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2020年6月の30件の記事

2020年6月30日 (火)

美術回廊(49) 京都国立近代美術館 「チェコ・デザイン 100年の旅」&日本・ポーランド国交樹立100周年記念「ポーランドの映画ポスター」

2020年6月25日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

左京区岡崎にある京都国立近代美術館で、「チェコ・デザイン 100年の旅」と日本・ポーランド国交樹立100周年記念「ポーランドの映画ポスター」展を観る。
いずれも5月10日に最終日を迎えるはずの展覧会だったのだが、コロナ禍による臨時閉館期間があったため、再開後、7月までに展示期間が延びている。

チェコは、音楽(ドヴォルザークやスメタナ)、文学(カフカやカレル・チャペック)といった芸術が知られるが、チェコのデザインに触れる機会は余りないので、興味深い展覧会である。

チェコのデザインに触れるのは初めてではなく、以前にチェコ製のテントウムシのマグネットを買ったことがあり、今も冷蔵庫に止まっている。

チェコ出身のデザインアーティストというと、アルフォンス・ミュシャがまず頭に浮かぶが、ミュシャの「Q」をモチーフにした作品も勿論展示されている。19世紀末から20世紀初頭には、チェコでもアールヌーボーなどの影響を受けた美術が流行ったが、椅子などは実用性を度外視してデザインを優先させたために使い勝手が悪いものも多かったようである。

その後、チェコでは「結晶」を理想とした直線美によるパターンを重ねたデザインが流行する。考えてみれば、「自然は直線を嫌う」(ウィリアム・ケント)といわれているものの、肉眼では見えない結晶は例外的に直線で形作られている。顕微鏡の発達によってもたらされた、ある意味ではこれまでの常識を覆す自然美の発見であったともいえる。

家具や食器はアールヌーボーの反動で、シンプルで実用的なものが好まれる時代になるが、ガラス細工が盛んな地域をドイツに占領されてしまったため、木材などを中心とした新たなデザインを生み出す必要性に迫られるようにもなる。これはそれまで軽視されてきた木材の長所の再発見にも繋がったようだ。

共産圏となったチェコスロバキアでは、国外に向けてのチェコやスロバキア美術プロパガンダのための高級感のあるデザイン品が輸出される一方で、国内向けには貧相なものしか作られないという乖離の時代を迎える。チェコ動乱の前はそれでもピンクやオレンジといった色を用いたポップなデザインのポスターなども制作されたが、それ以降は実用的ではあるが味気ないいわゆる共産圏的なデザインも増えてしまったようだ。チェコのデザインが復活するにはビロード革命を待つ必要があったようである。

アニメーションの展示もあり、短編アニメが何本か上映されている。言葉がわからなくても内容が把握可能なものだったが、東欧のアニメとしてどの程度の水準に入るものなのか一見しただけではわからない。

チェコの木製おもちゃの展示もある。テントウムシのマグネットにも通じる可愛らしくてぬくもりが感じられるもので、子どものみならずインテリアとしても喜ばれそうである。

 

「ポーランドの映画ポスター」。映画好きにはよく知られていると思われるが、ポーランド映画は完成度が高く、海外からの評価も上々で、「芸術大国ポーランド」の一翼を担っている。
今回は、映画そのものではなく映画ポスターの展示であるが、ポーランドでは海外の映画のポスターをそのまま用いるということが禁止されていたため、ポーランド人のデザイナーが一から新しいポスターを製作することになった。
日本映画のポスター展示コーナーもあり、ゴジラシリーズなどはわかりやすいが、「七人の侍」などは日本の侍というよりもギリシャの兵士のような不思議な装束が描かれていたりもする。

市川崑監督の「ビルマの竪琴」(1985年の中井貴一主演版)のポスターには、二つの顔を持ったオウム(というよりも顔を素早く横に降り続けている描写だと思われる)が描かれ、右側に「日本にかえろう」、左側に「かえれない」という文字が日本語で書かれている。一般的なポーランド人が日本語を読めるとは思えないが――一般的な日本人がポーランド語の読み書きが出来ないように――日本趣味を出すために敢えて日本語をそのまま用いているのかも知れない。

ハリウッド映画では、アルフレッド・ヒッチコック監督の「めまい」、レナード・バーンスタイン作曲のミュージカル映画「ウエストサイド物語」、ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードの「明日に向かって撃て!」などのポスターがある。日本ではハリウッドオリジナルのポスターも見ることが出来るが、それらとはかなり違ったテイストのポスターとなっている。

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2020年6月29日 (月)

コンサートの記(643) 大植英次指揮大阪フィルハーモニー交響楽団第539回定期演奏会

2020年6月27日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後3時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第539回定期演奏会を聴く。指揮は大阪フィルハーモニー交響楽団桂冠指揮者の大植英次。大植英次はドイツ在住であるため、新型コロナウイルス対策として日本に入ってから2週間の隔離生活を行う必要があったが、それを乗り切って指揮台に立つことになった。他のオーケストラだっらそんな面倒なことに耐えてまで指揮したいとは思えなかったかも知れないが、それが大植にとっての大フィル愛なのだろう。

約4ヶ月ぶりのフェスティバルホール。大阪市内で「過ごす」といっても良いほど長時間滞在するのも約4ヶ月ぶりである。

曲目に変更がある。当初はリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」、レナード・バーンスタインの「ウエスト・サイド物語」よりシンフォニック・ダンスと組曲「キャンディード」が演奏される予定であった。特に「ウエスト・サイド物語」よりシンフォニック・ダンスは、1990年に行われたレナード・バーンスタイン指揮ロンドン交響楽団の来日演奏会東京公演で、当初はバーンスタインの自作自演となるはずが、当日になってこの曲だけを当時無名だった大植が指揮することがアナウンスされ、演奏は成功したのに、バーンスタインの自作自演を期待していた聴衆から叩かれまくったという因縁の曲であり、聴くのが楽しみであったのだが、やはり当初の曲目だとオーケストラプレーヤー間のディスタンスが十分に確保出来ないということで、ベートーヴェンの交響曲第4番と第5番が休憩なしで演奏されることになった。2曲共に今の状況下で演奏するに相応しい作品だと思われる。

曲目変更に納得出来ない場合は払い戻し可であり、また客席もディスタンス確保のため両隣一席空けでの対応が必要となり、事前に購入したチケットに記載された席には座ることが出来ず、入場前に新たに割り振られた座席券への引き換えが行われる。
私は2階席の8列目(最後列)下手端から、同6列目ほぼ真ん真ん中の席に移る。音響的には良い席に変わったことになる。

「ブラボー!」など大きな声を上げることは禁止。会話等もなるべく行わないことが推奨される。入場時に手のアルコール消毒を行うほか、サーモグラフィシステムを使っての体温検査も行われる。ビュッフェは閉鎖。飲料水のサーバも使用中止で、飲み物は7階(ホール3階)の自販機で買い求める必要がある。

 

コンサートマスターは須山暢大。ドイツ式の現代配置での演奏であるが、ティンパニは指揮者の正面ではなく左寄りに配置される。

トランペット奏者やオーボエ奏者が演奏開始前にステージ上で練習を行っていたが、集客が通常よりもかなり少なめということもあって音がよく響く。

 

開演前に大阪フィルハーモニー交響楽団事務局次長の福山修氏がマイクを持って登場し、曲目の変更や席の移動などを受け入れてくれたことへの感謝を述べ、弦楽奏者やティンパニ奏者はマスクをしての演奏であること、また奏者の間も通常より広く取っており、そのために予定されていた曲目が演奏不可となったことを詫びていた。

譜面台であるが、プルトで1台ではなく各自1台であり、なるべく距離を保てるよう工夫されている。また管楽器奏者は交響曲第4番と第5番で総入れ替えとなり、同一人物の飛沫が長時間飛ぶことのないよう工夫されていた。

普段とは異なり、オーケストラメンバーがステージ上に登場した瞬間からずっと拍手が起こる。

 

ベートーヴェンの交響曲第4番。大植は、コンサートマスターの須山暢大と握手をする前に右手に白い手袋を嵌め、客席からの笑いを誘う。

合奏の練習が出来ないということで演奏水準の低下が心配されたが、細かな傷はあったものの、一定水準は確保出来ており、安心する。

 

交響曲第4番は、「ベートーヴェンの交響曲の中では比較的小型で女性的」というイメージがあるが、大植は昨今の同曲演奏の一般的なテンポよりは少し遅めのものを採用し、第1楽章後半や第2楽章、最終楽章後半などではHIPを生かした一音ごとの強調や生命力を表に出して、重厚にして雄渾という男性的な第4を描いていく。闇の中を手探り状態で進んでいくような第1楽章序奏は、おそらく今現在の状況に重ねられているのだろう。
響き過ぎるためか、輪郭がややぼやけ気味なのが気になったが、渋い音による大フィルならではのベートーヴェン演奏となった。

 

交響曲第5番。大植は指揮棒を振り下ろして体の前で止めた時に運命主題が鳴るという振り方を採用する。フォルムはスタイリッシュだが、奥にマグマを秘めているという大植らしい音楽作り。大植はマーラー指揮者であり、ベートーヴェンの演奏では「成功」という評価をなかなか得られなかったが、今日は「コロナ禍を乗り越える」という精神で挑んだためか、密度の濃いなかなかのベートーヴェン像を提示する。
この曲でもビブラートを控えめにしたり、音の分離をくっきりさせるためのボウイングを用いたりとピリオドを援用。ピリオドであることを強調こそしないが、ピリオドならではの効果も随所で上げる。ホルンを警告としてかなり強く吹かせているのも特徴である。第4でもそうだったが、管による内声部が浮き上がる場面があり、採用した版が気になる。

最終楽章で第2ヴァイオリン奏者の楽器の弦がミシッという音を立てて切れ、リレーを行って最後列の奏者が弦の切れたヴァイオリンを持って退場するハプニングがあったが、演奏そのものには特に影響しなかった。

新型コロナに対する人類の勝利を祈念したかのような盛り上げ方も鮮やかであり、テンポの伸縮など、大植らしい外連も発揮されていた。

演奏終了後、大植はオーケストラプレーヤーに立つように命じたが、大フィルの楽団員は大植に敬意を表して立たず、大植が一人で客席からの拍手を受ける。大植は白手袋を嵌めてコンサートマスターの須山と握手。その後、弦楽最前列の奏者全員とグータッチを、コントラバス首席奏者とはエルボータッチを行い、客席を盛り上げた。

