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2020年3月14日 (土)

これまでに観た映画より(159) 「さよならテレビ」

2020年3月12日 京都シネマにて

京都シネマで、ドキュメンタリー映画「さよならテレビ」を観る。名古屋にある東海テレビの開局60周年記念ドキュメンタリー番組「さよならテレビ」に映像を追加した上で映画としたものである。テレビ番組「さよならテレビ」は、愛知、岐阜、三重の東海三県のみで放送されたものであるが、放送後すぐに話題となり、番組を録画したDVDが出回ったそうである。

プロデューサー:阿武野勝彦、監督:圡方宏史、編集:高見順、音楽:和田貴史、撮影:中根芳樹。

かつてはメディアの王様であったテレビ。テレビマンのステータスも高く、就職先としても人気であったが、近年、存在感が低下。テレビを持っていないという若者も少なくない。信頼度も著しく低下しており、「マスゴミ」などと軽蔑されることすら少なくない。

とにかくテレビ局の報道部を撮影しようと、東海テレビの圡方らが自局の報道部にカメラを向け、マイクを仕込んだのが2016年の11月。だが、「仕事に集中出来ない」「意図が分からない」「そんなフワッとした理由でやるなよ」「やめろよ! 撮るなよ!」と苦情が出て、いきなりの取材拒否。テレビ局自体はなにげなく人にカメラを向けることはあるのだが、自らのこととなるとそれを拒否する。その後、3つほど条件を付けた上で取材は続行される。
東海地区において東海テレビの視聴率は苦戦中。夕方の報道番組では4位に甘んじている。民放の宿命としてなんとか視聴率を上げなければならないのだが、上手いプランは見つからない。この視聴率至上主義がテレビのメディアとしての信頼を欠く一因にもなっている。

東海テレビの看板である夕方の報道番組のメインキャスターに抜擢されたのが、入社16年目の福島智之アナウンサー。東海テレビは福島アナを前面に押し出した広告も打つ。
実は東日本大震災後の「ぴーかんテレビ」という番組で岩手産米視聴者プレゼントが行われた際、「怪しいお米セシウムさん」などという差別的なフリップが映るという歴史的な放送事故が起こったのだが、その時にキャスターを務めていたのが福島である。福島は「あってはならないことが起こってしまいました」として即座に謝罪したが、「ぴーかんテレビ」は即時打ち切りになり、福島も再度謝罪を行っている。その時のことがトラウマになっているのか、自身も参加した祭りを紹介する際も「手前味噌になるんじゃないか」と弱気を隠すことが出来ない。

さて、放送局にも三六協定を守るよう要請が来る。長時間労働で有名なテレビ局。チームワークでもあり、そう簡単に休みは取れない。ただ注目を浴びる業界でもあるので守らないわけにもいかない。人がいるということで、いい人がいたら契約社員や派遣社員として取ってもいいという案が上から部局長を通して下る。制作会社に勤務する24歳の若手記者、渡邊雅之が派遣社員として採用されるのだが、レポートは不器用、原稿の振り仮名を振り間違えるなど、失敗も多い。1年の契約であり余程の成果を上げないと契約は更新されないのだが、その後も、取材対象との手違いがあるなど、ミスが重なる。

ミスが許されない環境の中で視聴率を争い、数字の取れるセンセーショナルなものを追い続けるという矛盾した状況がテレビ局にはある。センセーショナルであればミスも多くなる。関西テレビの「あるある大辞典」事件が挙げられる場面もある。視聴率を稼ぐために捏造が繰り返された事件だ。関西テレビは放送免許を剥奪されるに至った。

東海テレビのベテラン記者、澤村慎一郎も契約社員である。1年更新であり、「いらない」と言われたらそこで終わってしまうという立場である。澤村は経済系の新聞記者を経て雑誌の編集長となるも上と揉めて退社。滋賀県に地方紙がないことに目を付けて新聞を立ち上げるも半年で倒産。東海テレビの記者となっている。
澤村は共謀罪を濫用した事件に継続した取材を行う。マンションに建設に反対していた男性が共謀罪で逮捕されたという事件である。澤村はメディアの持つ権力の監視役としての立場を重視するのだが、局内に賛同者はほとんどいないようである。

東海テレビの報道部長が「報道の使命」として掲げる項目は3つ。「1,事件・事故・政治・災害を知らせる。2,困っている人(弱者)を助ける。3,権力を監視する」である。

ただ弱者を助けるというからには強者であらねばならず、これが民衆の反発を買うことになっているようにも思える。実際にテレビ局員は高給取りであり、庶民とはかけ離れた存在である。
一方、契約社員や派遣社員が多く、テレビ自身は批判している体制をテレビ局が取っているという矛盾をここでも抱えることになる。

本来は時間を掛けて追求してから伝えるべき内容も、即時性が求められるテレビではすぐに出さなければならない。そのため過ちも多く、テレビは徐々に信頼を失っていったともいえる。

視聴率をより高めるために、夕方のニュースのキャスターを福島アナから高井アナに変えることが決定する。今はテレビは高齢者しか見ない。そこでより年齢の高い高井アナをキャスターに据えることが決まったのだ。福島アナは辞めることが決まってから独自の企画を持ち込むなど生き生きするようになる。責任が軽くなったからだろうか。しかし、そんな中、画像処理が未完成のままの映像がニュースで流れてしまうという事件が起こり、福島アナは再びネットで叩かれることになる。

即時性と正確性が同時に求められるという、極めて高いハードルをクリアしなければならないテレビはマスメディアであるために失敗したときの影響も大きい。そんな中で視聴率至上主義は民放であるが故に否定することは出来ない。本来ならテレビ局員はジャーナリストの集合体であるべきなのだが、現状では数字の取れるトリッキーなことを求めている。ジャーナリストとしてテレビ局に入っても契約社員。一方、テレビ局員として数字の取れる企画が出せれば高給取り。面白さはともかく知が保たれる保証はない。

だが、それもまた、テレビ的に切り取られた物語でしかない。より良い絵を撮るために編集が行われ話が作られ、答えが与えられる。リアルではあるがそれも所詮「テレビ的なリアル」でしかないということ。これがテレビの闇であり限界であるともいえる。

 

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