鮫の姿などを目にする。それぞれの相手によって否定されるが、津波が街に押し寄せたことが暗示されている。

「理解されない」「わかり合えない」ということの変奏曲が展開される、Z夫人は自身の頭が二つになったことを誰にも言えないでいる。そんなことを言っても信じて貰えないし、頭がおかしくなったと思われるだけである。背景に投影されるト書きにも「理解されない」「言うのをためらう」という言葉が出てくる。
ZはY夫人に魚の話をするが、Y夫人の傍白にはっきりと「何を言っているのかわからない」というものがあり、Y夫人が蛾の話をしてもZは理解を示さない。Yの運動の話も、A夫人の老女になった石の話も、「理解されないだろう」ということで話さなかったり途中で話をやめてしまったりする。Yは「老女になった」と告白するA夫人に「君はまだ40にもなっていないし」と言い聞かせる。ネガティブな例え話だと勘違いされたのだ。目の前にいる人に理解されない。やがて人々は部屋から出る仕草をするために椅子の上を歩き始める。停電した暗闇の中、狭い廊下を表した椅子の上でそれぞれがすれ違う。それぞれの体に触れた時や雰囲気で、相手は「この女性、頭が二つある」、「この人は蛾のようだ」と言い当てるため、第三者にはわかることなのだと思われるのだが、一番近くにいる人には何も見えないし伝わらないのだ。
それは現地にいる被災者なのに状況がまるで飲み込めていないという状態に繋がる。ト書きには「自分で何を言っているか理解しているのか怪しい」というものもあるが、自分自身についても理解していないことは多い。そもそも彼らは「自分達がもはや幽霊なのだということを理解していない」ようである。

津波が去った後、街には何も残っていなかった。若者もまた自身が幽霊になったのだということを理解しておらず、娘に会うために小学校へと向かう。しかし若者の腕は透明になり、スマホを持つことも出来なくなっている。娘からの着信にも答えることは叶わない。
若者はクジラが太陽に抱えられて高台へと上る話をする。だが、太陽によって体を焼き尽くされたクジラは墜落する(日本でも有名なイーカロス伝説をひねったものだと思われるが、太陽は原発事故のメルトダウンの喩えでもある)。ミツバチは月に乗っかって、海の底深くへと潜っていく。だがクジラには会えず、海底で月の重さに押しつぶされて息絶える。二人とも会うことすら叶わず、しかもすれ違っている。

Aは、口のあった場所を切り裂くが、そこに口が現れることはなかった。自身の意思に反した言葉が発せられることはなくなったが、学者達や専門家と呼ばれる人の発言が頭の中で鳴り響くようになる。

距離的には最も近くにいるのにわかり合えず、遠く引き離されたかのような相反する状況が示される。直接の被害者であるのに何も教えて貰えず、近いが故に見えず、的確なことは何も語れないという、「岡目八目」のような形。
2011年3月11日の夜、いわき市上空は今まで見たことがないほど星が輝いていた。だがそれは原発事故により、あらゆる電気が絶たれていたからである。星はとても美しかったがそれは怖ろしく悲しいことでもある。美と悲しみという「あるいは」相反することがここにおいて融合する。

バラバラになっていた靴は、娘がきちんと並べてそれぞれの椅子のところに置いていく。それは弔いである。当事者であるが「わからず」、誰とも「わかり合えないこと」が前提だが、それでも「わかり合うため」の。

 

終演後には、ダンサーの山下残をゲストに招いて、矢野靖人とのアフタートークが行われる。山下は内容よりも俳優達の身体性や劇場空間についての話を重点的に行う。私にはない視点であり、面白かった。

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私にそっくり

また私自身が行方不明になってしまったようだ。どこに行ったんだろう? で、今の俺は一体誰なんだ? 見たところ私にそっくりのようだけれども。

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2019年12月22日 (日)

言葉は意識の双子である必要はない

言葉は意識の双子である必要はない。

顔の余り似ていない兄妹のような関係が、最も理想的である様に思う。

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幽霊である私は

幽霊である私は

夜が明ける毎に世界から喪われていった者達の弔いをする

これまで歩いて来た道の虚妄を確認するために

私が実在したなどと誰が言えるだろう

存在は瞳から出ることなく

触れ合えた手が何かを伝えることもなく

バベルの塔への怒りによって隔てられた言葉は

掌に残った水として飲まれるだけ

46億年の歳月を

私は幽霊として過ごし

鏡に写らない青に溶けて

生まれなかった人生の

名残の縁で佇んでいた


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2019年12月20日 (金)

美術回廊(46) ジョーン・ジョナス京都賞受賞記念展覧会「Five Rooms For Kyoto:1972-2019」

2019年12月18日 御池通の京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAにて

御池通にある京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAで、ジョーン・ジョナスの京都賞受賞記念展覧会「Five Rooms For Kyoto:1972-2019」を観る。
1936年生まれのジョーン・ジョナス。今月12日にロームシアター京都サウスホールでパフォーマンス「Reanimatio」が上演され、14日から京都市立芸術大学@KCUAのでの展覧会が行われている。年をまたいで来年の2月2日までの開催である。入場無料。

展覧会のタイトル通り、京都市立芸術大学@KCUAの5つの展示室を使って行われる展覧会。映像作品と美術の展示がある。
最初の部屋は、12日にロームシアター京都サウスホールで行われた「Reanimation」のものである。ジェイソン・モランの音楽も録音で流れてくる。
ジョナスは、歌舞伎や能を観て日本の表現形式に魅せられたそうだが、「Reanimation」では障子をスクリーンとして用いている。氷河の山脈の映像や、ドローイングの風景などが投影されている。
「Reanimation」の上演映像もモニターで流れている。セリフを書いた冊子が手前の椅子の上に置いており、自由に読むことが出来るようになっている。

2階に上がり、3つの部屋で行われる展示を眺める。最初の部屋に映されているのは、「Lines in the Sand」。パリスと結婚したとされるヘレネーの物語を題材としているが、ヘレネーはトロイアではなくエジプトに行ったとするアイスキュロスの戯曲を元にしており、エジプトに取材した作品である。ただ、ジョナスはエジプトには行かず、ピラミッドやスフィンクスの模倣品が街中にあるラスベガスに向かい、ラスベガスのそばの砂漠で砂にドローイングを行ったりしている。二重の意味で「本来ではない場所」での創造が行われるのである。
モニターには「ピロートーク」という題の、男女による語りの作品が映されていた。こちらは演劇性が高いものである。

2階の2つ目の部屋は、最も演劇性の高い実験映像である。「Organic Honey」と題された映像群で、最初期の作品である「Oranic Honey's Visual Telepathy」を始めとする6つの映像がスクリーンやモニターに流れている。何が映っているのかよくわからないものもある。

2階の3つ目の部屋は、ジョナスが取り組んでいる環境問題に題材を取った映像2つ(「Moving off the Land Ⅱ」と「Whale Video」)が流れている。人類と魚類の共通点が少年や少女によって語られ、「Reanimation」のラストに登場した魚は、やはり生物の原点という意味で扱われていたことがわかる。
ジョナスがスクリーンに映る海の生き物たちと一体になろうとしたり、自分の体に紙を押し当てて体型をなぞったものに吸盤を加えてタコと一体化したりと、生物の歴史を超えた融合を試みる場面が見られる。この作品でもジョナスがハンドベルを鳴らず場面があるが、自然破壊への「警鐘」そのものとして用いているようである。

階段を降りて、1階にある最後の展示室へ。この部屋ではジョナスの教育活動が紹介されている。4つのモニターが互いに背を向ける形で四方に並べられており、大学や美術アカデミーで行われたインプロビゼーション(即興)でのパフォーマンスが映し出されている。
ガラスケースの中には、ジョナスが授業の際に使用した指示書が展示されている。これも日本語訳テキストが壁に2冊ずつ下がっていて、手に取って読むことが出来る。詩や映像作品の組み立てを分析してパフォーマンスに生かすこともやっているようだが、日記を書いて、実際にあったことを表現するよう指示が出されたものもあった。

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観劇感想精選(330) ジョーン・ジョナス 京都賞受賞記念パフォーマンス「Reanimation」

2019年12月12日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて

午後7時から、ロームシアター京都サウスホールで、ジョーン・ジョナスの京都賞受賞記念パフォーマンス「Reanimation」を観る。

ジョーン・ジョナスは、1936年、ニューヨーク生まれ。現在も同市在住である。1960年代にパフォーマンスとビデオを融合させた新たな表現形式を創始し、現在もデジタルメディアとパフォーマンスとの関係を探求し続けている。

 

舞台中央に障子で出来たスクリーンが降りており、そこに映像が投影される。まず映されるのは寒冷地の街の映像であり、その後、アイスランドを描いた地図が映り(左下に首都のレイキャビクがある)、先程の映像がアイスランドのものであるらしいことがわかる。

舞台左手にグランドピアノがあり、その上にキーボードが乗せられている。演奏を行うのは、1975年、テキサス州生まれのピアニストで作曲家であるジェイソン・モラン。グランドピアノには坂本龍一のコンサートでよく見られるような自動演奏機能が付いており、モランはグランドピアノを自動演奏モードにしてキーボードを弾いたり、片手でキーボード、もう片方の手でピアノの演奏を行ったりする。ミニマルミュージックに始まり、即興演奏風になり、再びミニマルミュージックに戻ってくる。北欧の先住民であるサーミ人の伝統歌謡「ヨイク」も効果的に用いられている。

舞台上手にはテーブルが置かれ、助手が映像を映し出したり、ドローイングが行われたりする。

 

アイスランドの作家、ハルドル・ラクスネスの著作、特に『極北の秘教』に影響を受けたパフォーマンスである。近年、世界的な問題となっている氷河の融解を題材としているが、実はラクスネスは氷河がまだ溶け出していない1960年代に氷河の問題を取り上げているそうである。
ラクスネスの著作を題材にしたパフォーマンスは、まず2010年にジョナスが教鞭を執るマサチューセッツ工科大学(MIT)で制作され、講義形式の作品であったようだが、その後、ジェイソン・モランとのコラボレーションを行うようになり、完成形へと徐々に近づいていったようである。

ハルドル・ラクスネスは、1955年にノーベル文学賞を受賞しているが、彼が書いた戯曲のような小説『Under the Glacier(氷河の下で。邦題:極北の秘教)』が今回の公演の軸となっている。『極北の秘教』からのテキストをジョナスが朗読することで進んでいく。上演時間は約1時間。

ジョナスが、舞台中央やや下手寄りに立てられた板に掛かる黒板風のものにチョークで六角形の図形を並べた花のような絵を描き込んでいく。
「完全な死体となった全裸の女が目覚め、棺から出てアイルランド風のパンを焼き(どんなパンなのかはわからないが)、棺担ぎの男達に振る舞った」という民話風のミステリアスな蘇生(Reanimation)の話が冒頭で語られる。その後、北欧(アイスランドではなくノルウェーらしい)の光景である山々や動物達がスクリーンに映し出される。ジョナスは舞台上手のドローイングスペースに行って、映像の輪郭をなぞるような書き込みを行うが、完成する前に映像は先に進んでしまい、ジョナスが描き込んだ絵は残像のように残されることになる。「喪失」が強く印象づけられる。

ラクスネスによると氷河は世界の中心であり、昔、錬金術師に導かれて3人の男が氷河に覆われた火山の噴火口に降り、そこで世界の中心を見つけたという。

ノルウェーの氷に閉ざされた山の麓を走る列車から取られたと思われる映像が続き、ジョナスは草笛のようなものや、角笛のようなものを鳴らす。また紙をくしゃくしゃに丸める音を出す。それは氷河の溶解の音のようでもある。

「歴史は寓話、それも粗末な。それに絶えられず私は神学を学ぶことにした」だが、その神学もやがては信じられなくなるようである。新たな寓話が求められる。

嵐に耐えるユキホオジロの話も語られる。「完璧」の喩えとしてだ。人間がユキホオジロのように鳴き声を交わす生き物でないことを残念に思い、ならば沈黙を求めようとする。氷河は沈黙している。野の百合もまた。

