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2020年3月28日 (土)

配信公演 井上道義指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第536回定期演奏会(文字のみ)

2020年3月19日

今日は大阪フィルハーモニー交響楽団のネット配信がある。本来なら、昨日今日と井上道義指揮による第536回定期演奏会が通常の演奏会として行われるはずだったのだが、新型コロナウィルスの影響により無観客での上演、配信サイト「カーテンコール」での中継となった。残念ながら、音が飛んだり場面も飛んだり、1曲目のハイドンに至っては冒頭の音が出ないなど、技術的な問題はある(アーカイブでは改善されている)。

無観客演奏会自体は午後7時からなのだが、大阪フィルが定期演奏会の前に行っているプレトークサロンもやりたいというので、午後6時30分からの配信となる。配信が始まって10分ほど経ってから、大阪フィルハーモニー交響楽団事務局次長で、プレトークサロンの司会も務めている福山修氏が登場。お客さんが周りにいるいつものプレトークでの語りを演じ始める(言葉は「ご来場下さりまして」ではなく「ご視聴下さりまして」に変えている)。聴衆は背の高い禿頭の男性が一人だけ。井上道義である。
井上道義が、「すみません、客ですけど、ストラヴィンスキーって誰ですか? チャイコフスキーとかいるじゃないですか、どう違うんですか?」と福山さんのトークに割って入ったところで、福山さんが、「あ、目の前に井上道義マエストロがいらっしゃるので直接ご解説を」
そして井上道義が、「とてもやらせが酷いと思いますけれど」と言って、今日のプログラム解説などを行う。ちなみに今日の演目は、ハイドンの交響曲第2番、モーツァルトの交響曲第5番、ストラヴィンスキーのヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン独奏:アイレン・プリッチン)、ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」。最初の2曲は若書きが並び、井上らしい選曲である。ちなみにモーツァルトの交響曲第5番は彼が9歳の時の曲。ハイドンの交響曲第2番は25歳前後に作曲されたものだという。

ストラヴィンスキーのヴァイオリン協奏曲の独奏を務めるアイレン・プリッチン。井上は「プーチンじゃないですよ」と断りを入れた上で、「(見た目が)ロシア人らしくないでしょ。実はハーフ。ベトナムとロシアの。実は私もハーフで(井上は日米のハーフである。実父とされる井上正義は育ての親で、生みの親はガーディナーさんというアメリカ人だそうである)」
そして、「春の祭典」初演時のスキャンダルにも触れ、「(「春の祭典」は)全くひねくれた、僕みたいな」と言って、福山さんも困っていた。


今日のコンサートマスターは、元NHK交響楽団コンサートマスターの山口裕之が客演で入る。フォアシュピーラーは須山暢大。


ハイドンの交響曲第2番とモーツァルトの第5番は、チェロ以外オールスタンディングで演奏を行うという井上らしい外連が見られる。
共に初期の交響曲なので、後に築かれたような個性が発揮された作品というわけではない。ハイドンの交響曲第2番からは、バッハを始めとするドイツのバロック時代の音楽の影響が聴かれるし、モーツァルトの交響曲第5番は、作曲活動を開始してからまだ4年か5年の作品ということで習作である。ただ、その9歳のモーツァルトの第2楽章の哀感には打たれる。人生の悲哀などまだ全くといっていいほど知らない年齢で書かれた音楽であるが、神童以外のなにものでもない完成度に到達している。感情でなく、それまでに書かれた多くの先人の作品を勉強して書かれたものだと思われるが、人間業とは思えない。ただ、幼い頃にこんな曲を書いてしまったというところに、その後の悲劇的な人生が予見されたりもする。


作風を様々に変えたため「カメレオン作曲家」とも呼ばれたストラヴィンスキー。ヴァイオリン協奏曲は、ありとあらゆる音楽の要素を詰め込んだおもちゃ箱のような音楽である。昔、千葉にいた頃に、ストラヴィンスキーが子どものために書いたピアノ曲「五本の指で」というマジックのような小品集をよく弾いたが、それに似た楽しさに溢れている。
ソリストのアイレン・プリッチンも腕利きであり、まだ若いがストラヴィンスキーの音楽をよく把握した演奏を行う。