 

危機を迎えた時には何よりもベートーヴェンの音楽が良い薬になるということを実感した演奏会でもあった。ベートーヴェンの音楽に接する機会のある限りは、人類はいかなる危機であっても乗り越えられる、少なくとも新型コロナウイルスごときに容易く屈しはしないという勇気が胸の奥からふつふつと湧き上がってくるのを感じた。

 

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2020年6月28日 (日)

2346月日(21) 直七大学第84講「SDGsと仏教」

2020年5月31日

午後8時から、直七大学第84講「SDGsと仏教」をネット受講。SDGs(Sustainable Development Goals=持続可能な開発目標)の先進順位において、京都市は日本の市町村の中で第1位に輝いており、京都市内の映画館ではそのことが京都市出身の漫才コンビであるブラックマヨネーズ出演のCMが予告編で流れて紹介されている。講師は浄土真宗本願寺派僧侶で、SDGsおてらネットワーク代表の西永亜紀子氏。冒頭は見ることが出来なかったため、自己紹介などは聞けなかったが、東京の築地本願寺所属だと思われる。

午後7時45分頃からパソコンの前で準備していたが、メールソフトのメール受信が遅いため、10分ほど遅れて参加することになる。メールソフトが頼りないのは知っていたので、事前にメールのダウンロード作業をしておくべきだったと思う。

最初は聞くだけにしようと思っていたのだが、ノートも取ることにする。

まず「エシカル」「エシカル消費」の紹介。自然環境や社会貢献に配慮した消費のことで、貢献を第一に考えて行われる。

バナナペーパーが紹介されたが、バナナの繊維を使用した紙であり、パルプを使用した普通の紙とは違って樹木を伐採しないため森林保護に役立ち、アフリカのザンビアではバナナペーパーが雇用の創出にも繋がっているという。

坂本龍一の、「買い物は投票行為だ」という言葉も紹介される。利便性などではなく環境第一という考えで購入するものを選ぶという意味で、自然や環境保護に以前から積極的だった坂本龍一らしい言葉である。西永氏も坂本龍一のファンであるようだ。

一般社団法人四方僧伽(サンガ)によるバングラデシュ難民のための仏陀バンクも紹介される。バングラデシュは国旗が日本に似ていることで有名だが、地の部分が緑であることから分かる通り、イスラム教の国である。ただ小さいながらも仏教を信仰している組織があるそうで、そこと協力して善意の融資を行い、返済はお布施という形で行われているそうである。

僧侶が作った新電力会社、TERA Enegyの紹介も行われる。再生可能エネルギーによる発電で、原子力によって発電されたものは用いない。電機代は一部がソーシャルグッド活動への寄付に回されるといった特徴があるようである。


レジ袋削減の問題。この4月からレジ袋有料化が始まっている店舗があり、私は東京ヤクルトスワローズのオフィシャルショップで購入したエコバッグをすでに愛用している。値段は1100円。有料レジ袋は1枚5円なので、元を取るには200回以上買い物に出掛けないといけなくなるが、7月1日からはコンビニでもレジ袋が有料化されるため、出番もかなり増えると思われる。ちなみにレジ袋が広まる前は、みんな風呂敷を下げるなどして買い物行っていた。「サザエさん」を見ると、サザエさんの時代には買い物かごを下げて買い物に出掛けるのが当たり前だったことがわかる。入れ物はこちら側で用意していたのだ。ただ新型コロナが流行ってからは、エコバッグにはコロナウィルスが付着する可能性が高いということでアメリカで使用禁止になるなど、逆行した動きも出始めている。


ジェンダーの問題。日本のジェンダーの先進度は、調査に協力した150ほどの国と地域の中で121位とかなりの下位。先進国の中では最下位である。仏教界でも女性の役割は、お茶くみ、掃除、雑用など、バブル期の一般職OL(お茶をくむことだけが仕事の「お茶くみOL」というものが実在した。今から振り返ると嘘のようだが)や現在の派遣社員の一部の仕事と同じようなものに限られており、また女性自身がそれを望む傾向にもあるという。

仏教の声明も男声の音程に合わせて行われるのが基本であるが、真宗興正寺派は次期門主が女性(真慶。俗名:華園沙弥香)になることが決定しているため、女声に合わせた声明も考案されようとしているようだ。

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2020年6月27日 (土)

配信公演 サザンオールスターズ特別ライブ2020「Keep Smilin’~皆さん、ありがとうございます!!~」(文字のみ)

2020年6月25日 横浜アリーナからの配信

午後8時から、サザンオールスターズの無観客有料配信ライブ2020「Keep Smilin'~皆さん、ありがとうございます!!~」を視聴。サザンの結成42周年記念ライブで、42年前のデビューした日である6月25日を選んで横浜アリーナで行われる。

横浜アリーナには一度だけ入ったことがあるのだが、それはスポーツ観戦でもライブ参戦でもなく「大学の入学試験を受けるため」であった。横浜アリーナで受験した経験のある人はほとんどいないと思われるが、私が受験生だった時代は、受験者数がとにかく多く、話題作りも行う必要があるということで、変わった場所が試験会場になることもあった。

 

私の経験はどうでもいいとして、サザンオールスターズのライブ。ライブ配信であるにも関わらず、全曲字幕入りである。しかも今日のライブのために加えた歌詞や変更を行った歌詞も字幕で表示される。下準備が入念に行われたことが想像される。

セットリストは、「You」「ミス・ブランニューデー」「希望の轍」「Big Star Blues(ビッグスターの悲劇)」「フリフリ'65」「朝方ムーンライト」「タバコ・ロードにセクシーばあちゃん」「海」「夕陽に別れを告げて~メリーゴーランド」「シャ・ラ・ラ」。メンバー紹介を挟んで、「俺のへそピアス」「天井桟敷の怪人」「愛と欲望の日々」「Bye Bye My Love(U are the one)」「真夏の果実」「東京VICTORY」「匂艶THE NIGHT CLUB」「エロティカ・セブン」「マンピーのG★SPOT」「勝手にシンドバッド」

アンコールとして、「太陽は罪な奴」「ロックンロールスーパーマン」「みんなのうた」が歌われた。

セットリスト通りのストリーミング音楽配信もライブ終了後にタイシタレーベルから8つの配信会サービス向けに行われており、気が利いている。

録音された歓声入りでのライブ。メンバーもイヤホンをしていて歓声が聞こえるようになっている。桑田のボケにも適切な音声が返ってくるため、かなり入念なリハーサルが行われたことが察せられる。サザンオールスターズのみならず、ダンサーやスタッフも完璧を目指したかなり完成度の高い仕上がりで、「単に無観客配信ライブをやるのではなく、歴史に残るものを作ってやろう!」という強い意気込みが感じられる。

東京オリンピックのために作られた「東京VICTORY」では、新国立競技場の代わりに横浜アリーナ内の作られた聖火台に火を灯し、デビュー曲「勝手にシンドバッド」では客席で法被を着たスタッフが踊り狂うなど、無観客ライブとしては最大限の盛り上がりと臨場感と一体感を得られるような演出が施されている。見事という他ない。これぞ、ジ・エンターテインメントである。

これから行われるポピュラー音楽の無観客ストリーミング配信公演はこれが基準になるのではないかと思えるほどの高水準ライブであり、サザンオールスターズが日本のポピュラー音楽界の頂点に立つバンドであることを改めて示すことになった。

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2020年6月26日 (金)

配信公演 村川千秋&阪哲朗指揮山形交響楽団「山響ライブ第2弾」(文字のみ)

2020年6月21日 山形市のやまぎん県民ホールからの配信

午後3時から、クラシック音楽ストリーミングサービスのカーテンコールで、山形交響楽団の配信ライブ「山響ライブ第2弾」を視聴。今回はオープンしたばかりの、やまぎん県民ホールからの配信である。

山形交響楽団は、元々は山形県民会館(昨年11月に閉館)や山形市民会館で定期演奏会などを行っていたが、いずれも多目的ホールで音響が良くないということで、飯森範親が常任指揮者就任時に本拠地を山形テルサに移動することを提言。山形テルサはキャパ800名程度の中規模ホールで集客量に問題があったため、それまでの1回のみだった本番を同一演目で2回行うことも決め、現在に至っている。ただやはり大規模な演奏を行うには不利であるとして、新たにオペラやバレエも上演可能な山形県総合文化芸術館(山形銀行がネーミングライツを獲得し、やまぎん県民ホールと命名)が建てられた。昨年の12月には山形交響楽団の事務所もやまぎん県民ホール内に移り、新たな拠点となっている。


今回の演目は、山形交響楽団創立名誉指揮者である村川千秋が自身が編曲した山形県民謡「最上川舟歌」を指揮した後で、常任指揮者である阪哲朗にバトンタッチし、いずれもベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番(ピアノ独奏:三輪郁)と交響曲第6番「田園」が演奏される。


今回も阪哲朗と山形交響楽団の専務理事である西濱秀樹によるプレトークがあり、やまぎん県民ホールの音響や内装の紹介、そして今年がベートーヴェン生誕250年であることなどが語られる。
本来なら今日は、東京で「さくらんぼコンサート」を行うはずだったが、中止になり(大阪公演も中止となった)、代わりに新ホールからの配信が行われることになったことも語られる。
ベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番のソリストを務める三輪郁(みわ・いく)は、山形大学の地域教育文化学部(旧・教育学部)文化創世コースの教授を務めているそうで、今は山形県に縁のある人となっている。阪哲朗がウィーンに留学した際、現地で出会った最初の日本人の一人が三輪郁だったそうで、ウィーンでも山形でも三輪郁の方が先輩に当たるそうである。
東京都交響楽団や兵庫芸術文化センター管弦楽団などが管楽器の飛沫などを測定し、飛ぶ飛沫の量は会話程度で比較的安全という結果が得られたこともあってか、今日はフル編成に近いスタイルでの演奏が行われる。ヴァイオリン両翼の古典配置での演奏である。


村川千秋指揮による「最上川舟歌」。チェロの叙情的な独奏が印象的な編曲である。

演奏終了後、西濱秀樹と村川千秋が客席中央通路でのトークを行う。「最上川舟歌」は、村川千秋が50年前に編曲したものだそうで、子どもに聴いて貰うことを念頭に置いていたという。
当時は地方にオーケストラがほとんどない時代。地方の子ども達が生のオーケストラを聴けないというのは文化的に貧しいと考えたのが村川千秋が山形交響楽団を結成した理由である。東北地方初のプロオーケストラとなったが、その後、東北地方には仙台フィルハーモニー管弦楽団が誕生しただけで、今のところ6県にプロオーケストラ2つという、十分とはいえない状態が続いている。


ベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番。ホルン、トランペット共にナチュラルのものを使用し、ティンパニもバロック様式のものを採用している。当然ながらピリオドによる伴奏である。

三輪郁は、桐朋女子高校ピアノ科卒業後にオーストリアに渡り、ウィーン国立音楽大学と同大学院を修了。現在もウィーンを活動の拠点としている。2018年に山形大学の教授に就任。

三輪はスタインウェイではなくベヒシュタインのピアノを選択し、スケールの大きな伸びやかなピアノを弾く。

阪指揮の山形交響楽団は、第1楽章と第2楽章はピリオドを強調しない演奏だったが、第3楽章ではメリハリ、強弱などHIPをフルに生かした演奏を行う。第1楽章や第2楽章はハイドンやモーツァルトにも繋がるような典雅さを優先させたベートーヴェンだが、第3楽章では革命児らしいエネルギッシュな作風を披露しており、ベートーヴェンの飛躍がこの楽章から感じられる。


休憩の間は、西濱秀樹と阪哲朗とのトークを経て、山形県各地の紹介VTRが流される。やまがた舞子や、上山温泉、東根市のさくらんぼなどが紹介され、上山温泉では、山形県出身である井上ひさしの言葉「文化とはみんなの日常生活を集めたものである」も紹介された。


ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」。この曲では阪は指揮棒を持って指揮をする。
ピリオドによる演奏であるが特に強調することはせず、自然体。細部まで丁寧に作り上げた瑞々しさも印象的である。

「運命」と「田園」は同じ日にアン・デア・ウィーン劇場で初演されており、番号が今とは逆だったが、双子の交響曲とも呼ばれている。共に冒頭が休符で始まるなどの共通点があるが、「運命」が4つの音で内へ内へ向かっているのに対して「田園」は開放的であり、ベクトルが逆である。ただどちらも自然と思索を愛したベートーヴェンの個性が強く反映されており、相互補完的であるとも取れる。

自然の息吹が伝わってくるような演奏が展開され、等身大のベートーヴェンというと語弊があるかも知れないが、偉大なる楽聖・ベートーヴェン様のご高説を承るのではなく、友人ベートーヴェンが自然や音楽の素晴らしさを夢中で語っている場に接しているような親密さが心地よい。

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2020年6月25日 (木)

配信公演 ACALINO TOKYO 「演劇の街をつくった男」(文字のみ)

2020年6月21日 下北沢・小劇場B1からの配信

午後6時から、ぴあのストリーミング配信で、ACALINO TOKYOの演劇公演「演劇の街をつくった男」を観る。下北沢・小劇場B1で客を入れて行われている公演の有料配信。チケット事前購入制だが、リアルタイムでなくアーカイブのみを観られるチケットも発売されている。

原作:徳永京子、脚本・演出:徳尾浩治(とくお組)。出演:石川啓介、大部恵理子、笠井里美、杉山圭一、とみやまあゆみ、中薗菜々子、野川雄大、林雄大、本多一夫。

東京の下北沢で本多劇場など8つの劇場の経営主となっている本多一夫を描いた『「演劇の街」をつくった男 本多一夫と下北沢』(本多一夫:語り、徳永京子:著)を元にした演劇作品。ストーリーテラーを兼ねた女優を二人配するなど、わかりやすさを重視した作品となっている。

まずタイムスリップによる展開があり、舞台は2020年から1972年に飛ぶ。札幌工業高校時代に演劇部に在籍し、顧問の母校である北海道大学の学生劇団に入り浸っていた経験があり、元新東宝ニューフェイスであった本多一夫が、新東宝の倒産もあって俳優の道を諦め、下北沢で50軒もの飲食店を経営するまでになるが、やはり演劇を愛していたことから下北沢駅前の一等地に空いた土地を購入し、紆余曲折の末、本多劇場をオープンさせるまでを現代からタイムスリップした舞台女優の視点を通して描いていく。

演劇への思い入れが感じられる可愛らしい中編で、好感が持てた。

実は、本多劇場には一度も行ったことがない。竹中直人の会の公演である「水の戯れ」を観に行く予定があったのだが、当日の朝に首を痛めて病院に行く羽目になり、本多劇場で観劇は叶わなかった。なお、「水の戯れ」は、その後、光石研主演による再演を梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで観ている。
本多劇場に先駆けて開場した小劇場であるザ・スズナリには一度だけ行ったことがあり、青空美人の「空にかかわるもの」という作品を観ている。下北沢での観劇経験はそれ一度だけであり、他の劇場に通えていないのが残念である。

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2020年6月24日 (水)

コンサートの記(642) mama!milk 「Concert at The Museum of Kyoto」2020.6.14

2020年6月14日 京都文化博物館別館ホールにて

午後4時30分から、三条高倉にある京都文化博物館別館ホールで、mama!milkの「Concert at The Museum of Kyoto」を聴く。
mama!milkもYouTubeでの配信は行っていたが、聴衆を前にして演奏するのは久しぶりである。

入場料3000円、上演時間約1時間のコンサート。YouTubeでの無料同時配信も行われるが、やはり音楽は生で聴くのが一番であり、旧日本銀行京都支店社屋であるお洒落な京都文化博物館別館ホールはmama!milkの音楽によく合う場所である。

新型コロナウィルス感染防止のため、入場者数は少なめに抑えられている。椅子を3つ並べて3人掛けにしたものが一定の距離を保って並ぶが、聴衆は中央の椅子にしか座れず、左右は空けておく必要がある。3人掛けの椅子が30個ほどということで、聴衆は全部で30人ほど。これにスタッフが加わるが、それでも計40名ちょっとである。別館ホールに入る前にはガンスタイル(と書くと物騒だがこうした表現で良いのだろうか?)の体温計を額に近づけて検温をする必要がある。ちなみに京都文化博物館本館には入ってすぐのところにサーモグラフィー機能付きのスクリーンが張られているのだが、私だけ35度台と体温が低めであった。

京都に本拠地を置くmama!milk。アコーディオンの生駒祐子とコントラバスの清水恒輔のデュオである。本拠地は京都なのだが、日本国内は勿論、海外での公演も多く、京都だからいつも聴けるというわけではない。

 

曲目は、「Parade(これからのパレード)」、「intermezzo Op.28(間奏曲第28番)」、「rosa moschata」、「微熱のtango」、「永遠のワルツ」、「Amber(さまよえるアンバー)」、「Sometime Sweet(かすかに甘くてほろ苦かったこと)」、「Waltz for Hapone(かのハポネのワルツ)」、「Veludo(ヴェルード,月の居ぬ間に)」、「ao(そして、青)」、「Sanctuary Ⅲ(3つのサンクチュアリより)」、「逃避行のワルツ」、「kujaku(孔雀)」、「your voice」

今回は、日本銀行京都支店時代にはカウンターだったところ、つまり現在の別館ホールの南側に背を向けての演奏である。

曇りであったため、南側2階に設けられた窓からはどんよりとした雲しか見えなかったが、会場としての雰囲気は良い。

 

mama!milkの音楽は、甘美且つミステリアスな要素を多く含み、ノスタルジックな迷宮へと誘われるような趣がある。どこかで見たことがあるような風景なのだが、気がつくと見知らぬ異国にたどり着いているような。

タイトルからも分かる通り、3拍子系の音楽も多く、優美であるが表層的な美ではなく血の通った音楽性で勝負している。

プログラム終了後、会場に駆けつけた聴衆のためだけのアンコール演奏が1曲だけあった。

 

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2020年6月23日 (火)

これまでに観た映画より(184) さだまさし原作「解夏(げげ)」

2005年4月10日

さだまさし原作、磯村一路脚本・演出の映画「解夏(げげ)」をDVDで観る。大沢たかお、石田ゆり子主演。
磯村一路は傑作「がんばっていきまっしょい」で知られる抒情派。

解夏とは仏教用語であり、夏の修行が終わる時期を指す。


小学校の教師である高野隆之(大沢たかお)はベーチェット病に犯され、徐々に視力を失っていく。

舞台である長崎の光景が美しい。船から見える風景も格別である。悪い言葉で言えば手垢のついたタイプの物語だが、主役二人の愛の強さに打たれる。

教師であった高野の、元生徒を思いやる気持ちの強さが感動的だ。勿論、陽子(石田ゆり子)の愛と陽子への愛も。

ラストがちょっと物足りない気もするが大袈裟にまとめないところは好感が持てる。

もともとは子孫を残すために生まれた愛というものが、こういう風に甘く美しく切なく輝かしく優雅で残酷で美味なものになった。愛とは人類史上最大の発明である。

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2020年6月22日 (月)

楽興の時(35) 京都坊主BAR 「MANGETSU LIVE vol.21」 リコーダー:森本英希(テレマン室内オーケストラ)

2020年6月6日 本能寺跡近くの京都坊主バーにて

午後7時から、油小路錦小路上ルにある京都坊主BARで、「MANGETSU LIVE vol.21」を聴く。出演は、テレマン室内オーケストラのフルート奏者である森本英希。リコーダーのコンサート、二部制での上演である。

日本でも小中学校の音楽授業で必携になるなどお馴染みの楽器であるリコーダー。バロック期にはリコーダーの曲が多く書かれたが、古典派の時代に入るとフルートなどの横笛のみが生き残るようになり、リコーダーは忘却の彼方へと押しやられた。リコーダーが復権するのは20世紀に入ってからである。

リコーダーの名手としては後に指揮者として高い評価を得ることになる故フランス・ブリュッヘンが有名である。現役の奏者としては、デンマーク出身のミカラ・ペトリの存在が知られる。


お坊さんの経営するバーということで、知り合いにも何人か会う。


飛沫防止のためのビニールシートを前に垂らしての演奏である。演奏の時は当然ながら無理だが、トークはマスクで顔を覆って行われる。


森本英希は、和歌山県橋本市生まれ。京都市立芸術大学修士課程を修了。フルート、バロックフルート、リコーダーを専攻し、篠笛なども演奏するなど、笛のスペシャリストでもある。2013年に日本フルートコンヴェンションコンクールで第1位を獲得。2017年には京都芸術賞と京都新聞社賞を受賞している。