やがて話は冒頭の全裸の女の死体の話に戻る。それは今や完全な死体である。幽霊の話も語られるが、幽霊は常に不完全な存在であり、「世界の流産」と形容される。これは氷河の融解に繋がるメタファーだと思われる。氷河の融解は進んでおり、時間を巻き戻すことは出来ない。それを食い止める夢を描いたとしても、それはかつての氷河の姿に由来する幽霊に過ぎないのではないか。

ただ、時間は解決のための有効な手段として今も考えられており、最後の結論として再度登場する。

「蘇生」を題材にした映像。池の中に白い影が映り込んでいる。やがてその白い影は白い服を着た女性だということがわかり、飛び込み台の上にいる女性はやがて池に飛び込み、泳ぎ出す。その後、映像はアザラシなど、氷河の海で暮らす生物達の映像に突然切り替わる。

タンポポとミツバチの話、ミツバチがタンポポの蜜を吸い、ミツバチがタンポポの花粉を体につけて他のタンポポに移り、受粉が行われることを「超交信」と呼ぶ。これが新たな宇宙的発展の希望と考えられているようである。

世界は悪魔が支配しているという話。ものが燃やされている映像。あるいは焚書を表しているのかも知れない。悪魔はいつまで経っても悪魔であり続けると考えたとしても、神を冒涜したことにはならないだろうという内容が読み上げられる。

山羊などアイスランドの家畜達が映った映像が流れた後で、ジョナスはカウベルなどを鳴らす。スクリーンにはすでに家畜はおらず、雪の畑を延々と歩き出す人の影が映し出されている。やがて右の方に北極海が見え、影は砂浜にたどり着く。

ジョナスは、最初は黒板のようなものが掛けられていた板に半紙を垂らし、墨で魚の絵を描く。

『極北の秘教』からの最後の引用が語られる。「時について」だ。「時の超越性は誰も知ることである。時はエネルギーでも物質でもないが、始まりと終わりを担っている。世界の創成のだ」
スクリーンには魚達の姿が映されている。あるいは他に意味があるのかも知れないが、「始まり」と「魚」は相性が良い。生物の始まりは魚だからである。
ジョーン・ジョナスは、教訓的な表現は行わない人だそうで、あるいは細分化して「意味」として受け取るのは間違っているのかも知れないが、「根源に戻ること」は何事においても重要なのかも知れない。我々はそもそも何を求めてどこからやって来たのかということだ。
キリスト教では、魚は特別な存在であり、題材からいってそちらの可能性もあるのだが、キリスト教徒の少ない日本においてはそうした解釈は真偽に限らず有効性を持たない。先の解釈の方が良いだろう。

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2019年12月18日 (水)

美術回廊(45) 京都国立近代美術館 「円山応挙から近代京都画壇へ」

2019年12月12日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

京都国立近代美術館で、「円山応挙から近代京都画壇へ」という展覧会を観る。
円山派の祖としてその名を残す円山応挙(1733-1795)。京都の四条通に面した家に住んでおり、弟子の多くも四条通沿いに居を構え、弟子の呉春は応挙の写実性と与謝蕪村の瀟洒さを兼ね備えた四条派を起こしている。

この展覧会ではまず応挙が最晩年に手掛けた大乗寺の障壁画が並んでいる。兵庫県の日本海側、美方郡香美(かみ)町にある大乗寺。円山応挙の名は全国に鳴り響いており、大乗寺もその名声を耳にして応挙とその弟子達に障壁画を依頼している。現在では大乗寺は「応挙寺」の別名でも知られているという。

円山応挙が描いた大乗寺の障壁画。まずは、「松に孔雀図」である。円山応挙は四条河原の見世物小屋で孔雀を見て惚れ込み、孔雀の絵を何枚も描いているが、これがおそらく応挙最後の孔雀絵である。細部まで極めて丁寧に描き込まれており、写実を得意とした応挙の真骨頂が発揮されてる。角になる部分に松を配して、松ヶ枝が降りかかってくるよう錯覚させる工夫がなされていることも、江戸時代の芸術らしい計算が感じられる。

孔雀は阿弥陀如来の乗り物であり、孔雀が描かれた襖を開けると、奥に大乗寺の阿弥陀如来像が現れる仕掛けとなっている。

呉春が描いた「巖上孔雀図」も展示されているが、肩の部分の盛り上がりなど、応挙に比べると立体感を重視しているように見受けられる。

相国寺が所蔵する円山応挙の「牡丹孔雀図」は可憐であり、極楽浄土の縮景として孔雀が描かれているかのようである。隣には岸駒(がんく)の「孔雀図」も展示されており、岸駒の孔雀も緻密な描写であるが、目の部分などはグロテスクさを隠さないほど写実的であり、特に極楽的なものを盛り込む意思が岸駒にはなかったと思われる。

円山応挙はありとあらゆるものを描いており、その点においては東の葛飾北斎と並ぶ西の雄であったと思われるのだが、躍動感や構図を重視する北斎に比べ、応挙は細部に至るまでの徹底した観察と描写を重視しており、同じものを様々な構図から描いているが、基本的には静物画指向である。その点において、応挙の方が北斎よりも西洋絵画に近いといえる。
「応挙漫画」ともいえる「写生図鑑」は、「それそのもの」を描くことのお手本である。

円山派・四条派の写実の力はとにかく傑出したものがあり、「どうやったらここまでリアルに描くことが出来るのか」と呆れてしまうほどである。この点においては現代の画家の筆致が稚拙に思われるほどであるが、映像が溢れている時代に往時のような描写力で勝負しようと思っても余り意味がない。ある意味、円山応挙とその弟子達が追い求めた絵画の世界は理想郷ではあったが、今となっては遠い場所となっている。上村松園は、応挙の世界を「理想的」と讃えていたが、その世界を再現する意志はなかったと思われる。

忠臣蔵の季節ということもあって、円山応挙による「大石良雄図」も展示されている。「おおいしよしお」と読むようである。「お軽と勘平」のお軽とのやり取りの場面である。この図を源琦が模写したものが並んでいる。着物が透けているというリアルな描写を応挙は行っているのだが、源琦はそれを更によくわかるよう再現している。

写実的な静物画を描いていた円山応挙であるが、「保津川図」では、水の流れが見えるような動的な描写を行っている。寛政7年(1795)応挙最後の年の作品である。動的な描写を旨とした江戸の絵画に影響を受けたのかどうかはわからないが、応挙もまた最後はダイナミズムと躍動感に溢れる絵画へと行き着いたということだろうか。動くはずのない絵の中に、あたかも動画と錯覚させるような流れを盛り込む技法。西洋絵画の影響を受けた応挙が、その西洋画壇を驚嘆させることになる日本画の系譜の中に、しっかりと入っていることが感じられる作品である。

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2019年12月17日 (火)

小沢健二 「ラブリー」

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2019年12月16日 (月)

これまでに観た映画より(148) 「完璧な他人」

2019年12月11日 京都シネマにて

京都シネマで、韓国映画「完璧な他人」を観る。イタリア映画「おとなの事情」のリメイク。監督:イ・ジェギュ、出演:ユ・ヘジン、ヨム・ジョンア、チョ・ジヌン、キム・ジス、イ・ソジン、ソン・ハユン、ユン・ギョンホ。

幼馴染み4人とその妻が、新居完成祝いに集まり、自分達の間に秘密はないとして、互いのスマホに掛かってくる電話やメールを公開する(電話はスピーカーモード使用、メールは読み上げソフトを使う)という、誰がどう考えてもやらない方がいい「ゲーム」を始めてしまったがために起こるシチュエーションコメディ。喜劇ではあるが「俯瞰で見ると」という喜劇で、かなりビターな味わいのある大人のための作品である。

登場する男性達は全員同級生の45歳という設定であり、今の私と丁度同い年だ(韓国は数え年なので厳密に言うと少し違う)。全員がミッドライフクライシスを抱えており、家庭、男女間、仕事などでそれぞれが問題に直面している。

ソクホ(チョ・ジヌン)とイェジン(キム・ジス)は医師同士の夫婦である。ソクホは「韓国の東大」として日本でも知られるソウル国立大学校医科大学出身の美容外科医、イェジンは精神科医である。二人には二十歳になる娘がいるが、イェジンは二十歳はまだ子どもだとして娘が男性と付き合うことに猛反対している。ちなみにソクホもイェジンとの結婚をイェジンの父親に猛反対されたらしく、職場に乗り込んでの嫌がらせをされたりもした過去があったようだ。
テス(ユ・ヘジン)もソウル国立大学校のおそらく法科大学出身で弁護士。亭主関白である。二人の高校時代の恩師からの電話も入るのだが、「ソウル国立大学校に入るという快挙」というセリフがあるため、二人の出身大学がわかる。テスの妻・スヒョン(ヨム・ジョンア)は専業主婦だが、文学講座に通っており、韓国の有名詩人の詩をそらんじている。
ジュンモ(イ・ソジン)はレストラン経営者だが、これまで様々な事業で失敗を重ねており、学歴面で皆に及ばないことでコンプレックスを抱いていることを告白するセリフがある。また、カンボジアでタピオカのビジネスを始める計画を語って、皆から一笑に付される場面もある。かなりのプレイボーイで女性に不自由したことはない。妻のセギョン(ソン・ハユン)は獣医だが、これまたいかにも男にもてそうなタイプであり、さりげない嫌みで場の空気を掻き乱すのを得意としている。
校長の息子で、教員を辞めたばかりのヨンベ(ユン・ギョンホ)は、バツイチであり、新しい恋人を連れてくると言ったが、風邪で寝ているということで一人で来る。いかにもわけありそうで、実際のところ多くの人が予想するであろう通りの結果なのだが、とある事情でテスとスマホを交換することになり、そのことがあらぬ疑いを招く結果となってしまう。
なお、ヨンベが新居完成祝いとして大量のトイレットパーパーを持ってくるシーンがあるが、韓国ではトイレットパーパーを送ることは「末永く幸せが続くことを祈る」という意味があるそうで、新居完成や引っ越し祝いの定番だそうである。日本人が見ると奇異に感じるが、ヨンベがおかしなことをしているというわけではない。

男性と女性とでは、そもそも脳の仕組みが違うというセリフがあり、それぞれがスマートフォンに例えられるのだが、男性はAndroidで、「安くて効率が良くてアップデートしないと使い物にならない」、女性はiPhoneで、「美しくて機能的だが高くて互換性がなく、生意気」らしい。ちなみスマホの世界シェアトップはサムスンで、当然ながら韓国ではAndroidが主流である。

ということで、ソクホのスマホには娘から「彼氏と一夜を共にしたい」という内容の電話が入り、スヒョンのスマホには文学講座の仲間から電話が入るのだが、影でイェジンに対する悪口雑言を並べていることがバレてしまう。イェジンには実父からの電話があり、イェジンの手術を夫のソクホに任せることはまかり成らんというお達しがある。イェジンの父親が今もソクホのことを馬鹿にしていることもわかる。
セギョンには元彼からの電話がある。ジュンモは「俺は元カノの電話には出ない」と怒るが、元彼が愛犬の対処法を頼んでいるということで、スピーカーモードでの施術が行われる。だが、下のことであるため、妙な雰囲気が漂ってしまう。

ソクホの投資へ失敗、ジュンモの部下との浮気(更に他の女性とも浮気をしている)、ヨンベが教師を辞めたわけなど、人生の真ん中に差し掛かった男と女の「よくあるが深刻な危機」が描かれており、秘密にして誰にも明かしていない部分ということでよそ目には「完璧な他人」であるが、内情は誰もが経験する可能性のあることであり、特に私は彼らと同世代ということで、「あり得たかも知れない自分」を彼らの中に見出すことになった。そう感じる人は私一人だけではないはずで、彼らは全員「あなたに似た人」でもある。
暴露だけではなく、勘違いが勘違いを生むというシチュエーションコメディの王道を行く展開もあり、「面白ろうてやがて悲しき」悲喜劇となっている。

国家戦略として映画に国を挙げて取り組んでいる韓国。この映画でも思い切ったアングルを用いたり、他のものに託して心理描写を行うなど意欲的な仕上がりとなっている。

 

2005年に自殺してしまった女優、イ・ウンジュの最後の連続ドラマとなった「火の鳥」(2004)で相手役を務めていたイ・ソジン。最初はイ・ソジンじゃ笑っちゃうということだったのかイ・スジン表記だったがまあそれはいい。アメリカで演技を学んだ本格派で(当初は映画監督志望だったが両親に反対されたため、俳優の道に進んでいる)インテリを演じることが多かったのだが、この映画では女の敵ともいうべき遊び人役であり、ものにしている。

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2019年12月15日 (日)

コンサートの記(613) 沼尻竜典指揮 京都市立芸術大学音楽学部・大学院音楽研究科第162回定期演奏会

2019年12月9日 京都コンサートホールにて

午後7時から、京都コンサートホールで京都市立芸術大学音楽学部・大学院音楽研究科第162回定期演奏会を聴く。指揮はびわ湖ホール芸術監督としても有名な沼尻竜典。京都市交響楽団(この度、英語名をバーミンガム市交響楽団に倣ってか、City of Kyoto Symphony Orchestraに変更することになった)への客演も多いが、京都市立芸術大学音楽学部・大学院音楽研究科の定期演奏会へは初登場となる。

曲目は、ベートーヴェンの劇音楽「エグモント」序曲、ブラームスの「運命の歌」、マーラーの交響曲第1番「巨人」。京都市立芸術大学音楽学部・大学院管弦楽団の演奏。「運命の歌」での合唱は京都市立芸術大学音楽学部・大学院合唱団。ソプラノパートには、以前、浄慶寺での「テラの音」コンサートの参加していた女の子がいる。更にヴァイオリンパートとアルトパートの両方に名前が載っている女の子もいるのだが、これは本当に兼ねているのだろうか?

