観劇感想精選(334) 「月の獣」
2019年12月29日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇
午後1時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで「月の獣」を観る。作:リチャード・カリノスキー、テキスト日本語訳:浦辺千鶴。出演は、眞島秀和、岸井ゆきの、久保酎吉、升水柚希。2019ブレイク女優の一人である岸井ゆきの出演の注目の舞台である。とても静かな会話劇であった。
アメリカ・ウィスコンシン州ミルウォーキーが舞台であるが、アラム・トマシヤン(眞島秀和)とセタ・トマシヤン(岸井ゆきの)の夫婦はアルメニアからの亡命者である。
まず、久保酎吉扮する老人が、オスマントルコによるアルメニア人迫害の歴史を話す。トルコ人は隣人であるアルメニア人をあるいは砂漠に追いやって餓死させ、あるいはその場で殺害した。そのため、多くのアルメニア人が亡命を余儀なくされており、アラムとセタもそのうちの二人であった。
アラムとセタは、恋愛結婚でもなんでもなく、ミルウォーキーに着いたファーストシーンでアラムがセタに自分たちが夫婦になったことを告げる。しかも、それには手違いがあり、本来はアラムは別の女性を妻に選んだはずだったのだ。アラムが選んだ本来の花嫁は、病気のためすでに他界していた。
アラム・トマシヤンはカメラマンであり、新天地のアメリカでもカメラマンとして働くつもりでいた。一方のセタはファーストシーンではまだ15歳であり、人形を手にしている(岸井ゆきのは「まんぷく」で26歳にして16歳の役を演じたが、今回も少女を演じることになった)。
ミルウォーキーの家には、イーゼルの上に、アラン・トマシヤンの家族の写真が飾られている。しかし全員が顔の部分を切り取られていた。アランの家族のほとんどは殺害されており、アランはその喪失感を描くために顔の部分を切り取っていたのだ。アラムは父親の顔のところにアラム本人の顔を貼る。
アラムとセタのこれまでの人生が、老人によって語られる。アランは写真家にして政治家の息子であり、自身も父親の職業である写真家を継いでいた。セタは弁護士の父と教師の母の間に生まれている。
アラムとセタは、アルメニア人としての自己が抱えている喪失感を埋めるために子作りに励むようになるのだが、セタは不妊症であり、またセタはなかなかアラムを夫として受け入れることが出来ずに引きつった表情を浮かべることが多く、彼のことを「トマシヤンさん」と呼ぶ(これは岸井ゆきのが主演した映画「愛がなんだ」を連想させる)。セタが夫のことを「アラム」とファーストネームで呼ぶようになるのは、第1幕のラストまで待たねばならない。
第2幕では、タイトルである「月の獣」の意味が老人によって語られる。1893年、トルコで月食が観測される。当時のオスマントルコでは月食の原因が解明されておらず、「月の獣」が悪さしているのだとして、月に向かって砲撃が行われたそうである。今から見ると滑稽に見えるが、その2年後、オスマントルコは今度はアルメニア人に対する砲撃を開始する。それはジハード(聖戦)と呼ばれた。「月の獣」は、オスマントルコに襲撃されたもの達の例えである。
そして、ヴィンセントというイタリア系の孤児(升水柚希)が、トマシヤン家で食事をしている場面に移る。セタがヴィンセントを家に上げたのである。
イーゼルの上の写真には、奥さんの顔が現れている。セタである。
老人の正体は、老いた日のヴィンセントであり、ヴィンセントはトマシヤン家の養子となってアルメニアの誇りを受け継いでいくことになる。
アラムはアメリカの大企業とカメラマンとして契約することに成功し、アメリカ社会で生きていく道を切り開く。そして最後は失われたアルメニアの家族に代わり、アラム、セタ、ヴィンセントが肖像に収まることで、個々のトラウマと断絶されそうになった歴史を乗り越えていく。
岸井ゆきのはとても細やかな演技をする女優であり、表情も豊かである。今日は前から3列目の真ん中の席であったため、彼女の表情がよく見えてとても魅力的に映ったが、離れた席から見た場合でも彼女の魅力が伝わるのかどうかはわからない。舞台よりは映像向きの演技なのかも知れないが、一挙一動が雄弁であり、女優としての可能性が感じられる。
眞島秀和は、岸井ゆきのとは対照的にどっしりとした安定感と存在感を示す。アラムとセタの性格の対比を描く上でも有効な演技であった。
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