予定されていた曲目の前に、コロナ禍で亡くなった人を追悼するために「涙のパヴァーヌ」の演奏が行われる。「涙のパヴァーヌ」はフランス・ブリュッヘンのアルバムのタイトルにもなっている曲である。

フランス・ブリュッヘンのリコーダーアルバムの代表作は、自らがリコーダー用に編曲したJ・S・バッハの「無伴奏チェロ組曲」集であるが、今回のコンサートでも、ブリュッヘン編曲版かどうかは定かでないが(聞くのを忘れた)、無伴奏チェロ組曲第1番と第3番が演奏される。

クープランの「恋の鶯」という曲が演奏された他、「ターフェルムジーク」で知られるテレマンのファンタジアよりや、尺八を意識したという日本人作曲家の作品なども演奏された。

リコーダーのみによる演奏会を聴くのは、おそらく今回が初めてのはずで、なかなか貴重な体験である。


ラストもアンコールの代わりに小型のリコーダーによる「涙のパヴァーヌ」が演奏されて、コンサートは締められた。


その後は、森本さんとも少しお話。余り詳しい内容は書けないが、日本における古楽演奏発展の経緯なども教えていただいた。

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2020年6月21日 (日)

配信公演 浅草九劇オンライン 大鶴佐助×大鶴美仁音 別役実「いかけしごむ」(劇評。文字のみ。音楽紹介のリンクはあり)

2020年6月18日 東京の浅草九劇より配信

午後7時30分から、浅草九劇オンラインで、別役実作の二人芝居「いかけしごむ」を観る。出演は、大鶴美仁音(みにょん)と大鶴佐助の姉弟。構成・演出も二人で手掛ける。無観客での上演。

開演前は、前回の柄本明ひとり芝居「煙草の害について」よりも準備が行き届いており、女優の福地桃子(哀川翔のお嬢さん)によるアナウンス映像も流れた。

「いかけしごむ」は、京都で別役実作品上演をライフワークとしている広田ゆうみと二口大学によって何度も上演されており、当然ながら私もこの二人によるバージョンを観ている。

大鶴佐助と大鶴美仁音は、唐十郎(本名・大靏義英)の実子である。大鶴義丹とは異母兄妹となる。

 

暗い夜、街の外れの行き止まりのような場所が舞台である。ベンチがあるが、「ココニスワラナイデクダサイ」と片仮名による拒絶の注意書きがある(女の推理によると、話し掛けるきっかけをつくるためにわざと書かれている)。舞台中央には受話器が降りている。いのちの電話に繋がっているようだ。その上手には手相見の机。

 

時代はかなり意識されており、大鶴美仁音はサザエさんのような髪型(今でこそ奇異に見えるが、「サザエさん」の連載が始まった当初は典型的な女性の髪型の一つであった)、大鶴佐助も戦後すぐのサラリーマンのような格好をしている。顔の表情などはかなり大仰で、映像で見るには辛いものがあるが、これも昭和を意識した演技なのかも知れない。

女(大鶴美仁音)による一人語りで始まる。「信頼できない語り手」として捉えた方がいいだろう。そこかしこから人生に行き詰まったような風情が伝わってくる。そこにサラリーマン風の男(大鶴佐助)が黒いビニール袋を抱えて現れる。男は追われているということを女に告げる。いかを使って作る「いかけしごむ」を発明したのだが、そのためブルガリア暗殺団に追われているのだという。男は誰か目撃者となる人間がいればブルガリア暗殺団も手出し出来ないだろうと、この場に留まる。

女は、男が1歳になったばかりの娘を殺し、バラバラにして黒いビニール袋に入れて逃げている最中なのだろうという推理を語る。女は男の住んでいる部屋を知っているというのだが……。

 

不条理劇と呼ばれる別役実の芝居であるが、ベケットの作品もそうであるように、そこでは人生の不可解さというよりも人生の本質が言い当てられているように思う。少なくとも私にとってはこれらは視点をずらしてはいるが人生そのものに見える。

女は女自身が語るように、女のリアリズムを生きている。自身の視点しか持たず、思考しかなし得ず、何が本当なのか知るよしもない。そしてそこに他者のリアリズムは相容れない。怖ろしく孤独であるが、多くの人間はこのようにしか生きられない。二人でいても一人であり、二人で演じられても一人芝居である。
誰かと出会い、話し、あるいは勘違いし、本当にはわかり合えず、別れていく。そしてその意味もすぐに判然としない。いや永遠の謎となることも多いだろうし、おそらくは意味すらない可能性も高いのだろう。
「本当のことなど果たしてあるのだろうか」

ラストでは屋台崩しではないが、ブラームスの弦楽六重奏曲第1番第2楽章が流れる中、背後の幕が落とされると、台所を模したスペースで二人の父親である唐十郎が酒を飲んでいる姿が目に入る。そう大した意味があるわけではないだろうが、唐十郎が二人の実の父親であり、父親であるからこそこの場にいるということは揺るぎようもなくリアルであるともいえる。不確かな物語であるが、それだけは確かだ。

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2020年6月19日 (金)

SPAC(静岡県舞台芸術センター)俳優、教科書朗読 太宰治 「走れメロス」 朗読:大高浩一

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2020年6月18日 (木)

京都フィルハーモニー室内合奏団ほか リモート演奏「東村山音頭」

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2020年6月17日 (水)

ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団 グノー 「操り人形のための葬送行進曲」

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これまでに観た映画より(183) ヴィットリオ・デ・シーカ監督作品「ひまわり」

2020年6月15日 京都シネマにて

京都シネマで、「ひまわり」を観る。イタリア、フランス、ソ連合作映画。ヴィットリオ・デ・シーカ監督作品。出演:ソフィア・ローレン、マルチェロ・マストロヤンニ、リュドミラ・サベーリエワほか。音楽:ヘンリー・マンシーニ。製作:カルロ・ポンティ。

ちなみに映画プロデューサーであったカルロ・ポンティは既婚者であったが、この映画の撮影時にはすでにソフィア・ローレンと交際中であり、1972年にはローレンと再婚している。カルロ・ポンティとソフィア・ローレンの長男であるカルロ・ポンティ・ジュニアは、劇中に赤ちゃんとして登場するが、現在は指揮者として活躍しており、私も彼がロシア・ナショナル管弦楽団を指揮したCDを持っている。

映画音楽の大家、ヘンリー・マンシーニが手掛けた音楽も素晴らしく、メインテーマは彼の代表作となっている。

 

1970年に公開された映画で、今回は公開50周年を記念しての特別上映。最新のデジタル修復技術を用いたHDレストア版での上映である。

 

冒頭、中盤、ラストに登場する一面のひまわり畑が印象的である。ソ連時代のウクライナで撮影されたものだそうだ。ひまわりというと日本では華やかな陽性の花の代表格であるが、イタリアでは太陽に片想いしている寂しい花というイメージもあるようである。

 

第二次大戦中と戦後のイタリアとソ連が舞台である。
ファッションの街としても名高いイタリア・ミラノ。ロシア戦線に送られたまま生死不明となっている夫のアントニオ(マルチェロ・マストロヤンニ)の行方を妻のジョバンナ(ソフィア・ローレン)が担当職員に問い詰める場面から始まる。

イタリア北部の田舎町出身のアントニオと南部の大都市ナポリ出身のジョバンナは恋に落ち、出征延期を目論んで結婚する。だが猶予はわずか12日。そこでアントニオはジョバンナと示し合わせて佯狂による一芝居を打つことで精神病院への隔離を狙うがすぐにばれ、ロシア戦線に送られることになる。
「ロシアの毛皮を土産として持って帰るよ」と約束してミラノ駅から旅立ったアントニオだったが、戦争が終わってからも行方はようとして知れない。
ロシア戦線から帰った一人の兵士が、アントニオのことを知っていた。彼によるとアントニオは真冬のロシア戦線、ドン河付近でソビエト軍からの奇襲攻撃を受け、逃走する途中で多くのイタリア兵と共に脱落したという。

それでもアントニオの生存を信じて疑わないジョバンナは、単身、ロシアに乗り込む。1953年にスターリンが亡くなり、雪解けの時代が始まっていて、ジョバンナもモスクワにたどり着くことが出来た。モスクワにある外務省で紹介された案内の男性と共にアントニオが脱落した場所付近に広がる一面のひまわり畑の中をジョバンナは進む。かつての激戦地に咲く鎮魂のひまわりに囲まれた空き地にイタリア兵とロシア人犠牲者のための供養塔があった。更にイタリア人戦没者墓地も訪ねるジョバンナだったが、「アントニオは生きている」という確信を棄てることはない。

そしてついにジョバンナは、アントニオの現在の夫人となっているマーシャ(リュドミラ・サベーリエワ)と出会う。アントニオとマーシャの間には娘のカチューシャがいた。ショックを受けるジョバンナ。すると汽笛が鳴り、働きに出ていたアントニオが自宅の最寄り駅に戻ってくる時間であることが示される。午後6時15分、以前、アントニオとジョバンナが約束の時間としていた6時よりも15分ほど先だ。

マーシャと共に駅に向かったジョバンナは今のアントニオの姿を見る。アントニオもジョバンナに気づき、歩み寄ろうとするが、もう以前のアントニオではないと悟ったジョバンナは走り出した汽車に飛び乗って去り、人目もはばからず泣き続ける。出会えさえすればたちどころに寄りを戻せると信じていたのだろうが、それは余りにも楽観的に過ぎた。

アントニオを諦めたジョバンナはミラノのマネキン工場で働く金髪の男性と新たにカップルとなり、子どもも設ける。

ジョバンナのことが忘れられないアントニオはマーシャと相談した上で、単身モスクワからミラノにたどり着き、紆余曲折を経てジョバンナと再び巡り会うのだが、ジョバンナにはすでに息子のアントニオ(カルロ・ポンティ・ジュニア)がいることを知り、関係修復が不可能なことを悟る。ジョバンナは息子にアントニオと名付けることで、かつての夫のアントニオを思い出の中の人物としていた。時計はすでに進んでしまっており、互いが互いにとって最愛の人物であることはわかっていても、時を取り戻すことは最早不可能である。報われぬ両片想いのラストが訪れる。

戦争により、本来の人生から外れてしまった男女の悲恋劇である。そしてこの物語もまた戦地に咲く片想いの花、ひまわりの一本一本が象徴する報われなかった数多の夢の一つでしかないのだということが暗示されてもいる。

 