芸術大学の音楽学部や音楽大学は女子の割合が約9割であり、今日の京都市立芸術大学音楽学部・大学院管弦楽団のヴァイオリンパートはなんと男の子は一人だけで、他は全員女の子である。コントラバスやテューバなど、比較的男性の多い楽器(大きいので持ち運ぶのに力がいる)は京芸でも男子の方が多いが、近年女性奏者の進出が著しいホルンはやはり男子は一人だけで他は女子が演奏を行う。京都市交響楽団などはトロンボーンは現在全員男性奏者であるが、京芸は女子の方が多い。
京都市立芸術大学にはハープの専攻はないようで、京都市交響楽団の松村衣里が客演で入る。松村衣里はハープ専攻のある大阪音楽大学で講師をしているようだ。

客席には、下野さんや京響の早坂さんなど、京芸で教える音楽家の姿も見受けられる。

 

ベートーヴェンの劇音楽「エグモント」序曲。弦楽パートの方が優秀である。始めは学生オーケストラにしては渋い音で演奏していたが、クライマックスでは明るめで輝かしい音色に転じ、威力もある。管楽器も技術はあるのだが、各々がそれぞれの音楽を奏でるという領域には達していない。まあ学生だしね。
日本の芸術大学や音楽大学でのHIP教育がどれほど行われているのかはよくわからないが、そうしたものはほとんど意識はしていないようである。「ほとんど」と書いたのは全く意識していないというわけでもないからである。ビブラートも掛けながらの演奏であるが、その後のブラームスやマーラーに比べると明らかに抑え気味ではある。またバロックティンパニこそ使用していなかったが、先端が木製のバチなども使って硬めの音を出させており、無理をしない程度に取り入れようとしていることは感じられる。

 

ブラームスの「運命の歌」。合唱はポディウムに陣取る。
オーケストラが非常に温かい音を出し、合唱も予想以上にレベルが高い。沼尻の過不足のない表現もこの曲に合っているように思われた。
パンフレットに歌詞対訳が載っているとありがたかったのだが、京都市はあんまりお金がないので省いたのかも知れない。無料パンフレットでは音楽学専攻の学生が解説を手掛けており、ドイツ語翻訳も出来る学生はいるはずなので独自のものを出してくれると嬉しい。

 

マーラーの交響曲第1番「巨人」。マーラーはオーケストラに威力がないと話にならないため、実力が試される。実は京都市立芸術大学音楽学部・大学院音楽研究科の定期演奏会では、これまでマーラーが取り上げられることが余りなかったそうなのだが、マーラーがオーケストラレパートリーの王道となった今ではそれはまずいということもあってか、マーラーも得意としている沼尻に振って貰うことにしたのかも知れない。ちなみに沼尻は来年は京都市交響楽団を指揮して「巨人」の演奏を行う予定がある。

各パートとも技術はしっかりしているのだが、最初のうちは上手く噛み合わず、全楽器の合奏時には雑然とした印象も受ける。ただ流石は沼尻で各楽器を上手く捌いて次第に見通しの良い演奏となる。
第2楽章はメリハリも利き、音にも爆発力があってなかなかのマーラーとなる。
先にコントラバスは男子の方が多いと書いたが、第3楽章のコントラバスのソロを取るのは女子である。鄙びた感じを上手く出した優れたソロを奏でていた。中間部の憧れを奏でる部分は、若者ならではの瑞々しさの感じられる演奏となり、ある意味理想的だったと言える。
第4楽章の迫力も優れたものであり、沼尻のオーケストラ捌きの巧みさが光る。フォルムをきっちり固める人なので、余り好きなタイプではないのだが、統率力に関してはやはり日本人指揮者の中でも最上位を争う一人だと思われる。

チケットが安いということもあるが客の入りも良く、若い人を見守る雰囲気も温かで、京都市民であることの幸せが感じられるコンサートであった。

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2019年12月14日 (土)

観劇感想精選(329)ヤスミナ・レザ「正しいオトナたち」&これまでに観た映画より(147)ヤスミナ・レザ+ロマン・ポランスキー「おとなのけんか」

舞台「正しいオトナたち」
2019年12月7日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「正しいオトナたち」を観る。作:ヤスミナ・レザ、テキスト日本語訳:岩切正一郎、演出:上村聡史(かみむら・さとし)。真矢ミキ、岡本健一、中島朋子、近藤芳正による四人芝居である。上演時間約1時間45分、1幕もの場面転換なし、リアルタイムでの展開である。2008年の初演で、2011年にはロマン・ポランスキーの監督で映画化もされている(タイトルは「おとなのけんか」)。

開場から開演まで、ずっとヴィヴァルディの「四季」が流れている。昨年、やはり上村聡史の演出で上演されたヤスミナ・レザの「大人のけんかが終わるまで」でも「四季」が流れていたが、上村の好みなのかレザの指定なのかは不明である。

ヴェロニック(真矢ミキ)とミシェル(近藤芳正)のウリエ家の居間が舞台である。
ヴェロニックとミシェルの11歳の息子であるブリュノが、アラン(岡本健一)とアネット(中島朋子)のレイユ夫妻の息子で同級生のフェルディナンに棒で顔を打たれ、前歯が欠けるという事件が起こる。片方の前歯の神経は抜けてしまい、18歳まではインプラントなどの施術も不可能であるため、当分の間はセラミックを被せた状態でいるしかない。ということでレイユ夫妻がウリエ夫妻に謝罪に来たのだ。だが、アランはヴェロニックが宣誓書で用いた「棒で武装し」という言葉に反対する。武装では計画的に殴りかかったような印象を受けるためだ。流れの中で偶発的かつ突発的にということにしたいようである。
何故、フェルディナンがブリュノを棒で叩いたのかについては、フェルディナンもブリュノも詳しくは言わないため不明である。だが、ブリュノがグループを作っており、フェルディナンが仲間はずれにあったらしいということは噂で聞こえてきたようだ。ブリュノがフェルディナンに「お前チクっただろう」と言ったらしいことはレイユ夫妻も把握している。

最初は冷静を装っていたウリエ夫妻とレイユ夫妻であるが、次第にいがみ合いが始まる。弁護士をしているアランは、薬害事件を起こした製薬会社の弁護に取り組んでおり、四六時中、製薬会社の重役や助手と携帯で通話をしているという状態でせわしなく、ウリエ夫妻は勿論、妻であるアネットも苛立ちを隠せない。そもそもが仕事人間のアランは子どもの喧嘩など訴訟の仕事に比べれば取るに足らないことと考えており、やる気がない。
ヴェロニックはアフリカ史関係の著書がある作家であり、歴史や美術関係の出版社でも働いているのだが、パート勤務だそうである。
ミシェルは金物を中心とした小さな家庭用品販売店を営んでいる。売り上げは余りないようだが、仕事に誇りを持っているようだ。
アネットは、投資関係のコンサルタントを行っているという。

アネットが突如気分を悪くして、嘔吐し、ヴェロニックの大切な美術書を汚してしまうなど、散々な展開。レイユ夫妻がバスルームに行っている間、ヴェロニカは、「あの二人は怖ろしい!」と言い、アランがアネットのことを「トゥトゥ」と呼んでいることをからかったりするのだが、それを戻ってきていたアランに聞かれるなど、更に険悪さが増す(余談だが、「トゥトゥ」というのは、「シェリーに口づけ」の冒頭に由来しているらしい)。

それでもなんとか丸く収まりそうになるのだが、ミシェルが前日ハムスターを路上に置き去りにしたという話を聞いていたアネットが、「ハムスターを殺した」となじったことから事態は更なる悪化を見せ……。

ちょっとした見解の相違から敵と味方が次々入れ替わり、それぞれの個性の強さが溝を生んだり、逆に接近したりと目まぐるしい展開を見せるヤスミナ・レザらしい心理劇である。

子どもの喧嘩が元なのだが、それぞれの親の持つ問題点が浮かび上がる仕掛けである。原因を作った子ども二人が舞台に登場することはなく、ある意味、主役不在で脇役が勝手な展開を見せていると捉えることも出来る。

ハムスターの話は、ラストでも出てくるのだが、劇は近藤芳正演じるミシェルの示唆的なセリフで終わる。男優3人の芝居である「ART」(来年、上演される予定がある)でもそうだったが、ヤスミナ・レザの劇は個性的なセリフで締められることが多い。

原題の「Le Dieu du carnage」は「修羅場、虐殺、殺戮」というような意味だそうだが、今回の邦題が「正しいオトナたち」、日本初演時の邦題が「大人は、かく戦えり」で、いずれも「大人」という言葉が入っている。基本的にヤスミナ・レザの作品は大人向けであり、内容もシリアスで渋めのものが多い。初めて観たヤスミナ・レザの作品は、昔のABCホール(ザ・シンフォニーホールよりも北にあったABCテレビ社屋内にあった。ほたるまちに移転したABCテレビ新社屋内にあるABCホールとは別物である)で観た「偶然の男」である。長塚京三とキムラ緑子の二人芝居であったが、あれはもう一度観てみたい。とても愛らしい大人のための寓話であった。

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映画「おとなのけんか」
2019年12月7日

配信で、映画「おとなのけんか」も観てみる。原題は、「God of Carnage(殺戮の神)」。ロマン・ポランスキー監督作品。原作:ヤスミナ・レザ。脚本:ヤスミナ・レザ&ロマン・ポランスキー。2011年の作品。フランス・ポーランド・ドイツ・スペイン合作。上映時間79分の中編である。出演は、ジョディ・フォスター、ケイト・ウィンスレット、クリストフ・ヴァルツ、ジョン・C・ライリー。ポランスキー監督作品だけにかなり豪華である。ノンクレジットで少年達も登場し、木の棒で顔を殴るシーンも引きで撮られている。

英語圏の俳優を使っているため、舞台はパリからニューヨークのブルックリン地区に置き換えられており、役名もアラン(クリストフ・ヴァルツ)以外はアメリカ人風のものに変わっている。ミシェルは英語発音のマイケル(ジョン・C・ライリー)に変わっただけだが、ヴェロニックがペネロペ(ジョディ・フォスター)、アネットがナンシー(アンの愛称。ケイト・ウィンスレット)になっている。子ども達の名前も、フェルディナンがザカリーに、ブリュノがイーサンに変更になっている。だが、実際の撮影はパリで行われたそうだ(ポランスキー監督のアメリカ入国が困難だったため)。

アパートメントの一室が舞台であるが、映画であるだけに舞台の移動も可能で、一度だけだが全員が玄関を出てエレベーターの前まで出るシーンがある。また、舞台版では描くことの出来なかったトイレ(バスルーム)内でのシーンも撮影されている。

