観劇感想精選(339) 「万作 萬斎 新春狂言2020」大阪 「月見座頭」&「首引」
2020年1月21日 大阪・西梅田のサンケイホールブリーゼにて観劇
午後7時から、大阪・西梅田のサンケイホールブリーゼで、「万作 萬斎 新春狂言2020」を観る。野村萬斎人気で女性客が圧倒的に多いが、他の会場よりも男性率が低い気もする。どういうことなのかはよくわからない。
新春公演ということで、舞台上方には七五三縄が下がっている。
演目は、残酷狂言として知られる「月見座頭」と、茂山千之丞の台本によってオペラ化もされている「首引」の二番。
まず新年ということで謡初 連吟「雪山」が謡われる。謡は、石田淡朗、岡聡史、野村萬斎、内藤連、飯田豪(客席から見た上手から下手への並び順)。
その後、野村萬斎によるレクチャートークが行われる。野村萬斎は、「明けましておめでとうございます、というには時間が経ってしまったような感じがしますが」と語り出し、「2020年ということで東京は『てえへんな』ことになっていますが、大阪は他人事のような感じなんでしょうか。まだこれから」ということで自身が開会式と閉会式の総合演出を手掛ける東京オリンピックについても少し触れる。
新年ということで、初謡を行ったのだが、「最初に一礼するのがなぜなのか子供の頃から不思議だった」「この間、『チコちゃんに叱られる!』で教わりました」と言って笑いを取る。年神に向かって一礼しているそうで、「皆さんに向かってお辞儀しているわけじゃないんです。歌舞伎の襲名披露なんかはお客さんに向かってお辞儀をしている感じですが」と語った。野村萬斎の家では、年が明けるとまず野村万作が初謡を行い、一門がそれぞれ謡を行っていく。それが終わると初舞が行われるそうである。
多様性の時代ということで、「地球自体が人間だけのものではない」「同じ人間でも、人種、言語、宗教、国籍など色々」「LGBTという言葉があったりします。障害者の方などもおられます。『月見座頭』では障害者が登場します」。そして狂言については、「ここらあたりに住まいする者でござる」という言葉で始まり、誰でもが「ここらあたりに住まいする者」になり得るということで、これも多様性だと位置づけたが、今日の演目には残念ながら「ここらあたりに住まいする者」と名乗る人物は出てこないと明かす。
座頭というのは盲人という意味である。放送では使えない「めくら」という言葉も使われている。その言葉が当たり前に使われていた時代の作品なので変えるわけにもいかない。「座頭が月見をするというのも変な感じがしますが、月を見るのではなく、虫の声を聴く」「狂言の禁欲的なところは、虫の声を一切音響で出さない。月も出さない」とイメージで進行する狂言の神髄についても大仰さを出さずに語っていた。この座頭、目は見えないが一人でしっかりと生きており、「虫の声が聞こえないと他の人に当たるクレーマーになったりする」とステレオタイプでない座頭の姿についても説明する。
「月見座頭」では、洛中に住む者が登場するのだが、洛中に住む者が洛外に住む座頭より偉そうに振る舞うため、「洛中と洛外でそんなに違うんでしょうか?」と東京人である野村萬斎は不思議がっていたが、京都はその辺はかなりエグい。萬斎は、「東京でも23区とそれ以外、山手線の内側と外側でちょっと違う。大阪でも環状線の内側と外側で違ったりするんでしょうか」という話をしていた。
二人が詠む和歌について、無料冊子に書かれた「秋風にたなびく雲の隙間よりもれいづる月の影のさやけき」を萬斎は読み上げるが、「これよりも易しい和歌が出てきます」と語る。「月見れば千々に物こそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど。大江千里。おおえせんりじゃありません。おおえのちさとと読みます。え? 作者、おおえせんりなのと思ってしまいそうですが、大体は同じなんですけど時代が違う」「今、お正月に百人一首をやったりするんでしょうか?」と萬斎は客席に聞くが返事はなし。「昔は、お正月には百人一首のカルタ取りとか坊主めくりとかやったんですが、今、百人一首というと、高校生がやる競技のあれしか思い浮かばない。子供達は(ゲームのコントローラーを持つ仕草をして)カチカチカチカチやってるだけ」ということで時代の移り変わりについても述べていた。
パリで「月見座頭」を上演した際は、「不条理劇」と評されたそうだが、そう思ってもいいし思わなくてもいい。それぞれが感想を持つことが多様性と締めていた。