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2020年6月16日 (火)

ステージナタリーZoom対談 白井晃×谷賢一 2020年4月(文字のみ)

ステージナタリーにアップされた白井晃と谷賢一のZoom対談を見る。4月18日に行われたもので、24日に公開されている。

まず、演劇に関わるようになったきっかけを述べた後で(白井さんは高校までは演劇に関心がないというより嫌いだったようだ。この点は私と一緒である。松田正隆も高校時代は演劇部をうさんくさい存在だと思っていたという話をしていた)。映画に関しては二人とも撮りたいと思ったことがないという話をする。実は私も映画を撮りたいだとか映画監督になりたいと思ったことはただの一度もない。谷賢一も語っていたが、演劇と映画はストーリーがあるということだけが共通点としてあるだけの全く別の表現形態である。勿論、映画を舞台化したり、場転や暗転を多くして映像作品のように見せる演劇も少なくないが、本来は三一致の法則を遵守するとまではいかないが、三一致の法則に従ってリアルタイムで行われるものが最高の演劇作品なのではないかと思っている。大学でも映画・演劇科などといったように(私も映像・舞台芸術学科出身だ)一緒くたにされることが多いが、映画は小説などに近く、舞台はむしろボードゲームなどと親和性があるように思われる。舞台は空間の芸術なのだ。ストーリーは空間に対しては従でしかあり得ない。映画は全く逆である。鑑賞する立場ならその差は余り気にならないだろうし、批評も同じスタイルでこなせる。ただやる側としては全くの別物と考えて行った方が少なくとも利口ではあるだろう。

劇場はその場に演者がいて、観客がそれを固唾をのんで見守っているという特殊な表現スタイルである。演者が一人欠けていても成り立たない。音楽もそうだが、音楽は今は録音物がライブ以上の価値を持つこともある。トスカニーニ、フルトヴェングラー、カラヤン、レナード・バーンスタイン、ピアノならラフマニノフやホロヴィッツ、アルトゥール・ルービンシュタインの録音を聴くことにライブ同等以上の価値を見いだす人もいる。グレン・グールドのように録音しか行わないピアニストすら存在したほどだ。だが、演劇の場合は映像に収められたものが劇場での体験と同一視されることは今後もないだろう。私自身は映画でない映像のための演劇があってもいいとは思っている。矢口史靖と鈴木卓爾のショートフィルム作品集である「ONE PEACE」のような作品が生まれたなら、今のような窮地もしばらくはしのげるだろうとも思う。だがやはり演劇は劇場に通って観るものだと思う。チケットが手に入らなかっただとか、その日体調が悪かったり別用があったりで行けなかった場合は映像が手に入ればありがたいが、それはあくまで補足であって、本来の演劇を観たことにはならないだろうと感じている。映画館通いもそうだが、そこに至るまでの過程にも良さがある。例えば梅田芸術劇場(メインホールとシアター・ドラマシティ)ならば、阪急電鉄大阪梅田駅で降りてから茶屋町に向かうまでの道のり、たまに参拝する綱敷天神御旅社、これまた時折立ち寄るMBS本社やロフト、NU茶屋町や終演後に乗ったエスカレーターから見える宝塚大学看護学部の高層校舎(安藤忠雄設計)、カッパ横丁や阪急三番街、京都までの帰路、全てが観劇という行為に含まれている。以前にそこで観た別の芝居との差違を帰りの阪急電車の中で味わったりもする。初めて行く劇場なら、例えば青山のスパイラルホールなら、開場前に寄った岡本太郎記念館の内装や表参道の街並みによって、その日その時でしかあり得ない自分だけの空間とその場の空気を、劇を観る前も観ている間も観た後も纏うことになる。それは人生の中で今でしかあり得ない瞬間の連続でもある。

その時間と空間の共有を白井さんは「共犯」という言葉で語っていたが、人生の中でこの一度しか巡って来ない時間の流れを共に味わうということは、生きているということのまさに本質である。そこにいたことが重要且つ幸福なことなのだ。少なくともその限られた時間においては。

白井さんが、スポーツはテレビ観戦が当たり前になっているという話もする。白井さんも谷さんもスポーツ観戦はテレビで済ませていて、最後に競技場や野球場に通ったのは小学生時代が最後ではないかという話もする。これは私とは大違いで、私は出来るなら毎日でも神宮球場に通いたいが、現実的に無理。かといって神宮球場に通うためだけに東京に住みたいとは思わない。京都という、それほどスポーツ文化が発達していない場所にあっても、2月にサンガスタジアム by KYOCERAのオープニングに行ったばかりだし、わかさスタジアム京都(西京極球場)には女子プロ野球やNPBを観に出掛ける。京セラドーム大阪には阪神対ヤクルトの開幕戦を観に行ったことがあるし、バファローズとスワローズの交流戦もよく観に行く。今年も交流戦のチケットを2日分取ったが、コロナ禍によって試合自体が流れてしまった。

私事が長くなったが、白井さんも谷さんも余りスポーツ好きには見えないので実感はないのだと思われるが、NPBなどは毎年観客動員数は増加している。地上波で試合が流れなくなったということもあるが、野球場に行って、お気に入りの食べ物や飲み物を買って、早めに着いたなら練習を眺めて、周りの面白い観客などをそれとなく見て、歓声に包まれて、たまに他のお客さんと話したりすることもあって、というボールパーク的喜びは多分、二人ともご存じないと思われる。だから演劇がスポーツのテレビ中継のようになることはないと個人的には思っている。テレビでのスポーツ中継はスタジアムに行けないので仕方なく見るものなのだ本来は。

谷さんは、4月は小説を書く予定が入っていたのだが、公演が出来ないということでそれどころではなく、白井さんは基本的に演出メインなので、「本でも読むか」と思って小説を読むと、「あれ、これ、舞台にしたらどうなるだろう」と考える職業病のようなものが出てしまい、ではあるが今は上演自体が出来ないというので胸が苦しくなってしまうそうだ。

もしコロナ禍が早めに収束したらという仮定の話を白井さんは行う。通常はリハーサルに最低1ヶ月は掛かるのだが、2週間しかなかったら2週間の稽古期間で出来るものを探してやればいいという考えを示す。今の段階では最も実現性の高い路線であると思われる。

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2020年6月15日 (月)

チャット型インプロ演劇の発案

 演劇を上演する上でネックとなっているのが、舞台上でセリフを話すと飛沫感染の怖れがあるということである。ソーシャル・ディスタンスを保っての演劇も試みとして始まっているが、2メートル以上離れたまま会話をするという状況を設定することは難しい。離れたまま会話を交わすということは日常的な場面ではほとんどないため、嘘くさくなってしまうのである。電話での会話ならあり得る。ジャン・コクトーの「声(人間の声)」の二人バージョンである。電話なら二人芝居以上は難しいが、スカイプやZoomを使っているという設定にすれば複数人での会話が可能になる。ただその場合はわざわざ舞台でやらなくてもZoom劇でいいだろうということに落ち着きそうであるが。

 セリフを発することが問題ならば無言劇もいいし、ギリシャ悲劇のようにパフォーマーと話者を切り離すのもいいかも知れないが、これまで散々演じられてきたスタイルであり、新しさはない。せっかくなのだから新しい表現方法を取り入れてみたいものである。ならば、巨大スクリーンに各々のパソコンから打ち込んだ文字を投影出来るようにして、チャット形式で進める劇はどうだろう。舞台上に複数のパソコンを用意して、役者がセリフを打ち込んでいくのである。折角なので台本はなくして配役のみの完全インプロ(インプロヴィゼーション=即興)で続けていく。難しいかも知れないが、役者の腕の見せどころともなる。
 人数制限は必要だが、客を入れれば反応もあるし、劇の展開も随時変わっていく。良いセリフが書ければ拍手も貰えるだろう。上手くいけばかなり面白いものになるはずである。

 これは劇ではないのだが、以前、某SNSで私と「トリック」(仲間由紀恵&阿部寛主演)ファンのネット上の知り合いの二人で、「トリック」を題材にした二次創作的セリフ劇を延々と続けたことがある。残念ながら公表は出来ないが、かなり笑える面白い仕上がりになっていた。文字の力、文章の力を劇場において発揮するというのも良い試みであると思う。

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2020年6月14日 (日)

配信公演 阪哲朗&村川千秋指揮山形交響楽団「山響ライブ第1弾」(文字のみ)

2020年6月13日 山形テルサより配信

午後7時から、クラシック専門ストリーミング配信サービス「カーテンコール」で、山形交響楽団の「山響ライブ第1弾」を視聴。金管パート、木管パート、弦楽パートに分かれての三部構成による演奏である。

曲目は、ジョン・ウィリアムズの「オリンピック・ファンファーレ」、ブルックナーの「正しき者の唇は知恵を語る」、リンドバーガー編曲の「悪魔のギャロップ」と「セルからモースへの結婚行進曲」(以上、金管パート)、リヒャルト・シュトラウスのセレナード変ホ長調(木管パート)、チャイコフスキーの「弦楽セレナード」とシベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」(以上、弦楽パート)。弦楽パートの選曲は、3日前に行われた広上淳一指揮日本フィルハーモニー交響楽団の配信公演と完全に同じである。

指揮は山形交響楽団首席指揮者の阪哲朗。シベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」のみ山形交響楽団創立名誉指揮者である87歳の村川千秋(男性)がタクトを執る。

3月にも山形交響楽団の配信を行ったカーテンコールであるが、3ヶ月の間に配信のための基盤がかなり整ってきているようで(そもそも本格的なサービス開始は今年の秋からであり、今はまだ試験段階である)、音声はハイレゾ配信となり、カメラも3台から6台に増えたそうである。


飯森範親による改革が成功して、「田舎のオーケストラ」というイメージを脱却し、日本を代表するアンサンブルへと成長した山形交響楽団。財政的には厳しいが、新たなる本拠地ホールが完成するなど、更なる飛躍のための足がかりが構築されつある。


まず、山形交響楽団が日本で初めて始めたというプレトークが、指揮者の阪哲朗と山形交響楽団専務理事の西濱秀樹によって行われる。


阪は全編ノンタクトでの指揮、キビキビとした推進力に富む音運びである。山形交響楽団も揃っての演奏は久しぶりのはずで、万全とはいえない部分もあるが、ある程度の精度の高さを維持していることが感じ取れる。