ヤスミナ・レザの作品はセリフの量が多いのだが、実際に狭いアパートメントの居間でこの量のセリフが語られると、情報過多の印象を受ける。少なくとも我々日本人はこれほど膨大な量で会話することは稀なので、空間が言葉で隙もなく埋められていくような窮屈さを覚える。だが、それこそがこの作品の本質であるため、居心地の悪さも含めて把握は出来る。
映画の場合、構造は舞台よりも把握はしやすくなっており、TPOをわきまえずに携帯で電話をしまくるアランがまず今この場所に向き合わないことで全員の気分を波立たせ、「大人として求められること。守らねばならないこと」の防波堤が崩れていく。他の登場人物も一言多いため、その余計な一言が波紋を呼んで、やらずもがなの行動を招いてしまう。「殺戮の神」という言葉は、アランがアフリカの情勢を語るときに登場するのだが、アフリカ史専門の著書のあるペネロペに向かってそうした言葉を用いて教授するような言い方をしたためペネロペの怒りを招くなど(専門家の前でさもわかったようなことを言ってはいけない)事態が悪化していく。

子どもの場合は活動の範囲が狭く、友人達と情報を共有した小さな世界で生きていることが多い。性差も大人ほどには大きく意識されず、世間のことについても詳しいとはいえない状態である。一方、大人の場合は好き好んだ場所に移動が可能で、それぞれ専門と呼べる分野を持っていることが多く、多くの場合矜持を伴っている。個人的な知識や経験も豊富で、それぞれに価値観と哲学がある。男女の指向性の違いも大きい。そのため、溝が出来ると子どもとは比べものにならないほど広く深くなり、収拾が付かなくなってしまう。ミニバベルの塔状態が簡単に生まれてしまうわけだ。

舞台版ではラストに登場するハムスターの話は映画版には登場しない。ネタバレになるのは避けるがケータイが鳴ることで「取り越し苦労が多かった」ことがわかるだけである。
ただエンドクレジットにハムスターが登場し、その後、公園で子ども達が遊ぶ姿が映される。ハムスターは子どもの寓意でもあるので、映像で表現出来るならということで会話は敢えて持ち出さなかったのであろう。

 

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2019年12月12日 (木)

笑いの林(120) よしもと祇園花月 「祇園ネタ」&祇園吉本新喜劇「社長という名のもとに」2019.12.8

2019年12月8日 よしもと祇園花月にて

午後3時30分から、よしもと祇園花月で「祇園ネタ」と祇園吉本新喜劇「社長という名のもとに」を観る。

「祇園ネタ」の出演者は、8.6秒バズーカー、タナからイケダ、モンブラン、スーパーマラドーナ、トミーズ(登場順)。

久しぶりに見る8.6秒バズーカー。赤い服にサングラスという出で立ちは変わっていないため、行方不明者と再会したような気分である。田中シングルは風邪のためか喉をやられていて発声が上手く出来ない。
「テレビで僕らを見たことがあるという方」と田中シングルは客席に聞き、手を挙げた人に「お久しぶりです」「あの頃は忙しかったけど今は忙しくないんで」と言っていた。「最近はテレビには出ないようにしています」とも言っていたが、はまやねんに「嘘はやめろや」と突っ込まれていた。

まずは、「ラッスンゴレライ」をやる。始まりのポーズを取るだけで笑いが起こり、田中シングルは「なんの笑いなんでしょうか?」と言う。田中シングルの喉はやはり不調。終わった後で田中シングルは「もっと声出るかと思ったけど」と言い、はまやねんも「僕ですらなんて言っているか聞き取れなかった」と語った。
元々リズムネタしか出来ないということで「ラッスンゴレライ」を始めた二人なので、その後もリズムネタをやる。「白米、玄米、タイ米。それ俺の」というネタをやった後でホワイトボードに50音が書かれたものを用意し、「あ」から順番にリズムに乗せて田中シングルの一人クエスチョン&アンサーを行っていく。はまやねんは合いの手を入れる。
何よりも大事なものは「あい」、酒を飲み過ぎて戻しそうになり「うえ」、おばあちゃんが好きなもの「おかき」という風に繋げていく。悪くはないかも知れないが、想像が付いてしまうため、余り芸という印象は受けない。ばいきんまんの「はひふへほ」で一気に繋げたり、「はまやらわ」を「はまやねん」に結びつけたりするのは上手いのだが。

 

タナからイケダ。京都府住みます芸人である。田邊猛德が、「まだ漫才だけで食べられてるわけではないんですけど」と言った後で、「結婚してます」「子どもが三人います」と明かし、池田周平に「大丈夫かという目で見られてる」と昔からやっているネタでスタート。子ども三人のうち二人は双子である。池田も最近結婚したのだが、そのことは明かされなかった。

田邊がヤンキーマンガに憧れるというのでタイマン勝負の再現を行うが、池田は敵のはずなのにいつの間にか味方になっていたり、池田が「致命的な状況になっているのがわかっていないようだな」と言って子分が田邊を囲んでいるような雰囲気を匂わすも実際は、田邊が握りこぶし、池田がそれを止めるために手を開いている状況であることを「ジャンケンだと負けている」と言うだけだったりする。

高校時代のキャッチボールの思い出。卒業したらどうするか語りながらキャッチボールを行うのだが、右利きのはずの池田が左手で投げ、しかも返球も左手で受け取る。田邊「お前、グラブしてへんやろ?」
田邊の夢は「京都の大学に行って教師になる」なのだが、池田の夢は「左利きになる」でそのための左投げの訓練だったことがわかる。
田邊が教師になったとしてのモンスターペアレンツ対応のシミュレーションでは、池田が「うちの子が左投げをして肩を痛めた」とクレームを言いに来て、さっきのキャッチボールの続きの話になってしまう。

田邊は浮気を疑われているというので、そのシミュレーションも行う。田邊が「仕事して食事に行ってそのまま帰ってきた」とその日のことを話す。池田は「嘘つかないで!」と言うが、「あなたに仕事が見つかるとは思えない!」、田邊「そこ?!」
その後、池田が田邊の名前を「ケンジ」と間違え、池田の方が浮気をしているという展開になる。田邊が「ケンジを呼ぼう」と提案すると池田は、「その必要はないわ。ベランダの方を見て。雨が降ってきた」
田邊「てっきりケンジがベランダにいるんかと思った!」
池田「違うわよ。ケンジだったらこっちの部屋にいるわよ」
田邊「結局、いるんかい!」

 

モンブラン。元々は漫才コンビだったのだが、今は大道芸を行っている。現在は京都府住みます芸人も務めている。
いけっちが横になり、その上に板を置いてその上にローラー。更にその上に板を置いて木下がその上に乗るといったような芸を見せる。
いけっちが顎の上に棒を置き、その上の台の上に小型のテーブルクロスとグラスを置いてバランスを取り、テーブルクロス引きをやったりもする。
木下が角の付いたヘルメットを被り、両手に棒を持ってローラーの上に乗り、いけっちが皿回しをしてヘルメットの角、両手の棒の先に皿を移すという芸も行う。

 

スーパーマラドーナ。田中が「ベルト二本してます」というネタをやり、武智が「去年のM-1でもやってたもんな。僕はM-1が終わった後に(審査員批判を)やってしまいまして。もう1年になります。早く忘れて欲しいんですが」と語る。
田中が前世の占いが出来ると言って客席の人に名前と誕生日、好きな色を聞いてから「かまきり」などと適当に答えるというネタをまずやる。
田中がヤンキーに憧れるという話をして、武智に「それ高校デビューとかで憧れるやつやんか。お前いくつ?」、田中「42。厄年デビュー。武智さんは今でも現役のヤンキーですから」
ということで田中がヤンキーの歩き方などを武智に教わるのだが、武智が「あおり運転の宮崎容疑者の歩き方。怖いでしょ。僕、宮崎容疑者に顔が似てるって言われるんです。声も似てるって言われるんです。『逃げも隠れもしませんから。喜本さん! 喜本さん! 手繋ぎましょ』」と真似を始めてしまう。田中はガラケー女として有名になった喜本容疑者のようにガラケーで撮影をする真似をして武智に頭をはたかれる。
武智は更にヤンキーの脅し文句として、「ケツの穴から手突っ込んで歯ガタガタいわしたろか!」と伝えるが、田中は「ケツの穴に手突っ込んだろか」で止めてしまい、武智に、「それはただの痴漢や!」と駄目出しされた。

 

トミーズ。雅が「私がトミーズのイ・ビョンホンです」と嘘の自己紹介をして健に「何言うてんねん! 文庫本みたいな顔して」と突っ込まれ、健は「キンコンカンコン。健です」と自己紹介して滑ったことを雅に突っ込まれる。
この頃、災害が多いという話をする。去年は超大型の台風が大阪を直撃し、大阪のほぼ全ての施設が運休したのだが、
雅「なんばグランド花月だけは開いてる。何考えてんねん吉本?」

トミーズ雅の娘が結婚したという話をする。アメリカ人との国際結婚なのだが、雅は「アメリカ人と日本人なので生まれる子どもはフランス人になるんじゃないか」とボケる。
その後、雅が嫌いな歌を紹介するというお馴染みのネタ。森高千里の「私がおばさんになっても」。「秋が終われば冬が来る。知っとるわ! 秋が終わって夏が来たらもう一回半袖出さなあかんやないか!」「私がおばさんになったらあなたはおじさんよ。当たり前じゃ! あなたがおばさんになったら性転換しとるやないか!」。夏川りみの「花」(以前は石嶺聡子の「花」と言っていたのだが変わったようだ)「川は流れてどこどこ行くの。海や! それから「どこどこ」ってなんや? どこは一回」。福山雅治「家族になろうよ」。「100年経っても好きでいてね 死んどるって! お前50やろ。150まで生きるって亀か?!」

今の若い人はパソコンばかりやって家にテレビがないことも珍しくないという話から、自分たちはテレビっ子で刑事ドラマに憧れたということで、刑事のシミュレーションを行う。刑事には「聞き込み、張り込み、踏み込み」の3つの「込み」が必要だと雅が健に教えるのだが、健は、「炊き込み、(銀行の)振り込み、(ラーメン屋の)住み込み」の話を始めてしまうという展開であった。

 

 

祇園吉本新喜劇「社長という名のもとに」。出演は、信濃岳夫(リーダー)、レイチェル、多和田上人、松浦景子、岡田直子、桜井雅斗、大黒ケイイチ、帯谷孝史、筒井亜由貴、伊丹佑貴、小林ゆう、チャーリー浜、辻本茂雄。

座長勇退後の辻本茂雄を見るのは初めてである。

restaurantフラワームーンと向かいの学生寮・花月荘が舞台である。花月大学の学生で花月荘に住んでいる信濃岳夫は、貧乏であるためrestaurantフラワームーンでバイトをしている。そんな信濃がrestaurantフラワームーンを訪れた白薔薇女子大学の学生である松浦景子にわかりやすく一目惚れ。同じ花月荘の寮生である吉田(レイチェル)や多和田上人から告白するよう言われる信濃だが、超お嬢様大学である白薔薇女子大学に通う松浦景子が自分のような貧乏学生を好きになってくれるはずがないと自信がなく告白に踏み切れない。
そんな中、若い男が花月荘の前に鞄を捨てていく。男の正体は、吉本エージェントの社長である桜井雅斗。仕事が嫌になり、スーツやネクタイなどが入った鞄を捨てていったのだ。多和田や吉田が桜井が捨てていった鞄を拾う。中からはバーバリーのスーツ(多和田はブルーベリーと読み違える)、シャネルのネクタイ(多和田はやはりチャンネルと読み間違える)、プラダの靴(小沢健二の「痛快ウキウキ通り」を思い出してしまった)などが出てくる。そこで多和田と吉田はこの服を着て金持ちになりすますことを信濃に提案する。ネクタイには「桜井」という名が入っており、これらのものが吉本エージェントの桜井社長のものであることが判明する。信濃の正体は実は吉本エージェントの社長である桜井で、信濃と名を変えてアルバイト体験をしているのだというストーリーがでっち上げられ、フラワームーンのマスターである辻本茂雄もそれを信じ込んで態度を豹変。下へも置かぬ厚遇ぶりである。松浦景子も信濃が桜井だと思い込んで告白を受け入れる。
一方、吉本エージェントに契約を打ち切られたことで瀬戸際に追い詰められた帯谷工業の帯谷孝史が契約破棄の撤回を頼むため、桜井を探している。桜井はテレビにも出る有名人なのだが普段はサングラスをしているため素顔はわからない。そのため帯谷は信濃のことを桜井と思い込んでお願いをするのだが、そんなことを言われても迷惑なので信濃は「自分は桜井ではない」と断言する。だがそこに自分のことを桜井だと信じている松浦が来たため「桜井だ」と前言撤回。松浦がフラワームーンの中に入ると、「桜井じゃない」。また松浦が出てきたため「桜井だ」が繰り返される。