「首引」には鎮西八郎為朝(源為朝)が登場する。狂言にその辺の人ではなく歴史上の人物が登場するのは珍しいのだが、「別に為朝でなくても良かった」「マッチョなイメージだから為朝になった」と語る。「首引」は、鬼が自分の愛娘に人間の食い初めをさせようとする話なのだが、「マッチョだと美味しそう。私のような鶏ガラは美味しそうじゃないが、マッチョだと霜降りで美味しそう」ということで、単純に見た目だけで為朝が選ばれたことを語る。「為朝は何か跨いでしまったんでしょう」ということで異界に入った為朝が鬼と出会う話を語り、古代では異国の人々が鬼と呼ばれたという史実も明かしていた。
ちなみに鬼と鬼の娘は面を被って登場するのだが、「話が進むにつれて為朝が鬼に見えてきて、鬼が人間に見えてくる」という話もしていた、その理由は実際に見れば分かる。
ちなみに娘鬼が嫌がっているのに「食え、食え」と命令する親鬼のことを野村萬斎は「モンスターペアレント」と形容していた。
最後に、為朝と鬼の娘が首に布を巻いて引き合う「首引」をする時に発する鬼の掛け声、「えーさらさ、えいさらさ」を萬斎と客席で掛け合うことにする。
野村萬斎「それでは、Repeat after meということで」掛け合いが行われ、更に1階席と2階席での掛け合いも行われる。まず萬斎が言い、1階席のお客さんが繰り返す。それをまた2階席のお客さんも履行するという形である。ちなみに狂言では低い音から突き上げるように発声するのだが、「芸大時代にソルフェージュの先生から『なんでいつも下から行くんだ?』と注意されていた」そうである。西洋と東洋の発声法は発想が真逆である。
「私がこう仕草で示しますので、一緒になってやって下さい」
「月見座頭」。旧暦(といっても当時の日本には新暦が存在しないため、普通の暦だったわけだが)8月15日。一人の座頭(野村万作)が月見のために現れる。杖をつき、杖の音を確認してから踏み出すという歩き方である。その姿は杖に導かれているようにも見える。立ち止まると「このあたりに住まいする座頭でござる」で名乗る。
目の見えるものは歌を歌ったり和歌を作ったりして月見を楽しむそうだが、座頭は虫の声を楽しみ、少し離れたところにいる客には「虫の声が聞こえないのでもう少し静かにして欲しい」と注文を出す。そこに上京の者(高野和憲)が現れる。座頭が月見をしているのを不審がって話しかけた上京の者。座頭は不調法で和歌など詠んだことがないというので、上京の者は、「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」と阿倍仲麻呂の歌を自作として歌い、座頭は「月見れば千々に物こそ悲しけれわが身一つの秋にはあらねど」と大江千里の歌を詠む。共に有名な和歌であり、風流のわかる者だと確認し合った二人は酒宴を始める。互いに謡い、舞う二人。酒が尽きたので別れることなり、互いに気分良くその場を後にするはずだったのだが……。
種明かしはしないが、客席で女性が「あ!」と悲鳴を上げるのが聞こえた。
最後は方角がわからなくなった座頭が杖を拾い上げ、川で杖を清めて、川の流れの沿う形で去って行く。人生そのものの劇であるともいえる。
「首引」。鎮西八郎為朝(野村太一郎)は、訳あって西国(九州)から上方に上ることになる。途中、播磨印南野(はりま・いなみの)まで来たところで、親鬼(野村萬斎)が「人間臭い!」と言ってやにわに姿を現し、笑いを誘う。姫鬼(中村修一)はまだ人間の食い初めをしたことがないため、親鬼は為朝で食い初めを行おうと決める。親鬼は為朝に「自分に食われるのと娘に食われるのとどちらが良い?」と聞き、為朝が「娘の方が」と言ったので、姫鬼を呼ぶ。姫鬼はピョンピョン跳びはねて登場し、やたらと可愛らしい。だがそこは強力為朝、簡単に食い初めをさせてはくれず、姫鬼はワーワー泣き叫び、親鬼は姫鬼をなだめて為朝を叱る。そうこうするうちに為朝が、「勝負に勝ったら食うというのが道理」と言い始め、腕押しやらすね押しやらで戦うが、いずれも姫鬼は投げ飛ばされてワンワン泣くことに。最後の勝負として首に布を巻いて引き合う首引を行うことになるのだが、やはり為朝相手では勝てそうにない、ということで親鬼は眷属(一族。演じるのは、内藤連、石田淡朗、飯田豪、岡聡史)の鬼を呼び、姫鬼に加勢させ、掛け声を出していっせいに引くのであったが……。
ヘラクレスのように超然としている為朝に対して、娘を猫かわいがりしている親鬼は「人間臭い」と言いながら出てきた割に本人の方がよっぽど人間臭く、野村萬斎がレクチャートークで語った逆転が起こっている。
大阪のお客さんのありがたいところは、予め「やって下さい」と言っておくと、ちゃんと一緒になって掛け声を行ってくれることである。びわ湖ホールでの公演ではお客さんが乗ってくれないこともある。
萬斎は、「えーさらさ、えいさらさ」の掛け声をアッチェレランドで行い、舞台上と客席との一体感を高めていた。
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