金管の音は輝かしく、ブルックナーの楽曲ではオルガン的な響きを見事に再現してみせる。リヒャルト・シュトラウスが17歳で完成させるという早熟振りを示したセレナード変ホ長調の木管による洒落っ気に飛んだ表現も優れている。


転換を兼ねた20分の休憩時間中に、阪哲朗と西濱秀樹が客席中央通路に出てのトークを行い、更に今日のための撮影された山形の名所案内映像が流れる。阪と女優の永池南津子が、天童市内の温泉旅館やさくらんぼ農園、山寺こと立石寺を訪ねるという内容(麓から立石寺を眺めるだけで上ることはなかった)である。


チャイコフスキーの「弦楽セレナード」。チェロ以外の弦楽奏者はオールスタンディングでの演奏である。ハイレゾであるためか、弦の人数が日フィルよりも多いためか、奏者間をさほど空けていないからか、もしくはその全てか、弦の表情の細やかさや音の広がりは山形交響楽団の方が優れているように感じられる。


村川千秋が指揮するシベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」(ティンパニありのバージョン)。村川は指揮棒を持って指揮する。チェロとティンパニ奏者以外はやはり起立しての演奏。清澄な弦の音色が印象的な佳演であった。

演奏終了後、客席に山形交響楽団の管楽器メンバーが現れ、村川を拍手で讃えた。

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これまでに観た映画より(182) 「スティング」

2005年1月27日

DVDで映画「スティング」を観る。1974年公開のアメリカ映画。アカデミー賞で作品賞など6部門を受賞している。

主演はポール・ニューマンとロバート・レッドフォード。監督はジョージ・ロイ・ヒル。「明日に向かって撃て!」のトリオによる作品。

詐欺師やイカサマ師の騙し合いを描く作品。舞台は1936年のシカゴ。古き良きアメリカという感じだが、すでに高層ビルはいくつも建っている。

この頃のロバート・レッドフォードはブラッド・ピットによく似ている。

スコット・ジョップリンの「ジ・エンターテイナー」が主題曲として効果的に使われている。またマーヴィン・ハムリッシュの音楽もやはりラグタイム調で楽しい。「明日に向かって撃て!」ほどの完成度はないが、二転三転するストーリーは巧みだ。

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2020年6月12日 (金)

反東京一極集中のための特化型劇場試論

 日本の劇場の歴史は寺院の本堂の前の仮設舞台に始まる。往時、それも千年以上レベルで昔の話だが、本堂の前には往々にして芝が敷き詰められており、人々は芝の上の腰掛けて演目を楽しんだ。これが「芝居」という言葉の始まりである。芝居はそれ専用の劇場で行われているわけではなかった。

 やがて座が生まれ、日本の古典芸能は能楽堂(現在と違って野外)や歌舞伎の劇場(これも天上がない)へと繋がっていくのだが、想定された形態(橋がかりや花道を用いる)以外の演目を行うことは難しくなる。演目と劇場は不即不離の関係であった。

 翻って日本のクラシック音楽は多目的ホールで演奏を行うのが一般的であった。東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)の奏楽堂など音楽のための会場もあるにはあったが、東京でも講演用に建てられた日比谷公会堂に始まり、地方では公会堂や文化会館という多目的の空間での上演が当たり前だった。多目的であるため、音楽のみならず演劇、映画上映会、講演会など多種多様の催しに対応出来るのだが、「多目的は無目的」という言葉がある通り、全ての演目において「万全という形」での上演は難しいということになる。いずれも「帯に短したすきに長し」というわけである。

 音楽特化型のホールが誕生したのは、大阪は1958年のフェスティバルホールオープン、東京は1960年の東京文化会館の竣工を待たねばならない。クラシック音楽専用となると更に遅く、大阪が1982年のザ・シンフォニーホール、東京が1986年のサントリーホール開場が嚆矢となっている。せいぜい150年ほどしかない日本における西洋音楽演奏史から見てもつい最近のことである。いずれも大阪が東京に先んじているというのが興味深い。

 その後に室内楽、器楽用の小ホールが併設されるようになり、今では室内楽・器楽曲専用のホールが単独で存在する(名古屋の宗次ホール、大阪のザ・フェイニックスホールなど)。

 オペラも多目的大ホールでの上演が主であったが、豊中市にある大阪音楽大学に小さいながらも日本初のオペラハウスがあり(1989年竣工の大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウス。優れたオペラハウスだが、大学の施設ということもあって、オペラ上演は年2、3回程度と稼働率は高くない)、東京・初台の新国立劇場にもオペラパレスが誕生し、1年を通して上演が行われる日本唯一の常設オペラハウスとして機能している。

 演劇の場合も多目的ホールでの上演の他に、大劇場、中劇場、小劇場、更に小さいアトリエといった区分しかなかったが、東京の浅草九劇がオンライン配信劇場として生まれ変わっている。ということで、能・歌舞伎の時代に立ち返り、特化型の劇場がもっと出来ても良いのではないかと考えるわけである。ミュージカル専用劇場は存在する。宝塚歌劇や劇団四季による自前の劇場である。ただこれからは、音楽劇限定、映像収録前提、出演者3人までの少人数制の芝居しかやらない、若手のみあるいはシニアオンリーといったように特化された強さを持つ劇場が日本各地に存在して良いのではないかと考えるのである。専用は難しいため特化型とする。

 問題はソフト面と採算が取れるかということであるが、特化した方が固定ファンが付きやすいということはあるように思われる。「ここに行けば面白いものが観られる」というのであれば、人はよく分からなくても通うようになる。本当の演劇好きなら遠くても「行ってみようか」という気になる。

 重要なのは、特化型劇場は日本にいくつも存在しなくていいということである。特化型なので、演劇のおける特定のジャンルの最高峰を日本に一つだけ、それが無理なら各地方に一カ所だけ設けるのである。
 高校の硬式野球部においては甲子園が目標になるように、○○の甲子園、例えば高校の軟式野球部なら明石トーカロ球場、サッカーなら以前は国立競技場、吹奏楽ならかつては普門館今なら名古屋国際会議場センチュリーホールといったように各分野の頂点がある。そのような演劇における甲子園を創設するのである。東京の小劇場にとっては以前は紀伊國屋ホールが上がりだったが、その上がりをジャンルごとに新たに制定する。そしてそれは東京になくてもいい。否、東京でない場所にメッカを作ることで、東京一極集中が当然となっている演劇界へのカウンターとなる可能性を秘めているように思われるのである。ワーグナーの楽劇におけるバイロイトのように。

 これはあくまで案だが、例えば札幌に一人芝居の甲子園というべき劇場を設ける。会場自体も一人芝居が観やすいように設計する。アマチュアの一人芝居なら集客は期待出来ないが、有名芸能人の公演なら客が呼べる。しばらくは東京の俳優の力を借りるようになるだろうが、憧れの劇場と見做されるようになれば地元からスターが誕生することも期待出来る。同様に二人芝居なら、例えば金沢にメッカを作る。今は金沢も東京からも大阪からもアクセスは良好であり、日本全国から腕に覚えのあるものが集結する「二人芝居の頂点」を金沢とすることも可能だろう。まず始めにコンクールを開くのも良い。あくまで特化型で、専用ではないので、その他のジャンルを挟みつつ上演することになるだろうが。
 今はシニア劇団が日本各地にあるようだが、その年のナンバーワンを決める大会を例えば別府で行うとする。別府は観光地で老若男女が集う土地であり、シニア世代の集客も期待出来そうである。
 国際都市ということで、神戸で外国語演劇の上演を行うのも良い。来日団体に限らず、日本の団体も外国語による上演を行う。神戸市外国語大学が毎年学生による外国語演劇祭を行っているが、それを発展させた形でも良い。積極的に行うことが出来たなら、その場所は世界各国の、世界各国語の劇が上演される「国際演劇の街」として世界的な評価を得るという青写真を描くこともあるいは可能かも知れない。

 早稲田小劇場が富山県の利賀村に移ったり、青年団が本拠地を兵庫県豊岡市に移転したりと、劇団の本拠地移転は以前からあり、新本拠地での演劇祭も好評を博しているが、一劇団だけでなく、日本演劇界全体レベルで拠点を確立したならば、一劇団、一都市、そして演劇というジャンルのみならず、日本の全文化への貢献を果たせるように思うのだ。

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服部克久自作自演 「自由の大地」(「新世界紀行」より)

洗足学園音楽大学のオーケストラ(洗足学園ニューフィルハーモニック管弦楽団)を指揮しての演奏。

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2020年6月11日 (木)

配信公演 広上淳一指揮日本フィルハーモニー交響楽団ソーシャル・ディスタンス・アンサンブル 「日本フィル&サントリーホール とっておきアフタヌーン オンラインスペシャル」(文字のみ)

2020年6月10日 東京・溜池山王のサントリーホールからの配信

今日は、広上淳一指揮日本フィルハーモニー交響楽団ソーシャル・ディスタンス・アンサンブル(弦楽合奏)によるサントリーホールからの配信公演「日本フィル&サントリーホール とっておきアフタヌーン オンラインスペシャル」が午後2時からある。休憩なし、上演時間約1時間のコンサート。

e+でのストリーミング配信。事前にチケットを購入し、メールで送られてきたURLで配信画面に飛んで視聴するというシステムである。

今日はテレワークなので、画面を見ながらはまずいが、音を聴きながら仕事は出来るため、午後2時からまず音だけを聴き、その後、アーカイブの映像を確認することにする。配信画像視聴には2種類の券があり、安い方は11日の午後2時まで映像を観ることが出来る。高い券だと比較的長い期間観られるのだが、私は安い券を買う。ちなみにアーカイブ映像視聴のためだけの券もある。


配信公演ということで、事前のアナウンスもホールに流れるが、いつもとは違ったものになっている。


今日の日本フィルハーモニー交響楽団は、ソーシャル・ディスタンス・アンサンブルという名で弦楽のみの編成、それも奏者間を広く空けての演奏である。コンサートマスターは田野倉雅秋。握手などが難しいというので、広上と田野倉は、何度もエアーハイタッチを行う。
管楽器は飛沫感染の危険性の高さを現時点では否定出来ないため、全ての楽器が揃っての演奏はまだ先になるかも知れない。


曲目は、グリーグの「ホルベアの時代から(ホルベルク組曲)」より第1曲“前奏曲”、エルガーの「愛の挨拶」(ヴァイオリン独奏:田野倉雅秋)、ドヴォルザークの「ユーモレスク」(弦楽合奏版)、チャイコフスキーの「弦楽セレナード」

