これまでに観た映画より(172) 「Ryuichi Sakamoto:CODA」
dTV配信で、ドキュメンタリー映画「Ryuichi Sakamoto:CODA」を観る。震災後に癌の宣告を受けた坂本龍一の姿に迫るドキュメンタリーである。監督:スティーヴン・ノムラ・シズル。
宮城県にある農業高校。津波が押し寄せ、周囲には瓦礫以外なにもないという高校の体育館に津波を受けたピアノがあるというので坂本龍一は弾きに出掛ける。調弦は狂い、坂本は「ピアノの死体」を弾いているようだと述べる。
福島の原発近くでは放射能が異常値を示す。首相官邸前では原子力発電所の再稼働反対のデモが繰り広げられ、坂本も「原発反対、再稼働反対」のスピーチを行う。
そして、津波によって街ごと流されてしまった陸前高田市の第一中学校では、「戦場のメリークリスマス」をトリオで奏でる。
癌を患うとは全く予想していなかったという坂本龍一であるが、宣告を受け、治療のためにアルバムの制作を中断せざるを得なくなる。そして仕事を再開する時に、それまで作っていた楽曲を封印して一から新しい楽曲を制作することにする。アンドレイ・タルコフスキーの映画「惑星ソラリス」では、J・S・バッハが作曲したオルガンによるコラールが流れているのだが、自分が音楽を担当したい映画なのに、バッハの音楽がもう付いてしまっているのが悔しいということで、自分がタルコフスキーの架空の映画に音楽を付けるとしたらという仮定で音楽制作が行われる。これは後に「async」というアルバムとなり、少人数の聴衆の前で実演が行われ、このコンサートの様子はフィルムに収められて映画館で上映されていて、私もMOVIX京都で観ている。あるいは、「CODA」と「async」は2つ観ることで完結するものなのかも知れない。
坂本の過去の映像も度々登場する。まずYMO散会直後の1984年の映像。若き坂本が「東京は芸術的にも文化的にも世界最先端」と述べているが、その言葉が全く違和感なく受け取られるような時代であった。この頃の日本の未来は明るく見えていた。
その後、坂本が手掛けた映画音楽の数々が紹介される。初めて手掛けた映画音楽で画ある「戦場のメリークリスマス」、俳優としてのオファーが先だった「ラスト・エンペラー」、そしてレコーディング直前に、もうオーケストラ(イギリスのロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団が演奏を担当している)のメンバーが揃って坂本が指揮しようとしていたその瞬間に、ベルナルド・ベルトリッチ監督から、「書き直して」と言われた「シェルタリング・スカイ」などの思い出が語られる。映画「シェルタリング・スカイ」のラストシーンには原作者である小説家のポール・ボウルズが登場し、「シェルタリング・スカイ」の中に書かれた文章がボウルズ自身によって朗読される。人生の儚さに関する内容だ。
坂本龍一も癌を患い、「いつ死んでもおかしくない」と悟るようになっている。「20年後か10年後か、あるいはもっと早く」ということで、人生がCODA(終結部)に入ったことを実感している。坂本は、この頃に、自身の最初期の作品をCDで発表するなど、いつ死んでもいいよう、自分の作品の何を残すかという総括も行うようになる。
坂本が環境問題に取り組むようになったのは、1992年頃からそうだが、具体的に何がというわけでもないのだが「今のままではまずい」と感じるようになったそうである。音楽家を「炭鉱のカナリア」になぞらえ、とにかく感じたということである。
2001年9月11日、アメリカで同時多発テロが発生。ニューヨークにいた坂本はワールドトレードセンターのツインビルが崩壊する様を目撃する。その後、1週間、ニューヨークは無音の街になったそうで、ある日、若者がビートルズの「イエスタデイ」を弾き語りしているのを聴いて初めて「1週間音楽を何も聴いていなかった」と気づき、「平和でなければ音楽はやれない」と実感する。
その後、分断の時代が訪れたことを実感した坂本は人類発祥の地であるアフリカに向かう。アフリカ大陸は広いが、そこの音楽は単一のリズムしか持たないそうで、「エクソダス」といわれるアフリカからの旅立ちを行った30組ほどの家族もまた同じようなリズムと音楽しか持っていなかったはずだが、それが次第に発展――といっていいのだと思うが――していくうちに、多様性と同時に引き離される感覚も発生したと思われる。坂本は人類はアフリカで生まれたのだから、「僕らは全員アフリカ人」だとも語る。
更に北極圏に向かった坂本は、産業革命発生以前に積もった氷から流れ出るせせらぎの音に感動する。
坂本は作曲する時に、ピアノの音を思い浮かべて作曲するそうであるが、ピアノという楽器も産業革命の時代に生まれている。木材を鋳型に無理矢理押し込んで曲げて、という過程がピアノ製作にはあるわけだが、自然の木材を人力で抑え込むという過程は、まさに産業革命以降の人間と自然の対立の縮図そのものである。坂本自身はそう語ってはいないが、震災というものも、思い上がった人間への自然からの警鐘でもあるわけで、被災ピアノを弾いた際、「ピアノの死体」といいながらも、人間の力から解放された「自然が調弦した」ピアノを弾いたような心地よさを感じたことを坂本は述べている。
「CODA」は坂本自身の人生のCODAという意味でもあるのだが、更に敷衍させれば人類や地球までもがCODAに入ってしまったのではないかという危機感に繋がっているようでもある。坂本本人の発言を追うと、そう考えているのだと思えてならない。
「惑星ソラリス」で使用されたバッハのオルガンのためのコラールをピアノで弾き、終盤ではバッハの平均律クラーヴィア第1巻よりプレリュードを演奏する坂本。高校生時代に「自分はドビュッシーの生まれ変わりだ」と本気で思っていたという坂本であるが、やはり「音楽の父」としてのバッハを心から尊敬しているのだと思われる。そして「音楽で森羅万象を描いた」といわれるバッハに対する畏敬の念と共感が、そのまま自然に対する思いに繋がっているようでもある。一見するとかけ離れているように見える彼の音楽性と社会活動の根源が、実は同一であることが垣間見える映画でもある。
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