信濃岳夫のリーダー公演であるが、元座長である辻本茂雄の存在感は絶対的。警官役のチャーリー浜がアンチョコを持っているのに読み間違えることを突っ込んだり、帯谷とアドリブ勝負をしたりする。「28年ぶりだな。ずっとやりたかったのにこいつが(不祥事で)何十年とおらんかったから」

ちなみにチャーリー浜は4回も離婚しているそうで、それを聞いた客席の若い女性が「えー!」と悲鳴を上げたりしていた。

祇園吉本新喜劇では、本編終了後に「ずっこけ体験」があるのだが、応募してステージに上がった22歳の男性が「友達と一緒に」来たと言ったところ、辻本が横の席にいるのが女性であるのを見つけ、「彼女だな」と言う。信濃が男性に彼女なのかどうかを聞くと「これから」と言ったため、公開告白が行われることになり、見事女性から「よろしくお願いします」とOKを勝ち取った。

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志村喬 「ゴンドラの唄」(映画「生きる」より)

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2019年12月11日 (水)

観劇感想精選(328) 京都観世会館 第256回市民狂言会

2019年12月6日 左京区岡崎の京都観世会館にて観劇

午後7時から、左京区岡崎の京都観世会館で、第256回市民狂言会を観る。演目は、「宝の槌」(出演:茂山七五三、茂山茂、網谷正美)、「御茶の水」(出演:茂山逸平、茂山あきら、茂山千之丞)、「附子(ぶす)」(出演:丸石やすし、茂山千三郎、松本薫)、「蟹山伏」(出演:茂山忠三郎、山口耕道、鈴木実)

「御茶の水」の住持役は元々は茂山千作が予定されていたが、死去により茂山あきらが代役を務めることになった。


「宝の槌」。太平の世となり、人々は皆、道具自慢にふけるようになる。果報者(金持ちのこと。茂山七五三)も、家の蔵に自慢となるような宝が眠っていないか太郎冠者(茂山茂)に聞くが、太郎冠者は見覚えがないという。そこで果報者は太郎冠者に都に行って宝物を買い求めるよう命じる。
初めての都ということで、ウキウキの太郎冠者であったが、浮き足立っているところをすっぱ(網谷正美)に見抜かれ、ただの太鼓のバチを「鎮西八郎為朝(源為朝)が鬼ヶ島の鬼から奪った打ち出の小槌だ」と売りつけられてしまう。なんでも弓の名手である鎮西八郎為朝が鬼ヶ島に行って、鬼と弓の勝負をして勝ち、隠れ蓑、隠れ傘と共に勝ち取ったのがこの打ち出の小槌なのだという。呪文を唱えると(結構長い)欲しいものが出てくると聞かされた太郎冠者は、すっぱの誘導尋問により腰のもの(太刀)を所望。すっぱが仕込んでおいた太刀が現れたため、すっかり信じ込んでしまう。
さて、実際は太鼓のバチでしかない打ち出の小槌を持ち帰った太郎冠者。主の果報者の前で呪文を唱え、舞を舞い、小槌を振るって馬を出そうとするが何も出ない。太郎冠者は誤魔化すために、口のない馬(エサをやらなくていい)を出そうなどと、現実味のないことを言い始める。
呪文を唱える時の舞は迫力があり、見所の一つとなっている。


「御茶の水」。私の青春の街である東京の御茶ノ水とは関係がない。私の出身地である千葉市にもお茶の水はあるが特に関係はない。
住持(茂山あきら)が、明日茶会を開くことになり、新発意(新米の僧侶のこと。茂山逸平)に、野中の清水からお茶に使うための水を汲んで来て欲しいと頼むのだが、すげなく断られる。そこで、恋仲のいちゃ(茂山千之丞)に水を汲んできてくれるよう頼む。
実は、新発意は、自分が断れば住持はいちゃに水を汲みよう頼むであろうことを読んでおり、清水に一人で来たいちゃに思いを伝えるべく計算していたのだった。
男女の言葉のやり取りは謡として交わされる。伝統芸能の粋である。
二人の男の間で振り回されるいちゃ役が一番重要な役だと思われる。男二人が取っ組み合い(見た目は相撲である)になる場面があるのだが、ここでのいちゃの心の揺れが面白い。


「附子(ぶす)」。数ある狂言の中でも最も有名な演目である。私が小学生の頃の国語の教科書にも載っており、筋書き自体は多くの人の知るところとなっている。元々は中世の説話集である「沙石集」に入っている物語だそうで、一休のとんち話に出てくるよく似た話も「沙石集」に由来しているようだ。
主人(茂山千三郎)が、「山一つあなた」へ行くことになり、太郎冠者(丸石やすし)と次郎冠者(松本薫)に留守を言いつけるのだが、附子(トリカブトのこと)には決して近づかぬよう厳命する。だが実際は附子と言っていたのは砂糖のことであり、留守中に砂糖を盗む食いされぬよう附子だと嘘をついたのである。結局、砂糖は太郎冠者と次郎冠者に全て食べられてしまい、太郎冠者は砂糖を全て食べてしまったことの言い訳を考え出す。普通に考えたらそんな言い訳は通用しないのだが、狂言の中でのことなので「上手い落ち」となっている。実際には誰が損するわけでもないし。


「蟹山伏」。大峯山と葛城山で修行した山伏(茂山忠三郎)が、強力(山口耕道)を従えて、出羽・羽黒山に帰ることにする。山伏はうぬぼれきっており、出羽国に帰れば皆が自分のことを「生き不動」と崇拝するだろうと天狗になっている。
江州(近江国)の蟹が沢にたどり着いたとき、一転にわかにかき曇り、蟹の精(鈴木実)が非常にわかりやすい形で現れる。
山伏は蟹の精を調伏しようとするが全く効かず、という話である。
元々は、甲斐国に伝わる伝承で、謎の雲水が寺の住職に問答を仕掛け、答えられないと殴り殺してしまうという、「オイディプス王」にも描かれたスフィンクス伝説に近いものがあったようだが、「蟹山伏」では山伏は蟹の謎かけにすぐに答えており、問答が解けぬ話ではなくなっている。
蟹は民俗学的にはその姿から千手観音の化身とされる場合があるそうで、修験道と仏法の対比が発展した可能性も考えられる。

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2019年12月10日 (火)

観劇感想精選(327) 南座新開場一周年記念「當る子歳 吉例顔見世興行 東西合同大歌舞伎」夜の部

2019年12月5日 京都四條南座にて観劇

午後4時45分から、京都四條南座で、南座新開場一周年記念「當る子歳 吉例顔見世興行 東西合同大歌舞伎」夜の部を観る。演目は、近松門左衛門作「堀川波の鼓」、河竹黙阿弥作「釣女」、河竹黙阿弥作「魚屋宗五郎」(「新皿屋敷月雨暈」より)、「越後獅子」

「堀川波の鼓」と「魚屋宗五郎」は共に「酒乱」が鍵となっている作品であり、それを縦糸としたラインナップなのだと思われる。大人気といえる演目が存在しないため、今日は空席も比較的目に付いた。

 

「堀川波の鼓」。堀川というのは京都の堀川のことであるが、今回の上演は通し狂言ではないので、堀川の場は出てこない。鼓の師匠である宮地源右衛門(中村梅玉)が京都の堀川下立売に住んでいるという設定である。
因幡鳥取藩で実際に会った不義密通事件を題材にした世話物である。
鳥取藩士の小倉彦九郎(片岡仁左衛門)が参勤交代で江戸に出向いている時の話から始まる。彦九郎の妻お種(中村時蔵)は、江戸詰である夫が恋しくてたまらない。彦九郎が江戸詰の時は、お種は実家に帰っているのだが、そこでも妹のお藤(中村壱太郎)に夫に会えない寂しさを語って聞かせている。お種は、実弟の文六(片岡千之助)を連れ養子としているのだが、文六は、京都の鼓師である宮地源右衛門に鼓を習っている。稽古が終わり、お種と宮地は初対面の挨拶をするのだが、酒が入ることになり、お種は酒好きなのでつい盃が進んでしまう。お藤と文六は帰宅し、源右衛門が場を外している時に、お種に懸想している磯辺床右衛門(中村亀鶴)がやって来て関係を迫る。床右衛門は隣から謡の声が聞こえたのに驚いて帰って行くが、源右衛門に話を聞かれたと思ったお種は源右衛門に口外しないよう誓わせようとする。だが酒で酩酊していたお種は、つい源右衛門と道ならぬ関係になってしまう。その後、引き返してきた床右衛門は、お種と源右衛門のそれぞれの袖を引き剥がすことに成功し、これをネタにゆすりを掛けようとする。5月半ばに彦九郎は帰国するが、藩内にお種が不義密通をしたという噂が流れており、お藤は彦九郎とお種を離縁させようとすると計るも失敗し、結局、彦九郎は泣く泣くお種を手に掛けることになる。
酒の勢いでついという話であるが、当時は不義密通は死罪相当であり、酒のせいでは済まされなかったのである。というわけで誰のせいにも何のせいにも出来ないやるせなさが残る。

彦九郎役の仁左衛門(松嶋屋)は、実は登場している時間はそれほど長くないのだが、貫禄と悲しみを併せ持った彦九郎を浮かび上がらせている。お種を演じた時蔵(萬屋)も酒に溺れてしまった不甲斐なさを適切に表現している。お藤を演じた壱太郎(かずたろう。成駒屋)の可憐さも光る。
この演目では音楽が実に効果的である。南座は新しくなって音の通りが良くなっただけに、一層、音楽の良さが引き立つ。

 

「釣女」。狂言の「釣女」を常磐津で演じる。
妻を娶りたいと思っている大名(いわゆる何万石という所領を持っている大名ではなく、地方の有力者程度の意味である。演じるのは中村隼人)が、縁結びの神として知られている西宮戎(西宮神社)に参詣することを思い立ち、太郎冠者(片岡愛之助)と共に出掛ける。西宮の戎は社伝そのままに夷三郎と呼ばれている。狂言では演者が最初から舞台の前の方に立つことはないのだが、大名のような身分の高い人はそれを表すために他の人よりも前寄りに立つ。

参詣した大名は、美しい女性と出会えるよう、夜通しの籠祈願を行うことにするのだが、太郎冠者に寝ずの番をさせて自分はさっさと寝てしまう。あきれた太郎冠者は何度も大名の眠りを妨げようとする。そうするうちに大名が夢を見る。神社の西の門に運命の人が現れるというのである。西の門に駆け付けた大名と太郎冠者であるが、そこに釣り竿が落ちているのを見掛ける。「女を釣り上げろ」ということかと合点した大名が釣り糸を垂れ、何度か引いている内に、見目麗しい上臈(中村莟玉)が釣り上がる。早速に三三九度を取り交わし、太郎冠者が「高砂」を真似た祝いの舞を演じると、大名と上臈も喜びの舞を始める。

今度は、太郎冠者が釣り針を垂れる。やはり女(中村鴈治郎)が釣り上がるのだが、これがとんでもない醜女であり、太郎冠者は嫌がる。だが、女は太郎冠者にぞっこんで、大名も神が決めた相手なので拒むことは出来ないと言い……。

愛之助(松嶋屋)の軽やかな舞が一番の見所である。隼人(萬屋)は、台詞回しが板に付いていなかったが、若いということだろう。
中村莟玉(かんぎょく。梅丸改。高砂屋)は、襲名披露ということで「おめでとうございます」と言われるシーンがあった。素顔が男前ということで、女形としてもやはり美しく華やかである。

 

