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2019年12月20日 (金)

観劇感想精選(330) ジョーン・ジョナス 京都賞受賞記念パフォーマンス「Reanimation」

2019年12月12日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて

午後7時から、ロームシアター京都サウスホールで、ジョーン・ジョナスの京都賞受賞記念パフォーマンス「Reanimation」を観る。

ジョーン・ジョナスは、1936年、ニューヨーク生まれ。現在も同市在住である。1960年代にパフォーマンスとビデオを融合させた新たな表現形式を創始し、現在もデジタルメディアとパフォーマンスとの関係を探求し続けている。

 

舞台中央に障子で出来たスクリーンが降りており、そこに映像が投影される。まず映されるのは寒冷地の街の映像であり、その後、アイスランドを描いた地図が映り(左下に首都のレイキャビクがある)、先程の映像がアイスランドのものであるらしいことがわかる。

舞台左手にグランドピアノがあり、その上にキーボードが乗せられている。演奏を行うのは、1975年、テキサス州生まれのピアニストで作曲家であるジェイソン・モラン。グランドピアノには坂本龍一のコンサートでよく見られるような自動演奏機能が付いており、モランはグランドピアノを自動演奏モードにしてキーボードを弾いたり、片手でキーボード、もう片方の手でピアノの演奏を行ったりする。ミニマルミュージックに始まり、即興演奏風になり、再びミニマルミュージックに戻ってくる。北欧の先住民であるサーミ人の伝統歌謡「ヨイク」も効果的に用いられている。

舞台上手にはテーブルが置かれ、助手が映像を映し出したり、ドローイングが行われたりする。

 

アイスランドの作家、ハルドル・ラクスネスの著作、特に『極北の秘教』に影響を受けたパフォーマンスである。近年、世界的な問題となっている氷河の融解を題材としているが、実はラクスネスは氷河がまだ溶け出していない1960年代に氷河の問題を取り上げているそうである。
ラクスネスの著作を題材にしたパフォーマンスは、まず2010年にジョナスが教鞭を執るマサチューセッツ工科大学(MIT)で制作され、講義形式の作品であったようだが、その後、ジェイソン・モランとのコラボレーションを行うようになり、完成形へと徐々に近づいていったようである。

ハルドル・ラクスネスは、1955年にノーベル文学賞を受賞しているが、彼が書いた戯曲のような小説『Under the Glacier(氷河の下で。邦題:極北の秘教)』が今回の公演の軸となっている。『極北の秘教』からのテキストをジョナスが朗読することで進んでいく。上演時間は約1時間。

ジョナスが、舞台中央やや下手寄りに立てられた板に掛かる黒板風のものにチョークで六角形の図形を並べた花のような絵を描き込んでいく。
「完全な死体となった全裸の女が目覚め、棺から出てアイルランド風のパンを焼き(どんなパンなのかはわからないが)、棺担ぎの男達に振る舞った」という民話風のミステリアスな蘇生(Reanimation)の話が冒頭で語られる。その後、北欧(アイスランドではなくノルウェーらしい)の光景である山々や動物達がスクリーンに映し出される。ジョナスは舞台上手のドローイングスペースに行って、映像の輪郭をなぞるような書き込みを行うが、完成する前に映像は先に進んでしまい、ジョナスが描き込んだ絵は残像のように残されることになる。「喪失」が強く印象づけられる。

ラクスネスによると氷河は世界の中心であり、昔、錬金術師に導かれて3人の男が氷河に覆われた火山の噴火口に降り、そこで世界の中心を見つけたという。

ノルウェーの氷に閉ざされた山の麓を走る列車から取られたと思われる映像が続き、ジョナスは草笛のようなものや、角笛のようなものを鳴らす。また紙をくしゃくしゃに丸める音を出す。それは氷河の溶解の音のようでもある。

「歴史は寓話、それも粗末な。それに絶えられず私は神学を学ぶことにした」だが、その神学もやがては信じられなくなるようである。新たな寓話が求められる。

嵐に耐えるユキホオジロの話も語られる。「完璧」の喩えとしてだ。人間がユキホオジロのように鳴き声を交わす生き物でないことを残念に思い、ならば沈黙を求めようとする。氷河は沈黙している。野の百合もまた。

やがて話は冒頭の全裸の女の死体の話に戻る。それは今や完全な死体である。幽霊の話も語られるが、幽霊は常に不完全な存在であり、「世界の流産」と形容される。これは氷河の融解に繋がるメタファーだと思われる。氷河の融解は進んでおり、時間を巻き戻すことは出来ない。それを食い止める夢を描いたとしても、それはかつての氷河の姿に由来する幽霊に過ぎないのではないか。

ただ、時間は解決のための有効な手段として今も考えられており、最後の結論として再度登場する。

「蘇生」を題材にした映像。池の中に白い影が映り込んでいる。やがてその白い影は白い服を着た女性だということがわかり、飛び込み台の上にいる女性はやがて池に飛び込み、泳ぎ出す。その後、映像はアザラシなど、氷河の海で暮らす生物達の映像に突然切り替わる。

タンポポとミツバチの話、ミツバチがタンポポの蜜を吸い、ミツバチがタンポポの花粉を体につけて他のタンポポに移り、受粉が行われることを「超交信」と呼ぶ。これが新たな宇宙的発展の希望と考えられているようである。

世界は悪魔が支配しているという話。ものが燃やされている映像。あるいは焚書を表しているのかも知れない。悪魔はいつまで経っても悪魔であり続けると考えたとしても、神を冒涜したことにはならないだろうという内容が読み上げられる。

山羊などアイスランドの家畜達が映った映像が流れた後で、ジョナスはカウベルなどを鳴らす。スクリーンにはすでに家畜はおらず、雪の畑を延々と歩き出す人の影が映し出されている。やがて右の方に北極海が見え、影は砂浜にたどり着く。

ジョナスは、最初は黒板のようなものが掛けられていた板に半紙を垂らし、墨で魚の絵を描く。

『極北の秘教』からの最後の引用が語られる。「時について」だ。「時の超越性は誰も知ることである。時はエネルギーでも物質でもないが、始まりと終わりを担っている。世界の創成のだ」
スクリーンには魚達の姿が映されている。あるいは他に意味があるのかも知れないが、「始まり」と「魚」は相性が良い。生物の始まりは魚だからである。
ジョーン・ジョナスは、教訓的な表現は行わない人だそうで、あるいは細分化して「意味」として受け取るのは間違っているのかも知れないが、「根源に戻ること」は何事においても重要なのかも知れない。我々はそもそも何を求めてどこからやって来たのかということだ。
キリスト教では、魚は特別な存在であり、題材からいってそちらの可能性もあるのだが、キリスト教徒の少ない日本においてはそうした解釈は真偽に限らず有効性を持たない。先の解釈の方が良いだろう。

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