観劇感想精選(328) 京都観世会館 第256回市民狂言会
2019年12月6日 左京区岡崎の京都観世会館にて観劇
午後7時から、左京区岡崎の京都観世会館で、第256回市民狂言会を観る。演目は、「宝の槌」(出演:茂山七五三、茂山茂、網谷正美)、「御茶の水」(出演:茂山逸平、茂山あきら、茂山千之丞)、「附子(ぶす)」(出演:丸石やすし、茂山千三郎、松本薫)、「蟹山伏」(出演:茂山忠三郎、山口耕道、鈴木実)
「御茶の水」の住持役は元々は茂山千作が予定されていたが、死去により茂山あきらが代役を務めることになった。
「宝の槌」。太平の世となり、人々は皆、道具自慢にふけるようになる。果報者(金持ちのこと。茂山七五三)も、家の蔵に自慢となるような宝が眠っていないか太郎冠者(茂山茂)に聞くが、太郎冠者は見覚えがないという。そこで果報者は太郎冠者に都に行って宝物を買い求めるよう命じる。
初めての都ということで、ウキウキの太郎冠者であったが、浮き足立っているところをすっぱ(網谷正美)に見抜かれ、ただの太鼓のバチを「鎮西八郎為朝(源為朝)が鬼ヶ島の鬼から奪った打ち出の小槌だ」と売りつけられてしまう。なんでも弓の名手である鎮西八郎為朝が鬼ヶ島に行って、鬼と弓の勝負をして勝ち、隠れ蓑、隠れ傘と共に勝ち取ったのがこの打ち出の小槌なのだという。呪文を唱えると(結構長い)欲しいものが出てくると聞かされた太郎冠者は、すっぱの誘導尋問により腰のもの(太刀)を所望。すっぱが仕込んでおいた太刀が現れたため、すっかり信じ込んでしまう。
さて、実際は太鼓のバチでしかない打ち出の小槌を持ち帰った太郎冠者。主の果報者の前で呪文を唱え、舞を舞い、小槌を振るって馬を出そうとするが何も出ない。太郎冠者は誤魔化すために、口のない馬(エサをやらなくていい)を出そうなどと、現実味のないことを言い始める。
呪文を唱える時の舞は迫力があり、見所の一つとなっている。
「御茶の水」。私の青春の街である東京の御茶ノ水とは関係がない。私の出身地である千葉市にもお茶の水はあるが特に関係はない。
住持(茂山あきら)が、明日茶会を開くことになり、新発意(新米の僧侶のこと。茂山逸平)に、野中の清水からお茶に使うための水を汲んで来て欲しいと頼むのだが、すげなく断られる。そこで、恋仲のいちゃ(茂山千之丞)に水を汲んできてくれるよう頼む。
実は、新発意は、自分が断れば住持はいちゃに水を汲みよう頼むであろうことを読んでおり、清水に一人で来たいちゃに思いを伝えるべく計算していたのだった。
男女の言葉のやり取りは謡として交わされる。伝統芸能の粋である。
二人の男の間で振り回されるいちゃ役が一番重要な役だと思われる。男二人が取っ組み合い(見た目は相撲である)になる場面があるのだが、ここでのいちゃの心の揺れが面白い。
「附子(ぶす)」。数ある狂言の中でも最も有名な演目である。私が小学生の頃の国語の教科書にも載っており、筋書き自体は多くの人の知るところとなっている。元々は中世の説話集である「沙石集」に入っている物語だそうで、一休のとんち話に出てくるよく似た話も「沙石集」に由来しているようだ。
主人(茂山千三郎)が、「山一つあなた」へ行くことになり、太郎冠者(丸石やすし)と次郎冠者(松本薫)に留守を言いつけるのだが、附子(トリカブトのこと)には決して近づかぬよう厳命する。だが実際は附子と言っていたのは砂糖のことであり、留守中に砂糖を盗む食いされぬよう附子だと嘘をついたのである。結局、砂糖は太郎冠者と次郎冠者に全て食べられてしまい、太郎冠者は砂糖を全て食べてしまったことの言い訳を考え出す。普通に考えたらそんな言い訳は通用しないのだが、狂言の中でのことなので「上手い落ち」となっている。実際には誰が損するわけでもないし。
「蟹山伏」。大峯山と葛城山で修行した山伏(茂山忠三郎)が、強力(山口耕道)を従えて、出羽・羽黒山に帰ることにする。山伏はうぬぼれきっており、出羽国に帰れば皆が自分のことを「生き不動」と崇拝するだろうと天狗になっている。
江州(近江国)の蟹が沢にたどり着いたとき、一転にわかにかき曇り、蟹の精(鈴木実)が非常にわかりやすい形で現れる。
山伏は蟹の精を調伏しようとするが全く効かず、という話である。
元々は、甲斐国に伝わる伝承で、謎の雲水が寺の住職に問答を仕掛け、答えられないと殴り殺してしまうという、「オイディプス王」にも描かれたスフィンクス伝説に近いものがあったようだが、「蟹山伏」では山伏は蟹の謎かけにすぐに答えており、問答が解けぬ話ではなくなっている。
蟹は民俗学的にはその姿から千手観音の化身とされる場合があるそうで、修験道と仏法の対比が発展した可能性も考えられる。
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