「魚屋宗五郎」。私が初めて歌舞伎というものを観たのは、1996年の12月、東京の歌舞伎座に於いてであるが、3つあった演目のうちの最後が「魚屋宗五郎」であり、十二代目市川團十郎が宗五郎を演じていた。「魚屋宗五郎」を観るのは、それ以来、23年ぶりである。ちなみに「堀川波の鼓」で小倉彦九郎を演じた片岡仁左衛門も、1996年以来、23年ぶりの彦九郎役だそうで、偶然ではあるが繋がっている。

「新皿屋敷月雨暈(しんさらやしきつきのあまがさ)」の第2幕と第3幕を上演するもので、この二幕だけを演じる場合は、「魚屋宗五郎」という題になる。
妹のお蔦を手討ちにされた魚屋の宗五郎(中村芝翫)が、金比羅様に誓って絶っていた酒を飲んでしまったことから巻き起こる大騒動である。
実はお蔦は無実で、横恋慕していた岩上典蔵(中村橋吾)の策謀によって不義密通を仕立て上げられたのであった。

宗五郎が酒をがぶ飲みする場面では、三味線がコミカルな感じを上手く出している。

中村芝翫(成駒屋)の演技は、名人芸の域に達しつつある。歌舞伎界のトップに君臨するようなタイプの人ではないが、演技力に関しては言うことなしである。
一方、名前を継いだ長男の橋之助(四代目)は、狂言回しの役割も担う三吉という重要な役で出ていたが、明らかに「浮いている」と思うほどに下手である。同年代の隼人も上手くはないし、まだ若いということなのだろう。十代目松本幸四郎(七代目市川染五郎)などは、若い時から演技の質は高かったが、昨年の11月の顔見世などを見ると伸び悩みが感じられ、早くから完成されているが伸びないタイプと、最初は拙いがどんどん成長するタイプの二つが存在する――というよりどちらかでないと俳優としては致命的である――と思われる。五十代六十代という歌舞伎役者として大成する時期にどちらが上に来るのか見守ることも面白いように思う。

 

中村隼人、中村橋之助、片岡千之助、中村莟玉という若手歌舞伎俳優4人による舞踊「越後獅子」。江戸・日本橋駿河町(現在の東京都中央区日本橋室町)の三井越後屋前が舞台である。背景には堀と蔵屋敷が並び、正面遠方奥に掛かるのが日本橋ということになるのだと思われる(地理的には異なるはずだが芝居の嘘である)。
一つ歯の高下駄で舞うなど、「俺だったら一発で捻挫する自信がある」と思える高度な舞を全員が器用にこなす。流石は歌舞伎俳優である。
4人の中では、莟玉が小柄だが動きに一番キレがある。元々日本舞踊の世界から梨園に入ったということも大きいのであろう。

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2019年12月 9日 (月)

コンサートの記(612) Marihiko Hara 《FOR A SILENT SPACE 2019 KYOTO》

2019年12月2日 左京区岡崎のロームシアター京都ノースホール

午後7時から、左京区岡崎のロームシアター京都ノースホールで、Marihiko Hara 《FOR A SILENT SPACE 2019 KYOTO》を聴く。
野田秀樹の「贋作 桜の森の満開の下」の音楽を手掛け、「『Q』 A Night At The Kabuki」ではサウンドデザインを手掛けた原摩利彦。1983年生まれ、京都大学教育学部卒業、同大学大学院教育研究科修士課程中退で、京都を本拠地としている作曲家である。現在は京都のパフォーマンス・アート・グループであるダムタイプにも参加している。ベートーヴェンと坂本龍一に影響を受け、坂本龍一とは後に共演も果たしている。
私は音楽家ではないが、好きな音楽は一致しているようである。

《FOR A SILENT SPACE》は、原摩利彦の室内楽コンサートのシリーズで、劇場での公演は初となる。原も「室内楽と言いながら基本一人なんですが」と語っていた通り、ピアノの他はコンピューターを使って流れる音楽で構成されており、演奏者は原一人である。今後は演奏家を増やしていく計画もあるそうである。

曲目は、「Habit」「Nuage」「Vibe」「山村余情」「Grazia」「Entree」「Carina」「Circle of Life」「Fontana」「Midi」「Memoire」「Inscape」「Nocturne」、映画「駅までの道をおしえて」より「Main Theme」、NODA・MAP舞台「贋作 桜の森の満開の下」より「Waltz」と「Princess Yonaga」、「Confession」「Passion」「Via Muzio Clementi」

演奏時間約1時間20分、ノンストップでのライブである。

コンピューターを使って出すアンビエント系の音楽は、坂本龍一よりも細野晴臣に近い印象を受けるが、ピアノで弾かれる曲はどれもどこか懐かしく、坂本龍一や坂本龍一が影響を受けた音楽家(ブライアン・イーノなど)の姿が仄見えたりする。基本的は鋭さの余りない美しい音楽である。

「贋作 桜の森の満開の下」は、残念ながら観ることが出来なかったのだが(新歌舞伎座での公演は抽選に漏れた)、「Waltz」も「Princss Yonaga(夜長姫)」も野田秀樹の世界観に合いそうな音楽である。実は「贋作 桜の森の満開の下」はテレビ放送されたものを録画はしているのだが、まだ観ていなかったりする。早く観よう。

ラストに弾かれた「Via Muzio Clementi」は、ローマのクレメンティ通り沿いにピアノの弾けるアパートを借りて、一夏掛けて作曲したそうである。それを友人に話したところ、「え? お前、ずっとローマにいて1曲しか書かなかったん?」と言われたそうで、原本人は「1曲書き上げたぞ!」という達成感で得意になっていたのだが、そう言われて、「え? 足りなかったん?」と肩透かしをくらったようになったそうだ。その友人というのが作曲やなんらかの創作をするのか否かで内容が変わってきそうな話であるが。

今の天候が雨上がりということで、アンコールとして「After Rain」という曲が演奏される。三拍子のウキウキした感じの曲であった。

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2019年12月 8日 (日)

これまでに観た映画より(146) 「ボヘミアン・ラプソディ」

録画してまだ観ていなかった映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観る。イギリス=アメリカ合作作品。クイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーの伝記映画である。監督:ブライアン・シンガー&デクスター・フレッチャー。出演:ラミ・マレック、ルーシー・ボイントン、グウィリム・リー、ベン・ハーディ、ジョゼフ・マゼロ、エイダン・ギレン、トム・ホランダー、アレン・リーチ、マイク・マイヤーズほか。

1970年のロンドン。ペルシャ系でゾロアスター教を信仰する移民の家に生まれたファルーク・バルサラ(ラミ・マレック)は、ヒースロー空港で「パキ野郎(パキスタン野郎)!」と差別を受けながら働いている。仕事の合間にも作詞を行い、作曲をするなど音楽への情熱に燃えていたファルークは、ボーカルに去られた学生バンド・スマイルに参加し、やがて彼らはクイーンとして世界的な人気バンドとなっていく。ファルーク・バルサラは、芸名ではなく本名をフレディ・マーキュリーに変更した。ライブ会場で出会ったショップの店員、メアリー(ルーシー・ボイントン)と恋に落ち、やがて結婚に至るなど、公私ともに順調かと思えたフレディだが、出自の問題やバイセクシャルに目覚めたことなどが影響してメアリーとの仲は次第に疎遠になっていく。CBSからのソロデビューの話を断り続けていたフレディだが、遂にはソロデビューを受け入れることになり、家族と呼んでいたクイーンのメンバーとも仲違いすることになる。クイーンの他のメンバーは有名大学卒のインテリで、本当の家族を作り、子どもを産んで育てることを当然のように行えるが不器用なフレディはそうではない。彼の第一の家族はクイーンのメンバー達だったがそれも失うのだ。

フレディと仕事仲間にして、同性愛の関係でもあったポールは、北アイルランドのベルファスト出身のカトリックで同性愛者と、自らがイギリスから阻害された存在であることを語る場面があるが、フレディもまたペルシャからインドを経てイギリスに渡った移民の子供であり、タンザニアの生まれで、ゾロアスター教徒の子であるが、教義に背いて男も愛するという阻害された存在である。ボヘミアン=ジプシーは、まさに彼のことであり、「ボヘミアン・ラプソディ」は彼自身のことを歌ったプライベートソングである。間違いなくロックではあるが、同時に阻害された者の孤独なアリアであり、バルサラからマーキュリーへの痛みを伴った転身と再生、怖れと希望を歌い上げるソウルナンバーである。
「ボヘミアン・ラプソディ」は、6分という長さと難解さ故、EMIのプロデューサーからも理解されず、シングルカット当初は音楽評論家達から酷評されるが、音楽史上初ともいわれるプロモーションビデオが大衆に受け入れられ(多重録音を用いて製作された「ボヘミアン・ラプソディ」は全曲を通してはライブで歌うことの出来ない曲であり、そのためプロモーションビデオが作成されて公開されたのだが、これが予想以上の人気を呼ぶ)大ヒット。2002年にはギネス・ワールド・レコーズ社によるアンケートで、全英ポップミュージック史上ナンバーワンソングに選ばれることになる。

成功したアーティストになったフレディだが、合同記者会見を行っても記者達は音楽のことではなく自らのプライバシーに切り込もうとばかりする。成功者ではあっても理解された存在ではなかったのだ。

父親から言われ続けた「良き思い、良き言葉、良き行い」から背いたと見做され、両性愛者であったことと奔放な私生活が原因でメアリーに去られ、子供も残せない。そしてルーズな行動が目立ち始めたことに端を発するクイーンのメンバーとのすれ違い。
最後は、この3組の家族の和解と音楽を通しての世界の融合が行われる。全てが結びつけられるのだ。

音楽の力を見せつけられるかのようなラストシーンは、実に爽快である。

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2019年12月 7日 (土)

イン・メモリアム マリス・ヤンソンス ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団 「悲しきワルツ」

先月、フェニーチェ堺で行われたパーヴォ・ヤルヴィ指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の来日演奏会のアンコール曲としてこの曲を聴いているのですが、それから一月も経たないうちに、こんな形で耳にするとは思ってもいませんでした。

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2019年12月 6日 (金)

2346月日(19) 「カルチャートーク Creator@Kamogawa」 第1部「場所の記憶」&第2部「ラ・長い息」 2019.11.30

2019年11月30日 荒神橋のゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川にて

ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川で午後3時から「カルチャートーク Creator@Kamogawa」を聴くことする。
始まる前にゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川内にあるカフェ・ミュラーで食事。本格的な食事は2種類だけで、鳥料理のものを選ぶ。

 

ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川での「カルチャートーク Creator@Kamogawa」は1階のホール(ザール)での開催。ドイツの建築家・美術家であるミヒャエル・ヒルシュビヒラーと宗教人類学者の植島啓司の対談による第1部「場所の記憶」と、ドイツの美術家であるレニ・ホフマンと美術家の今井祝雄(いまい・のりお)との対談である第2部「ラ・長い息」の二本立てである。いずれも司会進行役は小崎哲哉が務める。イヤホン付きの機械を使うことで日独同時通訳音声を聞くことが出来る。

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第1部「場所の記憶」。ミヒャエル・ヒルシュビヒラーは、1983年生まれ。哲学と建築をベルリンとチューリッヒで学び、現在はミュンヘンとチューリッヒを拠点に美術と建築の境界領域で活動。パプアニューギニアでの調査や教育活動も行っている。

ヒルシュビヒラーは、「ナラティブな考古学」と称した調査探索をパプアニューギニアで行っており、パプアニューギニアに伝わる怪談話や口語伝承を現地の人から聞き取っているそうである。
また、アゼルバイジャンの首都バクーの油田では、石油を使って絵を描き、組み上げポンプの音を録音して音楽を作るという試みも行っている。実は、石油を使って絵を描いている時に、立ち入り禁止のところに入ってしまって逮捕されたこともあるそうだ。
石油で描いた絵をギャラリー内に再現するということも行っているそうだが、これらをアゼルバイジャンの外に持ち出すのは許可がいり、下りていないため、ヨーロッパでの再現はまだ果たされていないそうである。おそらくバクー市内のギャラリーでの再現に留まっているのだろう。

一方の植島啓司は、1947年東京生まれ。東京大学と同大学院博士課程修了。ニューヨーク・ニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ客員教授、関西大学教授などを歴任し、現在は京都造形芸術大学空間演出デザイン学科教授を務めている。熊野の民俗学や聖地の研究などを行っている。

