観劇感想精選(329)ヤスミナ・レザ「正しいオトナたち」&これまでに観た映画より(147)ヤスミナ・レザ+ロマン・ポランスキー「おとなのけんか」
舞台「正しいオトナたち」
2019年12月7日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇
午後6時から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「正しいオトナたち」を観る。作:ヤスミナ・レザ、テキスト日本語訳:岩切正一郎、演出:上村聡史(かみむら・さとし)。真矢ミキ、岡本健一、中島朋子、近藤芳正による四人芝居である。上演時間約1時間45分、1幕もの場面転換なし、リアルタイムでの展開である。2008年の初演で、2011年にはロマン・ポランスキーの監督で映画化もされている(タイトルは「おとなのけんか」)。
開場から開演まで、ずっとヴィヴァルディの「四季」が流れている。昨年、やはり上村聡史の演出で上演されたヤスミナ・レザの「大人のけんかが終わるまで」でも「四季」が流れていたが、上村の好みなのかレザの指定なのかは不明である。
ヴェロニック(真矢ミキ)とミシェル(近藤芳正)のウリエ家の居間が舞台である。
ヴェロニックとミシェルの11歳の息子であるブリュノが、アラン(岡本健一)とアネット(中島朋子)のレイユ夫妻の息子で同級生のフェルディナンに棒で顔を打たれ、前歯が欠けるという事件が起こる。片方の前歯の神経は抜けてしまい、18歳まではインプラントなどの施術も不可能であるため、当分の間はセラミックを被せた状態でいるしかない。ということでレイユ夫妻がウリエ夫妻に謝罪に来たのだ。だが、アランはヴェロニックが宣誓書で用いた「棒で武装し」という言葉に反対する。武装では計画的に殴りかかったような印象を受けるためだ。流れの中で偶発的かつ突発的にということにしたいようである。
何故、フェルディナンがブリュノを棒で叩いたのかについては、フェルディナンもブリュノも詳しくは言わないため不明である。だが、ブリュノがグループを作っており、フェルディナンが仲間はずれにあったらしいということは噂で聞こえてきたようだ。ブリュノがフェルディナンに「お前チクっただろう」と言ったらしいことはレイユ夫妻も把握している。
最初は冷静を装っていたウリエ夫妻とレイユ夫妻であるが、次第にいがみ合いが始まる。弁護士をしているアランは、薬害事件を起こした製薬会社の弁護に取り組んでおり、四六時中、製薬会社の重役や助手と携帯で通話をしているという状態でせわしなく、ウリエ夫妻は勿論、妻であるアネットも苛立ちを隠せない。そもそもが仕事人間のアランは子どもの喧嘩など訴訟の仕事に比べれば取るに足らないことと考えており、やる気がない。
ヴェロニックはアフリカ史関係の著書がある作家であり、歴史や美術関係の出版社でも働いているのだが、パート勤務だそうである。
ミシェルは金物を中心とした小さな家庭用品販売店を営んでいる。売り上げは余りないようだが、仕事に誇りを持っているようだ。
アネットは、投資関係のコンサルタントを行っているという。
アネットが突如気分を悪くして、嘔吐し、ヴェロニックの大切な美術書を汚してしまうなど、散々な展開。レイユ夫妻がバスルームに行っている間、ヴェロニカは、「あの二人は怖ろしい!」と言い、アランがアネットのことを「トゥトゥ」と呼んでいることをからかったりするのだが、それを戻ってきていたアランに聞かれるなど、更に険悪さが増す(余談だが、「トゥトゥ」というのは、「シェリーに口づけ」の冒頭に由来しているらしい)。
それでもなんとか丸く収まりそうになるのだが、ミシェルが前日ハムスターを路上に置き去りにしたという話を聞いていたアネットが、「ハムスターを殺した」となじったことから事態は更なる悪化を見せ……。
ちょっとした見解の相違から敵と味方が次々入れ替わり、それぞれの個性の強さが溝を生んだり、逆に接近したりと目まぐるしい展開を見せるヤスミナ・レザらしい心理劇である。
子どもの喧嘩が元なのだが、それぞれの親の持つ問題点が浮かび上がる仕掛けである。原因を作った子ども二人が舞台に登場することはなく、ある意味、主役不在で脇役が勝手な展開を見せていると捉えることも出来る。
ハムスターの話は、ラストでも出てくるのだが、劇は近藤芳正演じるミシェルの示唆的なセリフで終わる。男優3人の芝居である「ART」(来年、上演される予定がある)でもそうだったが、ヤスミナ・レザの劇は個性的なセリフで締められることが多い。
