追悼・野村克也
名捕手、名監督として活躍した野村克也が死去。84歳。「名選手必ずしも名監督にあらず」とよくいわれるが、その言葉は野村には当てはまらない。
現在の京都府京丹後市生まれ。母子家庭で育った上に母親は病気がちで赤貧といってもいい家庭で生まれ育った。高校は峰山高校に進学。その地方では進学校であるが、そのため野球部は弱く、野村もプロから注目されることはなかった。経済事情から進学は無理であり、野村は母親を助けるためにプロ野球入りを志す。捕手陣が弱いとみた南海ホークスの入団テストを受験。評価はかなり微妙なものだったようだが、「カベ(ブルペン捕手のこと)が足りないから」という理由で合格。契約金は0で、全くといっていいほど期待されてはいなかった。入団後、初めてご馳走になったハヤシライスの味に感動。「世の中にはこんなに美味しいものがあるんだ。プロで成功すれば、こうしたものが毎日食べられる」ということで、真剣に野球に取り組む。捕手としては肩が弱いのが難点であり、遠投などで鍛えたが、晩年になると肩は衰える。そこで投手陣と共に今でいうクイックモーションとの連携を生み出すことで盗塁を阻止するなど現役時代から創造力に長けていた。打撃面も投手の癖や配球の読みなどを駆使して上昇。4年目にして初めて本塁打王のタイトルを獲ると、1963年には当時の日本記録となるシーズン52本塁打を記録。これは現在でも日本人選手2位の記録である。1964年には、最高打率(首位打者)、本塁打王、打点王を独占するいわゆる三冠王となる。史上初の三冠王となるはずだったが、記録の見直しが行われ、二期制だった戦前の中島治康の記録が通年で三冠王と見做されるようになり、二番目の三冠王となった。以後、野村は「二番目」に縁のある野球人生を送るようになる。
通算本塁打、通算安打数、通算打点、出場試合数はいずれも歴代2位。本塁打と打点の通算1位は王貞治、通算安打(NPBでの記録のみ)の1位は張本勲、最多出場記録保持者は谷繁元信である。「王がいなければ俺が1位だったのに」とぼやいたことは有名だが、ONを太陽のようなヒマワリ、自身を日本海側の月見草に例えた野村らしい渋さを感じさせる記録である。
南海のプレイングマネージャー時代には、阪神タイガースを事実上追放されて南海に移籍した江夏豊をリリーフ専門に転向させて結果を出す。それまでにもリリーフ専門のピッチャーはいたが、リリーフを確立させたのは野村と江夏とされている。南海球団と決裂した後は、ロッテ、西武と渡り歩いて45歳で現役を引退。野球解説者となる。解説者時代にはテレビ画面の隅に映し出されるストライクゾーン9分割の「ノムラスコープ」を用いての配球を予測する解説が話題となった。私が野村克也の存在を意識したのはこの解説者時代である。野村は予言者ではないし、そもそも一人の読み通りに配球が行われたら滅多打ちに遭うため、ノムラスコープは必ずしも成功したとはいえなかったが、ある意味、ID野球の到来を人々に感じさせたのがこの時代かも知れない。
1990年から、それまで長らく下位に甘んじてきたヤクルトスワローズの監督に就任。ファミリー球団と呼ばれ、若手が伸び伸びとプレーしていて魅力的ではあったがそのために弱かったスワローズに勝つ精神とID野球を叩き込む。ドラフト面では投手の補強を重視。
「一番打ちにくいのはとにかく球の速いピッチャーだ」ということで先発候補の本格派投手を中心に獲得。奪三振マシーン、石井一久らがドラフト1位で入団している。外国人投手も速球派を揃えた。抑え投手としては右サイドハンドの高津臣吾にシンカーの習得を命じて球界最高の守護神に育て上げる。スワローズは選手層が薄いため、他チームを解雇になった選手も積極的に獲得し、エース級・主力級へと再起させたため、「野村再生工場」という言葉が生まれた。
正捕手にはいわずと知れた古田敦也。ID野球の申し子である。古田は野村以来となる捕手としての首位打者を獲得している。それまで捕手をしていた飯田哲也を最初セカンドへ、その後センターへコンバートし(飯田哲也の応援歌の歌詞は「キャッチャー、センター、セカンドどこでも守れる 足ならだれにも負けない韋駄天飯田」というものである)切り込み隊長とした。更に池山隆寛、広沢克己という和製大砲2門を備えた打線は90年代最強といっても過言ではなかった。
一方で、長嶋茂雄を監督に頂くジャイアンツを度々挑発。「伝統の一戦」巨人対阪神戦に対抗する形で、「因縁の対決」ヤクルト対巨人戦を演出し、セ・リーグを盛り上げる。
1991年に3位でAクラスに入ると、翌92年には14年ぶりとなるリーグ優勝を達成。日本シリーズでは西武ライオンズとプロ野球史上に残る死闘を演じるも日本一はならず。エースの岡林洋一の酷使が話題となった。
92年のドラフトで、スワローズは松井秀喜を指名する予定であったが、スカウトが強く押す伊藤智仁の指名を野村が支持し、直前での指名切り替えとなる。競合の末獲得した伊藤智仁は翌93年に高速スライダーを武器に旋風を巻き起こす。
だが、岡林にしろ伊藤智仁にしろ酷使が指摘されており、投手分業を確立させた野村ではあったが、勝利の味には弱かったようである。
スワローズの監督として優勝4度。日本一には3度輝き、日本一回数をセ・リーグに2位に押し上げるという、野村らしい仕事を成し遂げた。
その後、阪神タイガーズの監督に招かれるが、ドラフトに野村の意向が反映されなかったということもあって成績は残せぬまま、夫人の不祥事で退任することになる。レギュラーに決定しているのは新庄剛志だけという層の薄いチームであったが、野村は後に「ミーティングでヤクルトの選手は話を良く話を聞いてくれた。楽天の選手もまあ聞いてくれたが、阪神の選手は話を聞こうとしない。しきりに時計を気にしているが、この後、タニマチとの約束でもあるのか」と述懐しており、チーム体質に問題があったようである。後任には「怖い人がいい」ということで星野仙一を推した。野村の推挙はその後、実を結ぶこととなる。
社会人野球のシダックスの監督として武田勝(のち北海道日本ハムファイターズ)らを育てた後で東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任。「神の子」と呼ぶことになる田中将大を育てた。
南海時代の背番号は19であるが、監督時代も足して10になる番号を好んでつけている。
最近では、1ヶ月に1冊というハイペースで著書を出す生活が続いた。昨年はヤクルトスワローズのOB戦に監督として出場。教え子達に支えられながら打席にも立つ。高齢のためバットを本気で振ることは不可能で、対戦を終えずに相手チームの若松勉監督による申告敬遠ということでベンチへと引っ込んだが、これが生涯最後の打席となった。
昼食は、予定を変更して、京都芸術センター内にある前田珈琲明倫店で赤味噌ハヤシライスを注文。野村監督のことを思いながら食べた。
野村克也とハヤシライスの話は、結構有名なものだと思っていたが、Googleで検索しても余りヒットせず、今となってはレアなエピソードであったことを知る。その後、野球記者などが野村克也追悼としてハヤシライスの話などを挙げていた。
| 固定リンク | 0
« コンサートの記(625) 山田和樹指揮 非破壊検査 Presents 読売日本交響楽団第25回大阪定期演奏会 | トップページ | これまでに観た映画より(153) 「CATS キャッツ」(字幕版) »
コメント