植島は「聖地は自然発生的に出来るもので、個人が聖地を作り出すことは出来ない」と主張しており、全く反対の考え方をしている荒川修作と共に聖地調査を行ったこともあるそうだ。
植島は、世界的な聖地としてアルメニアに注目しているという。アルメニアのアララト山は、エデンの園のモデルとなったところだそうで、またアルメニア国内にはノアの箱舟伝説の最初期の形態が残っているという。
熊野に伝わる小栗判官の話などもする。地獄に落とされた小栗判官が蘇るという物語だが、このように非業の死を遂げた人を神様として祀るという習慣が日本にはある。京都での例として北野天満宮が挙げられていたが、京都にはそれ以外にも上御霊神社、下御霊神社、白峯神宮、崇道神社など、怨霊を神様として味方にするという風習がある。これは世界的に見ても珍しい習慣であることは間違いない。小崎によると、他の国では地獄に落ちた人が罰せられるという救いのない話になることが多いそうだ。ヒルシュビヒラーによると、パプアニューギニアにもそんな話はないそうである。パプアニューギニアに伝わるナラティブには、例えば、母親が留守の時に父親が息子を殺してバラバラにし、庭に撒くと草木や花が生えてきて、戻ってきた母親がそれを見て喜ぶという、論理も倫理道徳もない不思議な話が多いそうである。

ヒルシュビヒラーも、「個人で聖地を作ることは出来ない」という植島の意見には賛成するが、「聖地から影響を受けて新たなものを作り出すことは可能」という考えを持っているそうだ。京都に来て、様々な妖怪の話や怪談を集めて回っているが、文学からのアプローチでは、まず日本の古典を読むことを始めたそうで、上田秋成の『雨月物語』を読むことにした。それもドイツ語訳されたものではなく、日本語の文章をGoogle翻訳機にかけたもので読もうとしたそうだが、翻訳機能がまだ正確ではないので、わけのわからないものになったそうだ。ただその滅茶苦茶さが面白いという。これはパプアニューギニアで採取した物語のわけのわからなさにも繋がっているのだろう。
京都について、ヒルシュビヒラーは、「古いものと新しいものがこれほど渾然一体となっている都市は世界中を探しても存在しない」ということで、京都という場所の歴史的重層性を芸術作品にしようと、妖怪が描かれた絵巻物を、幽霊が出るという噂のあるトンネルの中に置き、一晩寝かせた状態のものを作品とするという試みなどを紹介する。トンネルというのは近年になってから出来たもので、絵巻物の上にはタイヤの跡などがついているが、自動車も古くからあったものではない。時代の異なるものが合わさったものを重層性のある芸術作品として捉えるというあり方である。

植島は曼荼羅が土地の代わりになるという日本の考え方を紹介する。これもある意味、土地が芸術作品を生み出す例と見ることも出来る。また記号の中に物語が展開される例があるとして、中央オーストラリアのワルビリ族のイコノグラフィーを紹介する。不思議な絵のようなものが並んでいるが、全てに意味があるそうで、見て感じる物語のようなものとなっているようである。また、蛇の物語が最初に置かれているのだが、この蛇の物語は世界中の至る所で見られるそうで、例としてメソポタミアの英雄マルドゥクと大地の精霊ティアマトの絵が資料に印刷されていたが、考えてみればエデンの園の物語で悪役となっているのは蛇であり、日本でも箸墓伝説など蛇が重要な役割を果たすものは枚挙にいとまがない。

あるいは、聖なる意識というものは人類の奥底で繋がっていて、それが特別な場所や手段を経て、人類の意識上において再結合するものなのかも知れない。

 

第2部「ラ・長い息」。タイトルは、レニ・ホフマンが決めたそうだが、ドイツ語で「LA LANGER」という語感で決めたそうである。レニ・ホフマンは、自らを「アナーキスト」と語っており、前衛芸術を生み出す人であるようだ。

レニ・ホフマンは、1962年生まれ。デュッセルドルフとカールスルーエを拠点に、サイトスペシフィック(場所に帰属する芸術)な創作活動を行っているそうである。2002年よりカールスルーエ芸術アカデミーの教授を務めている。レニ・ホフマンの芸術を捉えるには「パンク」や「遊び」が重要なワードとなるようだ。

対談相手の今井祝雄は、1946年生まれ。1965年に吉原治良が率いる具体美術協会の最年少会員となる。その後、大津市にある成安造形大学教授を経て現在は同大学の名誉教授の称号を得ている。
具体美術協会では、展覧会に出展する作品などは全て吉原治良が選定していたそうだが、評価に関しては「ええで」か「あかん」の二つだけだったそうで、「ええで」と言われた時はいいが、「あかん」と言われたときは理由がわからず、悶々とすることもあったという。自分が教育者や選定者として活動する立場となった時は、流石に「ええで」と「あかん」の二つで決めるというわけにはいかず、駄目なときでもその理由を説明するようにはしているそうである。
吉原には、「これまでにないものを作れ」と何度も言われたそうで、それが作家としての指針となってきたようだ。ただ小崎によると現代芸術は新しいものを求める一方で、その根拠や歴史的な文脈を求めるところがあるそうで、真逆のことをやらねばならない難しさがあるようである。

レニ・ホフマンは、サイトスペシフィックとはいうが、デジタルな思考として「昨日」「今日」「明日」が一度に見えるような作品を指向するなど、重層性ということに関してはヒルシュビヒラーと繋がる部分があるように感じられる。
レニ・ホフマンの芸術観は、日本の観念だと「無常」と相性が良く、その日、その場所、その人でなければ味わえないアートを理想としているようである。第2部開始前に聴衆全員に粘土をこねたボールが配られたが、粘土は誰でも手軽に形を変えることの出来る芸術という意味があるようだった。私も色々と押しつぶして形を変えてみた。結局のところありきたりの形にしかならなかったわけだが。他の人も色々と試していたが、飛び抜けて創造的な作品を作ることは難しいようだった。

ある意味、「個」としての体験を重要な芸術感覚と捉えているようで、第2部終了後、ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川の裏庭に設けられたレニの作品を皆で鑑賞したのだが、様々な角度を向いたミラーに人々が映り込むことで、1回きりの芸術体験が出来るようなものであった。1回きりではあるがそれは瞬間瞬間においてはということで、形を変え続ける作品をずっと見続けることは出来る。ただ、写真とは相性は悪く、私もスマホで何枚か撮影したが、「写真には写らない美しさがある」作品だと確認した。

レニは芸術の幅を広げることを重要視してるようだが、今井によるとメンターの問題として美術系芸術系大学が増えて、売り出し方までも教えるようになった結果、アカデミズムから抜け出ることが難しくなっているという。
都市芸術にも話は及ぶ。都市芸術というと、私などは名古屋市立美術館で観たハイレッド・センター(高松次郎、赤瀬川源平、中西夏彦による前衛芸術グループ。東京の路上で過激なパフォーマンスを行うことで都市における芸術を提唱した)を思い浮かべるが、今井も御堂筋の3階建てのビルの最上階のネオンを使った都市芸術作品を作ったことがあるそうである。レニも都市は市民にとって重要な表現の場という考えを抱いているようであった。

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2019年12月 3日 (火)

コンサートの記(611) 準・メルクル指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第533回定期演奏会

2019年11月28日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第533回定期演奏会を聴く。今日の指揮者は大フィルへの客演も多くなってきた準・メルクル。

まずNHK交響楽団への客演で日本での知名度を上げた準・メルクル。日独のハーフである。おそらくN響の年末の第九で、史上初めてピリオドの要素を取り入れた演奏を行ったのがメルクルだと思われる。ハノーファー音楽院で学んだ後、チェリビダッケらに指揮を師事。タングルウッド音楽祭ではレナード・バーンスタインと小澤征爾に師事している。リヨン国立管弦楽団、MDRライプツィッヒ放送交響楽団、バスク国立管弦楽団の音楽監督を務め、2021年からはオランダのハーグ・レジデンティ管弦楽団の首席客演指揮者に就任する予定である。

 

曲目は、ドビュッシーの「子供の領分」(カプレ編曲)、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、武満徹の「夢の引用-Say sea,take me!-」(ピアノデュオ:児玉麻里&児玉桃)、シューマンの交響曲第3番「ライン」

メルクルは、リヨン国立管弦楽団と「ドビュッシー管弦楽曲全集」を、NHK交響楽団とは「ロベルト・シューマン交響曲全集」を作成しており、いずれも得意レパートリーである。

ドビュッシー、武満徹、シューマンの3人に共通しているのは、「夢」を意味するタイトルの入った曲を代表作にしていることである。武満徹は、今日演奏される「夢の引用」の他にも「夢の時」や「Dream/Window」(駄洒落のようだが夢窓疎石のこと)といった夢をタイトルに入れた曲を多く書いており、タイトルに「夢」は入っていないが実際に見た夢を音楽にした「鳥は星形の庭に降りる」という曲も有名である。
ドビュッシーは、今日演奏される「牧神の午後への前奏曲」も牧神のまどろみが重要なモチーフになっているが、ずばり「夢」というタイトルの有名ピアノ曲を書いている。
シューマンは、言わずと知れた「トロイメライ」の作者である。シューマンの名前を知らなくても、「トロイメライ」を一度も聴いたことがない人は存在しないというほどの有名曲である。

というわけで、「夢」をモチーフにしたプログラミングなのかを、開演前に大フィル事務局次長の福山修氏に聴いたのだが、そうしたことは意識していなかったそうで、メルクルの得意としているシューマンとドビュッシーの曲をというリクエストから始まったそうである。大フィルはシューマンは不得手としているためメルクルに鍛えて貰いたいという思いもあったようだ。
その後、「シューマンの交響曲だと「ライン」よりも第2番の方が夢っぽいですよね」と私が話したことから、オーケストレーションと交響曲第2番の第3楽章と第4楽章の話になったのだが、結構コアな話なので、ここに書いてもわかる人は余りいないと思われる。少しだけ書くと、シューマンの交響曲第2番が陰鬱というのは間違った評価だという話である。

 

今日のコンサートマスターは、東京フィルハーモニー交響楽団のコンサートマスターでヴァイオリニストの三浦文彰の父親としても知られる三浦章宏が客演で入ったが、これが抜群の上手さであった。ソロのパートを弾き始めた瞬間に、「あ、これは上手い!」と感じるのだから半端な腕前ではない。関西は人口が多いということもあって、オーケストラも群雄割拠。コンサートマスターも名手揃いなのだが、次元が違うようである。

 

ドビュッシーの「子供の領分」(カプレ編)。原曲はドビュッシーが愛娘のシュウシュウ(本名はクロード=エンマ)のために書いたピアノ曲である。極めて描写的な「雪は踊っている」や黒人音楽の要素を取り入れた「ゴリウォーグのケーク・ウォーク」などの曲は単独でもよく知られている。ただ、個人的にはやはりオリジナルのピアノ曲版の方が好きである。オーケストラで聴くと例えば「雪は踊っている」の雪が風に舞う場面などは迫真性に欠けて聞こえてしまう。
フランス音楽は得意としていない大フィルであるが、メルクルの指揮に乗って繊細で美しい音色を紡ぎ続ける。これに小粋さが加わると良いのだが、現時点の大フィルにそれを求めるのは酷かも知れない。

 

ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」。フルートが鍵を握る曲であるが、冒頭のフルートは音が大きすぎる上に雑な印象。その後、メルクルが左手で何か指示を出しているように見えてからは少し安定する。ポディウム席だと指揮者が何を要求しているのかよく分かったりするのだが、フェスティバルホールはオペラ対応形式ということで、ステージ後方の席は設けられていない。そのため本当に左手でなんらかの指示を行ったのかも良くは分からない。
立体感のある音響が特徴の演奏であったが、「牧神の午後の前奏曲」としては分離が良すぎる印象も受ける。まどろみの要素が吹き飛んでしまったかのようだ。
この曲の演奏が終了した後では、多くの場合、フルートが単独で拍手を受けるのだが、今回はメルクルはオーケストラ全員を立たせて、単独で拍手を受けるシーンは作らなかった。

 