原題の「Le Dieu du carnage」は「修羅場、虐殺、殺戮」というような意味だそうだが、今回の邦題が「正しいオトナたち」、日本初演時の邦題が「大人は、かく戦えり」で、いずれも「大人」という言葉が入っている。基本的にヤスミナ・レザの作品は大人向けであり、内容もシリアスで渋めのものが多い。初めて観たヤスミナ・レザの作品は、昔のABCホール(ザ・シンフォニーホールよりも北にあったABCテレビ社屋内にあった。ほたるまちに移転したABCテレビ新社屋内にあるABCホールとは別物である)で観た「偶然の男」である。長塚京三とキムラ緑子の二人芝居であったが、あれはもう一度観てみたい。とても愛らしい大人のための寓話であった。
映画「おとなのけんか」
2019年12月7日
配信で、映画「おとなのけんか」も観てみる。原題は、「God of Carnage(殺戮の神)」。ロマン・ポランスキー監督作品。原作:ヤスミナ・レザ。脚本:ヤスミナ・レザ&ロマン・ポランスキー。2011年の作品。フランス・ポーランド・ドイツ・スペイン合作。上映時間79分の中編である。出演は、ジョディ・フォスター、ケイト・ウィンスレット、クリストフ・ヴァルツ、ジョン・C・ライリー。ポランスキー監督作品だけにかなり豪華である。ノンクレジットで少年達も登場し、木の棒で顔を殴るシーンも引きで撮られている。
英語圏の俳優を使っているため、舞台はパリからニューヨークのブルックリン地区に置き換えられており、役名もアラン(クリストフ・ヴァルツ)以外はアメリカ人風のものに変わっている。ミシェルは英語発音のマイケル(ジョン・C・ライリー)に変わっただけだが、ヴェロニックがペネロペ(ジョディ・フォスター)、アネットがナンシー(アンの愛称。ケイト・ウィンスレット)になっている。子ども達の名前も、フェルディナンがザカリーに、ブリュノがイーサンに変更になっている。だが、実際の撮影はパリで行われたそうだ(ポランスキー監督のアメリカ入国が困難だったため)。
アパートメントの一室が舞台であるが、映画であるだけに舞台の移動も可能で、一度だけだが全員が玄関を出てエレベーターの前まで出るシーンがある。また、舞台版では描くことの出来なかったトイレ(バスルーム)内でのシーンも撮影されている。
ヤスミナ・レザの作品はセリフの量が多いのだが、実際に狭いアパートメントの居間でこの量のセリフが語られると、情報過多の印象を受ける。少なくとも我々日本人はこれほど膨大な量で会話することは稀なので、空間が言葉で隙もなく埋められていくような窮屈さを覚える。だが、それこそがこの作品の本質であるため、居心地の悪さも含めて把握は出来る。
映画の場合、構造は舞台よりも把握はしやすくなっており、TPOをわきまえずに携帯で電話をしまくるアランがまず今この場所に向き合わないことで全員の気分を波立たせ、「大人として求められること。守らねばならないこと」の防波堤が崩れていく。他の登場人物も一言多いため、その余計な一言が波紋を呼んで、やらずもがなの行動を招いてしまう。「殺戮の神」という言葉は、アランがアフリカの情勢を語るときに登場するのだが、アフリカ史専門の著書のあるペネロペに向かってそうした言葉を用いて教授するような言い方をしたためペネロペの怒りを招くなど(専門家の前でさもわかったようなことを言ってはいけない)事態が悪化していく。
子どもの場合は活動の範囲が狭く、友人達と情報を共有した小さな世界で生きていることが多い。性差も大人ほどには大きく意識されず、世間のことについても詳しいとはいえない状態である。一方、大人の場合は好き好んだ場所に移動が可能で、それぞれ専門と呼べる分野を持っていることが多く、多くの場合矜持を伴っている。個人的な知識や経験も豊富で、それぞれに価値観と哲学がある。男女の指向性の違いも大きい。そのため、溝が出来ると子どもとは比べものにならないほど広く深くなり、収拾が付かなくなってしまう。ミニバベルの塔状態が簡単に生まれてしまうわけだ。
舞台版ではラストに登場するハムスターの話は映画版には登場しない。ネタバレになるのは避けるがケータイが鳴ることで「取り越し苦労が多かった」ことがわかるだけである。
ただエンドクレジットにハムスターが登場し、その後、公園で子ども達が遊ぶ姿が映される。ハムスターは子どもの寓意でもあるので、映像で表現出来るならということで会話は敢えて持ち出さなかったのであろう。
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