広上淳一はマスクをしての指揮。司会進行役である音楽ライターの高坂はる香もマスクを付けて登場し、コンサートマスターの田野倉雅秋もトークの際はマスクを装着していた。


距離感を空けての演奏であり、通常のプルトでの合奏ではない。フォアシュピーラーは存在せず、その他の楽器も首席が一人だけ前に出て弾き、すぐ横に人がいないよう配慮しての演奏となる。

ということでアンサンブルとして万全とはいかないかも知れないが、久しぶりに日本のオーケストラの演奏を配信で聴けるということで嬉しくなる。


グリーグの「ホルベアの時代から(ホルベルク組曲)」より第1曲“前奏曲”はスプリングの効いた演奏で、躍動感と推進力に富む。日フィルは昔から音の洗練度に関しては東京の他のオーケストラに比べると不足しがちであり、今後も課題となってくるだろう。

演奏終了後に広上と高坂とのトーク。高坂が日本フィルハーモニー交響楽団が演奏を行うのは3ヶ月半ぶり、サントリーホールで演奏会が行われることも約2ヶ月ぶりだと説明。広上は、「ホールがもし言葉を喋ることが出来たら、『久しぶり、よく来たね!』と喜んでくれるだろう」と語る。
「ホルベアの時代から」に関して広上は、ホルベアというのはノルウェー文学の父とも呼ばれる人物で、グリーグにとってはベルゲンの街の先輩でもあった。この曲は元々はピアノ曲で、ヴァイオリンとピアノのための編曲が行われたり、歌詞が付けられて歌曲になったこともあったが、現在では弦楽合奏曲として知られていると語る。


「愛の挨拶」は、エルガーが奥さんとなるキャロラインに求婚した時に送った曲で、広上はキャロライン夫人の内助の功を、「今の大河(広上がメインテーマを指揮している「麒麟がくる」)でいうと、帰蝶のような、お濃さんのような」と例える(エルガーは遅咲きの作曲家である)。

「愛の挨拶」は、田野倉雅秋のヴァイオリンソロと弦楽アンサンブルの伴奏による演奏。少し速めのテンポを取り、愛らしさよりも流麗さを重視する。日本人なのでチャーミングな演奏は照れくさいということもあるのだろう。


ドヴォルザークの「ユーモレスク」は、クライスラー編曲によるヴァイオリンとピアノのデュオ版でも有名だが、今回はソリストを置かずに弦楽合奏版での演奏を行う。ユーモラスな曲想が広上の音楽性にも合っている。
トークで広上は、「ドヴォルザーク先生はヴィオラが得意、ヴィオラ奏者だった。ピアノはあんまり好きじゃなかった」と語るが、ロベルト・シューマンの影響でピアノ組曲を書こうと思い立ち、その7曲目が「ユーモレスク」で、様々な編曲による演奏で親しまれていると語る。


チャイコフスキーの「弦楽セレナード」。西欧ではロマン派全盛の時代となっており、装飾の多い雄弁な音楽が流行っていたが、遙か東方のロシアにいたチャイコフスキーはそれに疑問を感じ、モーツァルトを範とした「虚飾を排し、本質を突く」という意気込みで書いたのがこの「弦楽セレナード」だと語る。実際にパトロンであったフォン・メック夫人にそうした内容の手紙を送っているそうだ。

通常の「弦楽セレナード」よりも小さめの編成での演奏ということもあって、「虚飾を排し、本質を突く」というチャイコフスキーの意図がより鮮明になっているように感じられる。アレクサンドル・ラザレフやピエタリ・インキネンに鍛えられて性能が向上した日フィルであるが、更なる典雅さと優美さも欲しくなる。ただ広上の巧みな棒捌きに導かれて、フル編成でないにも関わらずスケールの豊かさとシャープさを兼ね備えた演奏で聴かせた。


アンコール演奏の前に広上は、「文化はAIやITのような科学文明の進歩とは違った、心を解き明かすもの」と語り、学校教育においては文化が大上段から語られるため誤解されやすいが、人間を人間たらしめている「心」を大切にし、描くものとしてその重要性を説いた。


アンコール演奏は、シベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ(祝祭アンダンテ)」(弦楽合奏版)。広上は、日本フィルハーモニー交響楽団の初代常任指揮者で、現在も創立指揮者として頌えられている渡邉暁雄(わたなべ・あけお)が得意としたのがシベリウスだと語り、日フィルの創立記念日が渡邉暁雄の命日(6月22日)であるという因縁も述べる。

音楽が出来るという喜びと、ここから新しい演奏史が始まるのだという高揚感溢れる熱い演奏であった。

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服部克久作曲「鯨のボレロ」

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2020年6月10日 (水)

コンサートの記(641) 田部京子ピアノリサイタル2004@神戸新聞松方ホール

2004年11月12日 神戸新聞松方ホールにて

神戸へ。JR神戸駅から歩いてちょっとのところにある神戸新聞松方ホールに行く。今日はここで田部京子のピアノリサイタルを聴く。

松方ホールは海の見える、まだ新しい小綺麗なホール。シューボックス型のホールだが、音響的にはややもやもやして直接音が届かない憾みがある。5列目だからかなり前の方だ。

田部京子は日本を代表する女流ピアニストの一人だが、客の入りはそれほどでもない。今日は何といっても大阪のフェスティバルホールでヴァレリー・ゲルギエフ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団来日演奏会という超弩級の人気公演があるので関西のクラシックファンはそちらに集結したと思われる。

今日は客席からくしゃみや咳がたびたび出るのが少し気になる。風邪が流行っているのだろうか。

田部のピアノは明晰でテクニックも抜群だ。

シューベルトの即興曲は私も大好きな曲だが、これは田部の十八番で典雅な音世界が展開された。左側の席なので田部の手元がよく見える。華麗な鍵盤捌きだ。

メンデルスゾーンの「無言歌集」も味わいある大人の演奏となっていた。

グリーグの「ペール・ギュント」第1組曲がプログラムされているのが面白い。田部のグリーグを生で聴くのは2度目。以前は池袋の東京芸術劇場コンサートホールで、日本フィルハーモニー交響楽団のサンデーコンサートで聴いている。グリーグのピアノ協奏曲を弾いていた。その時も感じたのだが、田部のグリーグは清冽だ。透明でいながら滴るような瑞々しさがある。清潔感溢れる演奏で北欧の抒情というものを堪能する。

グリーグのピアノ曲はノルウェーのピアニスト、アイナル・ステーン・ノックレベルグの演奏を世田谷美術館講堂で聴いているが、田部のグリーグはノックレベルグと比べると煌びやかな印象がある。ノックレベルグの素朴さの方がグリーグに近いとは思うが。

ラストはシューベルトの「さすらい人幻想曲」。麗しきさすらい人だ。歌が実に清々しい。

アンコールは3曲。シューベルト作曲リスト編曲「セレナーデ」。しとやかな「セレナーデ」だ。

リスト「リゴレットパラフレーズ」。超絶技巧の曲だが、間然するところがない演奏。

3曲目はシューベルトの「アヴェ・マリア」。テクニック的には簡単だと思うが聴かせる。優しさ溢れる演奏で、幸せに浸れる。

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2020年6月 9日 (火)

配信公演 茂山千五郎家「YouTubeで逢いましょう! part11 三笑会」(文字のみ。アーカイブへのリンクはあり)

2020年6月7日

午後2時から、茂山千五郎家の「YouTubeで逢いましょう! part11 三笑会」を観る。狂言も他の伝統芸能同様、血縁関係による一門が基本となるが、狂言の家に生まれなくても狂言方になる方法も歌舞伎などと同様にあり、東京の場合は国立能楽堂の養成所を経るのが一般的だが、今回のメインとなる三笑会を結成している3人は狂言大蔵流茂山千五郎家に直弟子として入門し、今日に至っている。

三笑会は、茂山千五郎家の血縁ではない網谷正美、丸石やすし、松本薫の3人によって結成された狂言の会である。全員が大卒という共通点がある。

先週から投げ銭制度が採用された「YouTubeで逢いましょう!」。今日も日付に合わせた607円を投げ入れる。千五郎に掛けた1056円や、千作に掛けた1039円を送る人もいる。

 

演目は、「竹生島参」、「水掛聟」、「かけとり」

 

「竹生島参」。出演は、茂山千五郎(主人)、松本薫(太郎冠者)

太郎冠者が今でいう無断欠勤したので、主人は激怒。戻っていた太郎冠者を難詰するのだが、太郎冠者は琵琶湖に浮かぶ「竹生島参」をしたというので、主は興味津々。折檻を加えるはずが、竹生島の話をすれば許すということにする。竹生島は、相模国(今の神奈川県の大半)の江ノ島、安芸国(今の広島県の西側)の厳島と並んで日本三大辯才天の一つであり、芸能の神様(仏様)ということで狂言の家にとっては特別な存在である。

太郎冠者は、竹生島では、スズメが「チチチチチ、父」とカラスに向かって鳴き、カラスが「コカー、子かー」と鳴く「親子でこざる」などと駄洒落を言い、犬が「去ぬ(いぬ)」、猿が「去る」、蛙が「帰る」という掛詞を続けるが、「くちなわ(蛇)」に関しては下らないことしか言えず、主人に怒られるという話である。
オチはないとされるが、辯才天は蛇との関連が深いため、本来は蛇に関してだけは上手いことをいえないとまずいということなのだと思われる。

 

上演終了後、司会進行役の茂山逸平と松本薫のトークがある。
松本は立命館大学入学以降、能と狂言の鑑賞にはまり、自分でチケットを買って、京都や大阪の能楽堂に通うという生活を送っていたそうだが、当時は学生は祖父や狂言サークルなどの人に貰ったチケットで観に来るのが普通であり、狂言サークルなどに入っているわけでもないのに自分で窓口でチケットを買って毎週のように観に来る松本はかなり珍しい存在だったそうで、松本本人は自覚していなかったが、関西の狂言界ではかなり有名な客として知られていたそうである。

京都能楽鑑賞協会という団体の公演ポスターを見つけたのがきっかけで、左京区岡崎にある京都観世会館に出掛けて「安宅」を鑑賞。セリフはよくわからないが、興味を覚えて、1年間は能・狂言の公演に通おうと決めたそうである。それから京都の市民狂言会、その時は京都会館第2ホール(現在は改修されてロームシアター京都サウスホールになっている)での上演だったのだが、2階席で観て十二世(先々代)茂山千五郎に魅せられて、「この人の追っかけをしよう」と決めたそうである。