武満徹の「夢の引用-Say sea,take me!-」。1991年に初演された2台のピアノとオーケストラのための作品である。12の夢を描いたとされる作品で、ドビュッシーの「海」からのそのままの引用が印象的である。
2台のピアノを受け持つ児玉麻里と児玉桃の姉妹は、大阪府豊中市出身。幼い頃に両親と共にフランスに渡り、二人共にパリ国立音楽院に入ってピアノを専攻。姉の児玉麻里は、ケント・ナガノ夫人としても名高い。関西生まれということもあって、京阪神地域で演奏会を行うことも多い二人である。
ドビュッシーの「海」の第3楽章のタイトルは「風と海の対話」なのだが、2台のピアノもまた対話している。2台のピアノとオーケストラも対話していて、武満とドビュッシーもまた対話しているということで、音の背後で縦横無尽なやり取りが行われていることが感じ取れる。
「夢」というのが、いわゆる夜に見る夢のようなものなのか、あるいは「憧憬」として語られているのかはわからないが、後者だとしたらそれはドビュッシーに対してのものであろう。
この曲で武満が書いた旋律は、簡潔で明瞭で温かく、その後に書かれることとなる「系図~ファミリー・トゥリー」を先取りしているかのようである。特に4つの音は印象的で、武満の刻印のように聞こえる。武満が、自分が歩んで来た音楽の原点を振り返るような趣さえある。あたかもショスタコーヴィチが交響曲第15番で引用を多用したように。

児玉姉妹は、元々武器としている煌びやかな音色を生かした切れ味鋭いピアノを弾いた。

児玉姉妹のアンコール演奏は、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」より“金平糖の踊り”。「夢の引用」では、第1ピアノが児玉麻里、第2ピアノが児玉桃であったが、アンコールでは場所を入れ替え、原曲ではチェレスタが奏でるメロディーを第1ピアノの児玉桃が主に弾いた。

 

ロベルト・シューマンの交響曲第3番「ライン」。シューマンの4つある交響曲の中では最も人気が高く、コンサートプログラムに載る回数も多い。メルクルは暗譜での指揮である。
シューマンのオーケストレーションの弱さに関しては、彼の生前からいわれていたことであり、19世紀末から20世紀中盤に掛けては、もっとよく聞こえるようにと楽器を足したりオーケストレーションにメスを入れたりということもよくあった。ただシューマン独自の渋い響きを支持する人も多く、例えば黛敏郎などは、「あの音を出すにはあのオーケストレーションしかない」と全面的に肯定している。
フェスティバルホールは空間が広いので、シューマンの交響曲をやるには不利のように思える。スケールがやや小さめに聞こえてしまうのである。
「ライン」交響曲に描かれた滔々とした流れや、巨大な構造などをメルクルと大フィルは音に変えていく。ドイツ文学や神話、叙情詩などが音として結晶化されているのが把握出来るかのようである。
一方で、音の生命力に関してはホールがシューマンの曲には向いていないということもあって、十分に溢れているとはいえないかも知れない。
ただシューマンが曲に託そうとしていた希望は伝わってくる。

「夢だわ!」(チェーホフ 「かもめ」よりニーナのセリフ)

 

「ライン」もなんだかんだで人気曲だけに、実演に接する機会は多いが、その中でのベストはやはり一番最初に聴いたウォルフガング・サヴァリッシュ指揮NHK交響楽団のものだったように思う。ドイツ精神が音と化してNHKホール一杯に鳴り響いたかのような強烈な体験であった。

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2019年12月 2日 (月)

コンサートの記(610) 以和貴会演奏会「欣求浄土~天台聲明と天王寺楽所」

2019年11月25日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後6時30分から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、以和貴会演奏会「欣求浄土~天台聲明と天王寺楽所」を聴く。
天王寺楽所(てんのうじがくそ)は、四天王寺ゆかりの聖徳太子の時代にまで遡る歴史を誇る雅楽集団である。内裏の大内楽所、奈良の南都楽所と共に三方楽所に数えられていた。だが、明治になって三方楽所の楽師達は東京に召され、雅楽局の団員となる。雅楽局の後継団体が宮内庁式部職楽部(宮内庁雅楽部)である。このため、天王寺楽所の歴史も途絶えそうになったが、これを憂いた有志が雅亮会という団体を結成。事務所を大阪木津の浄土真宗本願寺派願泉寺に置き、天王寺楽所を名乗ることを四天王寺から許されている。平成26年に雅亮会の維持のため以和貴会が結成され、天王寺楽所の名は以和貴会の演奏時の名前となったが、この12月の頭に再統合されて、天王寺楽所雅亮会としてスタートする予定である。
事務所が願泉寺内に置かれているためか、浄土真宗本願寺派の大学で音楽学部のある相愛大学の特別受け付けが設けられていたりする。


曲目は、第1部が「欣求浄土の響」と題され、講式「順次往生講式『述意門』より」、極楽声歌「萬歳楽(只拍子)」、聖衆行道「付楽 菩薩」、舞楽「迦陵頻伽」
第2部が「念仏會」で、舞楽「振鉾(合鉾)」、聲明「引聲阿弥陀経(散華)」、雅楽「賀殿」、聲明「引聲阿弥陀経(四奉請)」、舞楽「還城楽」、退出音声「長慶子」


まず、天王寺楽舞協会常任理事で以和貴会副会長の小野真龍から本日の舞台の解説がある。第1部の前半は往生に向かう道であり、力尽きて途中で緞帳が降りる。その後は極楽の描写となり、極楽の音楽である雅楽が鳴って、迦陵頻伽達(少年達が扮する)の舞となる。

第1部前半は、舞台後方に四天王寺の鳥居と、その上に被さるような夕陽が映されている。夕陽を見ながら極楽を思い浮かべる日想観(じっそうかん)である。夕陽は徐々に沈んでいき、下にまで達したところで声歌が終わって緞帳が降りる。
舞台下手から楽師達が登場。演奏途中で、上手の者から順に緞帳の側に向き直る。全員が緞帳の側を向いたところで、緞帳が上昇。舞台背後には今度は阿弥陀来迎図が浮かんでいる。

少年達による「迦陵頻(迦陵頻伽)」の舞は可憐であった。


第2部は背後に阿弥陀如来像の絵が浮かんでいる。

鉾を持った二人の男の舞の後で、僧侶達が登場し、阿弥陀経と唱えつつ散華を行う。花は紙で出来たものを撒いているようだ。

舞楽「賀殿」。4人の男達による勇壮な舞である。舞人達は戻る時に一人一人阿弥陀如来を見上げてから立ち去っていった。
終わった後で、今のことが全て夢だったかのような不思議な感慨にとらわれる。

再び僧侶達による阿弥陀経が唱えられた後で、今度は仮面を被った男による豪快な舞「還城楽」が行われる。とぐろを巻いた蛇を手にしての舞であり、蛇は迦陵頻伽を舞っていた少年の一人が手渡す。おそらく音楽の神様である弁財天とも関係があるのだろう。
同じ古代の舞踏をモチーフにしているためか、音やリズムがストラヴィンスキーの「春の祭典」を連想させるようなものであるのも面白い。
舞は3部に分かれ、徐々に楽器の厚みが増していく。第3部の重厚な音楽は黛敏郎の「舞楽」に近い迫力を持つ。
さて、舞人はステージ下手手前の仮花道から退場するのであるが、仮面をつけているため前がよく見えず、壁に激突するなどかなり危なっかしい。

最後は、「長慶子」。夢枕獏の『陰陽師』でもお馴染みの源博雅が作曲したという華やかな曲である。

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2019年12月 1日 (日)

これまでに観た映画より(145) アキ・カウリスマキ監督作品「希望のかなた」

2019年11月27日 京都シネマにて

京都シネマで、アキ・カウリスマキ監督の「希望のかなた」を観る。英題は「The Other side of Hope」で、邦題とはニュアンスはかなり異なる。フィンランドを代表する映画監督であるアキ・カウリスマキ(アキやミツコはフィンランドでは男性の名前である)であるが、これを最後の映画にしたい旨を発表済みである。2017年にベルリン国際映画際銀熊賞(監督賞)や、国際批評家連盟年間グランプリ、ダブリン国際映画祭でのダブリン映画批評家協会賞と最優秀男優賞、ミュンヘン映画祭の平和のためのドイツ映画賞ザ・ブリッジ監督賞などを受賞した作品。出演は、シェルワン・ハジ、サカリ・クオスマネン、イルッカ・コイヴラ、ヤンネ・ヒューテンアイネン、ヌップ・コイブ、サイモン・フセイン・アルバズーン、ニロズ・ハジ、マリヤ・ヤルヴェンヘルミほか。

内戦に揺れるシリア。北部のアレッポで暮らしていたカーリド・アリ(シェルワン・ハジ)は、空襲やテロが酷く、家族や親族のほとんどを失ってしまったこともあって亡命を決意し、国境を越えてトルコへ、更にギリシャを経て東欧を北へと向かう。ポーランドの港町でネオナチに襲撃されたアリは、貨物船の石炭の中に隠れる。船員一人に見つかるが、通報されるどころか食事を与えられるなど厚遇される。船員はフィンランドについて、「みんな平等でいい人が多いいい国」と語っていた。
ヘルシンキに着き、早速、難民申請を行うアリだったが、審査が降りるまでは囚人と同じような扱いである。そこでアリはイラク人の難民であるマズダック(サイモン・フセイン・アルバズーン)と出会い、親しくなる。
政府がアレッポの現状を戦地とはいえないと見做したため、アリの強制送還が決まる。シリアに送り返される日、アリは収容所を抜け出してヘルシンキの街に出る。アリには妹が一人いて、ずっと彼女を探して東欧を彷徨っていたのだ。シリアに帰るわけにはいかない。

一方、販売商などを行っていたヴィクストロム(サカリ・クオスマネン)は店を畳み、新たにレストラン経営を始めようとしていた。妻とは別れ、ポーカーで圧勝した金で、裕福な学生が多く住む地区で売りに出されていたレストランを買い取る。店員も前の店から引き継いだが、看板になる料理がなく、ビールしか売れない。そんなある日、レストランのゴミ出し場を占領していた男が一人。「ここが自分の家だ」と主張する男とヴィクルトロムは殴り合いとなる。その男こそアリであり、アラブ人で身長も171cmと西洋人に比べると小柄であるアリは、一発で伸されてしまうのだが、結果としてレストランの店員として採用される。アリは身の安全のために身分証を偽造して貰い(名をアリからフセインに変える)。マズダックに妹の居所がわかったら教えてくれるように頼む。

アキ・カウリスマキ監督の作品は、暴漢が出てくることが多いのだが、アリもレストランにたどり着くまでに、ごろつきのような地元の親父達に絡まれ、逃げ込んだバスにウイスキーの小瓶を投げつけられたりする。レストランでのライブを聴いていると、フィンランド解放軍という極右排斥主義組織のメンバーに囲まれ、会場を出た後で襲撃され、あわや落命寸前のところまで追い詰められている。フィンランドでも難民排斥問題は持ち上がっており、決していい人達ばかりではない。

アリとフィンランドの人達との交流であるが、センチメンタルになったりヒューマンドラマになったりするのは避け、クールな描写が一貫されている。いわゆる「感動」とは少し距離を置いて撮られた作品である。

どうもヘルシンキでは今、寿司がブームになっているようで、店の売り上げに悩むヴィクストロムは、ウエイターのカラムニウス(イルッカ・コイヴラ)の提案を受け、書店で日本関連の書籍を買い漁って得た知識で、「インペリアル・スシ」という店を始めてしまうのだが、ネタもシャリも全てがいい加減で、わさびはドデカ盛り。店員達は法被や浴衣を着て、「いらっしゃいませ」と日本語で日本人客を出迎える。店内には「竹田の子守唄」が流れている。当然ながら成功するはずもないのだが、このシーンで一番笑えるのはやはり日本人であろう。映画の中では日本酒の話が出てきたり、ラスト近くの良い場面でも日本の歌謡曲が流れたりと、日本的記号が鏤められている。

ラストはささやかな幸せの場面なのだが、悲しさも漂っており、「解決」はさせていない。物足りなく思う人も結構いそうだが、これが現実に最も近いのであろう。
あるいは、「続きはもう引退するような人間ではなく、もっと若い人が書け」ということなのかも知れない。

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