アイレン・プリッチンは、サンクトペテルブルク生まれ。モスクワ音楽院に学び、2014年にロン=ティボー国際コンクール・ヴァイオリン部門で優勝している。

休憩時間には、ステージ上でプリッチンへのインタビューが行われる。日本で演奏するのは15年ぶりだそうで、15年前はまだ子どもだったため、今また日本で演奏出来るのが嬉しく、またホールがとても素晴らしいのも嬉しいと述べたが、「お客さんがいないのは残念です」とも語った。


休憩時間に井上はカメラを楽屋に招き入れる。広くて快適そうな楽屋であり、堂島川と土佐堀川に挟まれた中之島にあるだけあって、窓からは川が見え、川の上に高速が走っているという、叙情的にして未来的な独特の風景が広がっている(立地に関していうならフェスティバルホールは日本で最高であろう)。
楽屋の壁には3人の指揮者の写真が飾られている。上段左がカール・ベーム、右がヘルベルト・フォン・カラヤン、下段にいるのが朝比奈隆である。ちなみに朝比奈とカラヤンは1908年生まれの同い年である。

フェルティバルホールに対するカラヤンからの賛辞が英語で綴られているが、実はカラヤンは(旧)フェルティバルホールの内装を気に入り、「これと同じものを建てろ」と命じて出来上がったのがザルツブルク祝祭(大)劇場である。
井上は、カラヤンのリハーサルをカーテンにくるまって隠れるなどしてよく聴いていたそうだが、以前にもインタビューで「男の俺でもクラクラするくらい色気がある」と語っていた。今日も「この中で練習が上手かった」と褒めていた。ちなみに井上はセルジュ・チェリビダッケの弟子であるが、チェリビダッケとカラヤンは「天敵」ともいうべき間柄であった。
楽屋の外の通路の壁にはフェスティバルホールで演奏したアーティストの写真がびっしりと並んでいる。グスターボ・ドゥダメルの写真を指して、「「彼はウィーン・フィルを指揮しています。(ベネズエラの指揮者がウィーン・フィルを振るなんて)昔は考えられなかった。世の中どんどん変わってます」
ちなみに、パーヴォ・ヤルヴィがフランクフルト放送交響楽団を指揮して行った演奏会の写真も貼られていたが(フェスティバルホールの3階ホワイエに同じ写真が貼られている)「N響は今、パーヴォ・ヤルヴィって人が指揮をしてます。ちょっと僕に似てない? この辺が(頭を撫でる)」

更に、「大阪には私立なんですけれど芸大というのがあります。大きな芸術大学(大阪芸術大学)があるんです。そこで今年から先生になった」カズ・オオモリに「春の祭典」を聴きながらのライブペインティングを行って貰うことを説明する。


ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」。冒頭のファゴットが始まったと思ったら演奏が飛ぶなど、配信の状態は良くないが、演奏自体は完成度が高い。
私がクラシック音楽を本格的に聴き始めた中学生の頃は、「春の祭典」といえば現代音楽のチャンピオン的存在であったが、昔から今日に至るまでの録音の数々や最近のコンサートでの演奏を聴くと、「春の祭典」もこなれてきたというか、真の意味での古典になりつつあることを強く感じる。ロック音楽に影響を与えたといわれる豪快さや鮮烈さが、以前は「春の祭典」の売りであり、聴き所でもあったのだが、今日の井上と大フィルの演奏を聴いても、ポップというかメロウというか心地よさのようなものを強く感じる。古代ロシアのバーバリズムを主題としたバレエのための音楽であり、20世紀の音楽史で最大のスキャンダルともいわれた初演の出来事は、今からでは想像しようとしても難しい。少なくともリアルには感じられないのは間違いない。こうして音楽の歴史は進んでいくのだろう。
大フィルは金管が安定に欠ける場面があったが、独特の骨太の音に俊敏さも加わって、聴いていて「気持ちの良い」ハルサイに仕上げる。
とはいえ、永遠のいたずら小僧である井上。鋭さも随所で発揮し、ラストは管と打楽器を引き離すという力技で衝撃を演出していた。


カズ・オオモリのライブペインティングは奔馬を題材にしたものである。井上は「ニュージーランドで5年仕事をしていた時(ニュージーランド交響楽団の首席客演指揮者であった)」の馬の絵にまつわる話などを行っていた。

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