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2020年3月27日 (金)

これまでに観た映画より(163)「わたしは分断を許さない」

2020年3月23日 京都シネマにて

京都シネマでドキュメンタリー映画「わたしは分断を許さない」を観る。元NHKの堀潤が監督・脚本・編集・ナレーションを務めた作品である。

全世界を覆うようになった分断の影。互い互いを憎み合ったまま相容れない断絶がどこまでも深く足元を流れている。

堀潤が取材を続けていた福島に加え、「時代革命」の嵐が吹き荒れる香港、日本と緊張関係が続く北朝鮮、辺野古問題で揺れ続ける沖縄、内戦の続くシリア、パレスチナ問題の中心地であるガザ地区などの現状がカメラに捉えられる。

 

まずは香港である。1997年の香港の中国返還から50年続くことが保証された一国二制度(一国両制)しかし、返還から20年が過ぎ、香港の自由と民主制度が脅かされているとして若者が立ち上がる。だがそれを取り締まる警察もまた香港人である。
この映画には出てこないが、NHKのドキュメンタリーによると、実は中国による支配を容認する人も実は4割に上るのだそうで、特に高齢の人達は現状に満足しており、若者達に注ぐ視線は冷たいようである。世代間での断絶だ。
街中で若者と警察とが取っ組み合いを行い、ついには警官が発砲。しかし、それを遠くから見ているだけの市民も多いことがさりげなく示されている。静観したい人や政治に興味がない人も当然ながら存在するはずである。

福島。東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故から8年が経った2019年3月11日。福島県郡山市に復興住宅に暮らす元美容師の元富岡町在住の女性は、震災の日からハサミを握っていない。東京電力から賠償金が支払われたのだが、それが元で近所の居酒屋の亭主やタクシーの運転手から、「あんたらは賠償金貰えていいね」などと毒づかれるようになる。女性も70歳を過ぎ、賠償金よりも何よりも元の暮らしに戻りたいと考えているのだが、金銭という別の問題により、周囲から引き裂かれているような現状がある。

東京出入国在留管理局。日本における難民認定が困難であることが知られているが、認定率はわずか1%ほど。諸外国でも難民の審査は厳しいが、日本は文字通り桁違いである。詳しいことはわからないとしながらも、追われてきた国が日本と友好関係だったりすると、厳しさはより増すようでもある。

沖縄。福島第一原子力発電所の事故の影響を避けるため、子どもと共に茨城県水戸市から沖縄に移住した女性。夫は離婚しているのだが、彼女の沖縄への移住という思い切った行動に、「きちがい女」などとレッテルを貼り、もう茨城県には戻りたくても戻れない状態であるという。
そんな彼女が現在取り組んでいるのが、辺野古への米軍基地移転の問題。実は辺野古に基地が移転して得をするのはアメリカだけだということが、故大田昌秀沖縄県知事の証言によって語られる。

北朝鮮。日本とは国交がなく、今もなお、金一族による王朝のようが体制が敷かれている。
実は10年前からであるが、日本と北朝鮮との学生同士による「日朝大学交流会」が行われている。平壌外国語大学で日本語を学ぶ北朝鮮の若者と日本からやって来た学生達。最初の内は緊張しているが、話が乗り始めると互いに笑顔を見せ合う。

カンボジア。ポル・ポトの独裁と圧政により、国が再建されるのに200年かかるともいわれたカンボジアであるが、そこに中国が進出してくる。カンボジア人で中国の資本進出を喜ばしく思っている人はほとんどいないそうだが、政府は中国にべったりである。中華系市民の発言力や存在感が高まっており、カンボジア人との間の溝は深まるばかりである。

こうした分断であるが、監督の堀は、「主語が大きすぎる」としてより小さな主語、そして一人一人に焦点を当てていく。

個と個の溝であっても、それは深く広い。それぞれに立場が違い、それを譲ることもない。
反核運動によりノーベル平和賞を受賞したヒーローであるバラク・フセイン・オバマ米大統領もパレスチナと対立するイスラエル軍のための資金援助は惜しむことがない。

だがそれぞれが完全にわかり合えないかというと、そう断言も出来ない。異国の人々のために惜しみない援助や救済を行ってくれる人存在する。だが、そうした小さな物語は、声高に叫ばれる声にかき消されてしまう。

その声は誰の声なのだろう。発している当人は、あるいは心からの声だと思っているかも知れない。しかし実はそれはその背後にある大きな物語から抽出されたものでしかない可能性がある。余りにも既視感に満ちている。そしてわかりやすい価値観に基づいているがための危うさが如実に感じられる。ともかく大きな声は誰かの声に乗っかったものである。逆に個々人の声が大きなものになる可能性は実際のところかなり低い。

結局、一人一人と向き合うしかない。それは一大勢力にはなりにくいし、おそらくひどく時間がかかる。大きな物語に乗っていないが故にわかりにくいのだ。だがそれは他の誰かではないオリジナルの声を生み出し、探り当てることの出来る行為である。

元朝日新聞社会部記者の故・むのたけじは、戦中の朝日新聞社の態度について語っている。むのは朝日新聞が戦争に協力したことを恥じ、終戦の日に退社している。
むのによると、大本営発表に加担した朝日新聞は、政府に逆らうと社員の生活が脅かされるとして、検閲の前の事前に3回ほど推敲を重ね、絶対に引っかからない文章にしていたという。憲兵や特高の影を普通は感じるところなのだが、実際はそうではなく、存在するかどうかもわからない影に勝手に及び腰になってしまっていたのだそうだ。

敢えて大きな主語を用いるが、実は、我々は今も、存在しない「何か」や「誰か」に自主的に操られてしまっているのではないか。


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