観劇感想精選(331) shelf第29回公演「AN UND AUS/つく、きえる」
2019年12月15日 東九条のTHEATRE E9 KYOTOにて観劇
午後2時から、東九条にあるTHEATRE E9 KYOTOで、shelfの第29回公演「AN UND AUS/つく、きえる」を観る。ドイツの劇作家であるローラント・シンメルプフェニヒの戯曲の上演。テキスト日本語訳:大塚直、構成・演出・美術:矢野靖人。出演は、川渕優子、三橋麻子、沖渡崇史、横田雄平、江原由桂、大石憲、鈴木正孝、古木杏子。
昨夜、たまたま立ち寄った外国人のお客さんが今日の公演を観に来たということで、矢野靖人は、開演前の挨拶を(急遽らしいが)英語でも行い、「英語字幕はございません」という言葉も入れていた。
東日本大震災と福島第一原子力発電所での事故を題材にした作品である。具体的な地名として「いわき」という言葉が出てくるため、福島県いわき市をモデルにした場所が舞台であることがわかる。
椅子が7脚、真横に並んでいるだけのシンプルな舞台である。各椅子の前には靴が投げ出された形で置かれている。舞台下手には自転車が置かれている。
ト書きに当たる部分が背後に白い文字で投影される。状況や服装が俳優達に当てはまる場合もあれば一致していないケースもある。
登場人物は、3組の夫婦と、若者と娘である。3組の夫婦であるが、それぞれが別の相手の不倫をしている。しかも不倫場所が3組とも同じホテルである。A(鈴木正孝)はZ夫人(川渕優子)と、A夫人(古木杏子)はY(沖渡崇史)と、Z(横田雄平)はY夫人(江原由桂)と浮気をしている。しかも全員、月曜の夜、同じ時間にである。ホテルには部屋が3つしかないが、AとZ夫人が1号室、YとA夫人が2号室、ZとY夫人が3号室を使っている。ホテルのフロント係をしている若者(大石憲)は、ルームキーを探す時に後ろを振り返るのだが、そこには有名な絵が掛かっている。字幕で「北斎」と投影されるため、「神奈川沖浪裏」であるらしいことがわかる。実際には違うが津波を想起させる絵である。
若者は沿岸警備のために高台に住んでいる娘(三橋麻子)とSMSのやり取りをしている。文章の中で娘は自身をミツバチに、若者をクジラに例えている。
その日、3組のカップルがホテルにいる時にそれは起こる。ライトが「つく、きえる」を繰り返し、壁やベッドが騒ぎ始める。高台からは、街が海と一体になるのが見えた。
3組のカップルにはそれぞれ特徴がある、Aは口のあった部分に何もなくなってしまい、思ったことを言えなくなる。だが口とは異なる場所から自身の意思とは関係のない言葉が発せられるようになっていた。Z夫人は気づくと頭が二つあるようになっている。A夫人は突然、自身が何百歳もの老女となり石に変わってしまった感じ、Yは心臓が燃えるようになり、自身では運動をやめることが出来なくなる。Zは自分のことを死んだ魚だと思い、Y夫人は雨に濡れた蛾であるという自己認識がある。3号室の中で雨が降る。黒い雨だ。Y夫人は雨でびしょ濡れになる。
その後、若者はクジラが横を通るのを見掛け、ホテルにいた他の者達も魚の群れや鮫の姿などを目にする。それぞれの相手によって否定されるが、津波が街に押し寄せたことが暗示されている。
「理解されない」「わかり合えない」ということの変奏曲が展開される、Z夫人は自身の頭が二つになったことを誰にも言えないでいる。そんなことを言っても信じて貰えないし、頭がおかしくなったと思われるだけである。背景に投影されるト書きにも「理解されない」「言うのをためらう」という言葉が出てくる。
ZはY夫人に魚の話をするが、Y夫人の傍白にはっきりと「何を言っているのかわからない」というものがあり、Y夫人が蛾の話をしてもZは理解を示さない。Yの運動の話も、A夫人の老女になった石の話も、「理解されないだろう」ということで話さなかったり途中で話をやめてしまったりする。Yは「老女になった」と告白するA夫人に「君はまだ40にもなっていないし」と言い聞かせる。ネガティブな例え話だと勘違いされたのだ。目の前にいる人に理解されない。やがて人々は部屋から出る仕草をするために椅子の上を歩き始める。停電した暗闇の中、狭い廊下を表した椅子の上でそれぞれがすれ違う。それぞれの体に触れた時や雰囲気で、相手は「この女性、頭が二つある」、「この人は蛾のようだ」と言い当てるため、第三者にはわかることなのだと思われるのだが、一番近くにいる人には何も見えないし伝わらないのだ。
それは現地にいる被災者なのに状況がまるで飲み込めていないという状態に繋がる。ト書きには「自分で何を言っているか理解しているのか怪しい」というものもあるが、自分自身についても理解していないことは多い。そもそも彼らは「自分達がもはや幽霊なのだということを理解していない」ようである。
津波が去った後、街には何も残っていなかった。若者もまた自身が幽霊になったのだということを理解しておらず、娘に会うために小学校へと向かう。しかし若者の腕は透明になり、スマホを持つことも出来なくなっている。娘からの着信にも答えることは叶わない。
若者はクジラが太陽に抱えられて高台へと上る話をする。だが、太陽によって体を焼き尽くされたクジラは墜落する(日本でも有名なイーカロス伝説をひねったものだと思われるが、太陽は原発事故のメルトダウンの喩えでもある)。ミツバチは月に乗っかって、海の底深くへと潜っていく。だがクジラには会えず、海底で月の重さに押しつぶされて息絶える。二人とも会うことすら叶わず、しかもすれ違っている。
Aは、口のあった場所を切り裂くが、そこに口が現れることはなかった。自身の意思に反した言葉が発せられることはなくなったが、学者達や専門家と呼ばれる人の発言が頭の中で鳴り響くようになる。
距離的には最も近くにいるのにわかり合えず、遠く引き離されたかのような相反する状況が示される。直接の被害者であるのに何も教えて貰えず、近いが故に見えず、的確なことは何も語れないという、「岡目八目」のような形。
2011年3月11日の夜、いわき市上空は今まで見たことがないほど星が輝いていた。だがそれは原発事故により、あらゆる電気が絶たれていたからである。星はとても美しかったがそれは怖ろしく悲しいことでもある。美と悲しみという「あるいは」相反することがここにおいて融合する。
バラバラになっていた靴は、娘がきちんと並べてそれぞれの椅子のところに置いていく。それは弔いである。当事者であるが「わからず」、誰とも「わかり合えないこと」が前提だが、それでも「わかり合うため」の。
終演後には、ダンサーの山下残をゲストに招いて、矢野靖人とのアフタートークが行われる。山下は内容よりも俳優達の身体性や劇場空間についての話を重点的に行う。私にはない視点であり、面白かった。
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