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2019年12月29日 (日)

これまでに観た映画より(149) 没後30年「サミュエル・ベケット映画祭」より「ゴドーを待ちながら」

2019年12月20日 京都造形芸術大学映像ホールにて

京都造形芸術大学芸術映像ホールで、没後30年「サミュエル・ベケット映画祭」、「ゴドーを待ちながら」を観る。マイケル・リンゼイ=ホッグ監督作品。出演は、バリー・マクガヴァン、ジョニー・マーフィーほか。英語での上映、日本語字幕入りである。2000年代初頭にベケットの祖国であるアイルランドのダブリン・ゲート・シアター芸術監督であったマイケル・コールガンの企画によるベケットの戯曲映像化作品の中の一作である。途中、機材の不調により上映が中断されるトラブルがあった。

ベケットの代表作にして現代演劇のマイルストーンとなった「ゴドーを待ちながら」。アメリカ初演の際は大半の客が休憩時間に帰ってしまうというスキャンダルを起こしたことでも知られる(「ゴドーを待ちながら」が「抱腹絶倒の喜劇」などと宣伝されたことも原因の一つである)。

舞台では3度観ている「ゴドーを待ちながら」であるが、映像を観るのは初めてである。個人的には演劇と映画は全くの別物と考えているのだが(演劇は映像よりもボードゲームに近いものがある)今回の「ゴドーを待ちながら」ではその感がより一層強くなった。

エストラゴンとウラディミールのいる場所が、舞台よりもより死に近い場所に感じられる。二人の老いもより切実なものがある。あるいは荒涼とした景色がそういった印象を強くしているのかも知れないし、私自身が四十代半ばに差し掛かっていて、元々病弱ではあったが、若い頃よりも健康に気を遣わざるを得ない状態となり、死への坂を下りつつあることを実感しているからかも知れない。最初に「ゴドーを待ちながら」を観たのは、2002年であったが(串田和美、緒形拳ほかによるシアターコクーン内特設劇場であるシアターPUPAでの上演)その頃とは比べものにならないほど死はリアルな存在となっている。

柳の木(に見えないが)は、「ハムレット」のオフィーリアが川に転落したり、日本では幽霊が現れる場所だったりと、死に纏わるイメージを持っている。エストラゴンが裸足で歩く場面で、ゴルゴダの丘を上がるキリストの話が出てくるが、これも死に直結した話である。

映像は舞台とは違い、「空間」をさほど意識することはない。そのため流れに意識が行き、過ぎゆく時間の性質がよりはっきりと感じられることになる。二人は死の瀬戸際にいる。
エストラゴンとウラディミールが生きているのは「人生」そのものの場所であるが、個々人の人生ではなく、全人類の総体としての人生であり、ポッツォとラッキーを含めた4人は全人類の寓喩でもある。彼らの話す言葉は、多くの人々の人生に通底したものであり、時代と場所を越えた人間存在そのものの悲しみでもある。結局の所、本質的なことは何一つ掴み得ずに過ぎゆく人生と、幾世代にも渡ってそれを続けてきた人類の。
いつの時代も権力者と奴隷の構造は見え方が異なるだけで変わらないが、栄耀栄華はやがて衰え、他の者が成り代わるもまた移ろうことを繰り返す。そして権力者もまた時代の奴隷である。そんな中にあっても我々はゴドーを待たなければならない。ゴドーの正体については色々な説があるが、実際のところ正体はどうでもいいし、ゴドーが来たからといって状況は大して変わらないのかも知れない。少なくともゴドーは解決をもたらす存在ではないと思われる。実際、楽観的な解釈をしそうな人のためにベケットは、「世の中のやつらはみんな無知なサルだからね」というセリフを用意している。
「待たねばならないこと」が重要なのだ。それが我々、誰にもなれない自分の宿命なのである。

Dsc_8235

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