そして大阪で大阪能楽鑑賞会主催による劇評家の武智鉄二などによる能・狂言の講演が開かれるということで裏方として潜り込ませてもらい、日本装束研究家の切畑健から十二世茂山千五郎を紹介されて、会いに行ったらもう入門するということになっていたそうである。

 

「水掛け聟」。出演:茂山千之丞(聟)、網谷正美(舅)、山下守之(女房)

農民(耕作人)階級の人々が登場人物。
日照りにより聟の田から水が涸れてしまった。ただ隣の舅の田を見ると水が満ち満ちている。舅がこの様を見たら聟の田に水を送るだろうと勝手に決めた聟は、畦を切って自分の田に水を引き入れてしまう(まさに「我田引水」である)。
聟が去った後、舅がやって来て、今度は自分の田には水がなく、聟の田が青々としているのを見て、同じ理屈で自分の田に水を戻してしまう。

舅はその場に隠れ、聟が戻って来て先ほどと同じ事を始めたのを見咎め、水を掛けあう大喧嘩に発展する。

 

網谷正美のトーク。網谷正美は京都大学卒業後、同志社高校などで国語の教師をしており、兼業という形で狂言師を続けてきた。大学在学中に市民狂言会で初めて狂言に出会い、京都学生狂言研究会(KGKK)という狂言サークルに入って八坂神社の能舞台で初舞台を踏む。大学を卒業後すると同時に学校の国語教師となるのだが、当時、茂山千五郎家が病気などで人が足りないということで、入門することになったようである。

 

「かけとり」。茂山逸平作の落語を原作とした現代狂言である。出演は、鈴木実(太郎)、茂山茂(女房)、丸石やすし(大家)、茂山宗彦(もとひこ。酒屋)。エア囃子:島田洋海(ひろみ)。

大つごもりということで、借金を返したりするのに忙しい。家賃も全然払っていないため、太郎と女房は窮するのだが、大家が能好きということで、能を謡って誤魔化そうとする。
太郎はいきなり能楽師の振りをしながら大家の前に現れる。大家は太郎の企みを瞬時に見抜くのだが、結局、能のやり取りをして、うちよりもまず「一門の総帥である千五郎が、そばのそば屋でそばすすっている」ので先に取り立てに行けという太郎の言葉に乗せられるという、謎の展開になる。

その後、酒屋も取り立てに現れるのだが、沢田研二の「TOKIO」ならぬ「TSUKEO」を歌っている。酒屋のモッピー(宗彦)は最近、ジュリー殿と仲が良いので真似をしているのだという。ということで「勝手にしやがれ」の替え歌を太郎と酒屋とで歌い始め、「出て行ってくれ」と歌われた酒屋が「あーあー」歌いながら帰っていくという、カオス状態となって終わる。

ちなみに逸平によるとジュリーファンからの苦情は一切受け付けていないそうである(?)

 

丸石やすしは広島出身。ということで茂山千五郎一門の中で唯一のカープファンである。広島商科大学(現・広島修道大学)卒業後、東洋工業(現・マツダ。広島東洋カープの東洋である)に総務として就職するが、元々芸人志望だったということもあって勤め人が水に合わずに退社。その後、落語家や芸人を目指して桂米朝の追っかけなどをしていたが、狂言を初めて観て面白さに目覚め、当時は茂山千五郎家の電話番号が本名で電話帳に載っていたため、電話しところ、大阪能楽鑑賞会で講座をやるから、それを観てやる気があるなら弟子入りを許可するので観世会館に来いといわれて、入門したそうである。

 

アーカイブ https://www.youtube.com/watch?v=88819Q8kdoE

 

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2020年6月 8日 (月)

これまでに観た映画より(181) 矢口史靖監督作品「スウィングガールズ」

2004年11月4日 京極東宝にて

京極東宝で矢口史靖(やぐち・しのぶ)監督の「スウィングガールズ」を観る。
京極東宝は歴史ある映画館だがシートは新しく座りやすくなっている。足下にも余裕がある(2006年閉館)。

出演、上野樹里、貫地谷しほり、本仮屋ユイカ、白石美帆、平岡祐太、小日向文世、渡辺えり、佐藤二朗、福士誠治、竹中直人

「ウォーターボーイズ」でメジャーになった矢口監督だが、これはその女の子版。ジャズバンド版スポ根風青春劇である。
主人公の名は相変わらず鈴木さんだ。「ウォーターボーイズ」の鈴木君(妻夫木聡)は情けない男だった。「スウィングガールズ」の鈴木さん(上野樹里)も駄目駄目系だが鈴木君とは違い、自分から積極的に道を切り開く女の子だ。
最初は勉強は出来ないし、パソコンも苦手な取り柄のないどうしようもない女の子だったのだが、ジャズに取り憑かれてからは見違えるほど魅力的になる。

一番駄目そうな女の子、関口(本仮屋ユイカ)が一番上達が早いのも面白い。
鈴木さんの表情は以前何度も見たことがある。多分矢口監督が指導したのだろう。

いつもの通り、変な子どもも登場。野球応援に行けなくなった鈴木さん達が泣くシーンは悲しいのだが、これまたおばあちゃんがナイスボケ。笑いに転じている。ストップモーションも最高だ。

カメラワークにも愛情が感じられる。ブラスを真横から撮るのはヘルベルト・フォン・カラヤンがよく演出に用いた方法だが、ブラスが最高に格好良く映るのだ。

スウィングガールズの演奏も凄い。徹底して練習したのだろう。クライマックスの「シング・シング・シング」における客のノリは映画「ベニー・グッドマン物語」を彷彿とさせる。

予想を遙かに上回るご機嫌な映画である。評判はいまいちだそうだけれど、この映画の良さがわからない人は自分で道を切り開いたことのない人だろう。
あり得ない話かも知れないが、いいじゃないか、フィクションなんだから。

「この世の中には二種類の人間がいる。成し遂げる者と諦める者だ」(劇中より)
運も間も悪い女の子達なのだが、諦めずに転がっていればいいことにぶつかる。メッセージと希望が溢れている。これほど観ていて幸せになれる映画もそうはない。

伊丹弥生先生はガールズ達に言ったのと同じジャズ観を小澤先生にも言ったのだろうな。

珍しくパンフレットを買ってしまう。映画のパンフレットを買うのは京都に来てからは初めてではないだろうか。

映画館を出ると周りの風景がいつもよりずっと美しく感じられる。鴨川も北山も東山も夢の中の光景のようだ。

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2020年6月 6日 (土)

配信公演 浅草九劇オンライン 柄本明ひとり芝居「煙草の害について」(劇評。文字のみ。関連リンクはあり)

2020年6月5日 東京の浅草九劇からの配信

午後7時30分から、オンライン型劇場に模様替えした浅草九劇の配信公演、柄本明ひとり芝居「煙草の害について」を観る。事前申込制の有料公演である。配信はVimeoを使って行われる。

配信公演への入り口となるURLは開演1時間ほど前に送られて来たのだが、メールソフトの調子が今日もおかしく、HTML形式のメールの画像がダウンロード出来ないので、返信やら転送やらのボタンを押して、無理矢理別の形式に置き換えて見る。返信を押した場合、更に「返信をやめる」を押すのだが、それでも返信されてしまう場合がある。

 

午後7時開場で、その直後に配信画面に入ったのだが、ずっと暗闇が続く。「LIVE」と視聴者数の文字は出ているので動いていることは確かだが、午後7時30分丁度になっても暗闇のままなのでブラウザの更新ボタンを押す。そのためか、あるいはそれとは関係なく配信の時間が来たからなのか、画面に舞台の背景が映る。臨場感を増すため、フルスクリーンにして視聴する。

 

「煙草の害について」は、アントン・チェーホフが書いた一人芝居である。オリジナルに近い形での上演は、MONOが京都芸術センターで行った「チェーホフは笑いを教えてくれる」というチェーホフの短編を連作にした作品の中で水沼健(みずぬま・たけし)が演じたものを観たことがあるのだが、上演時間が20分弱という短いものであるため、今回はチェーホフが書いた他の戯曲のセリフや歌などを加えて、上演時間1時間前後に延ばしたテキストを使用しての上演である。柄本版「煙草の害について」は、1993年初演で、書き直しを行いながら何度も上演を重ねているが、私は観るのは今日が初めてである。

柄本明が演じるのは、妻が経営する全寮制女子音楽学校の会計係兼教師であるが、恐妻家であり、今いちパッとしない男である。着ているベストも継ぎ接ぎだらけだ。

妻に命令されて、無理矢理「煙草の害について」というタイトルの健康に関する講演をすることになったのだが、彼自身は喫煙者であり、煙草の害に関する知識は辞書などで得たもの以外にはさほどない。当然ながらやる気もない。

音楽学校の生徒全員分のホットケーキを焼くよう妻に命じられて作ったのだが、体調不良で5人が食事をキャンセルしたため、妻から5人分を一人で食えと命じられ、食べ過ぎで体調不良である。妻からは「かかしんぼ」と呼ばれることがあり、かなり侮られている。

 

本編に入る前に、柄本明はアコーディオンを弾きながら榎本健一の楽曲「プカドンドン」(もしくは歌詞違いの「ベアトリ姉ちゃん」。サビの歌詞が一緒なので判別出来ず)を歌う。伴奏と歌がかなりずれることもあるが、あるいは浅草での上演ということでエノケンへのリスペクトも込めて歌われたのかも知れない。

体調が悪いので、持ってきた原稿の1枚目に向かってくしゃみをしたり、もうちょっと汚いものが出たため、それを丸めて棄てたのだが、実はそれが「煙草について調べた内容を書き記したメモ」だったため、それに気づいて、汚いのを承知で拾い、広げて読み上げるのだが、出したものでインクが滲んでしまい、上手く読めない。「イタリえば」と読んだが、実は「例えば」だったり、「中洲」という博多の繁華街ネタが始まるが、実際は「中枢神経」と書かれたものだったことが直後に判明したりする。男は「学がない」と自己紹介をしていたが、最後の辺りで「若い頃は大学で学問に励んだ」という話をしたり、音楽学校で理系から文系までの教養科目を幅広く教える能力があるため、謙遜しただけで、今は冴えないが少なくとも若い頃はかなり優秀と見られた人物であるらしいことがわかる。ちなみに彼の奥さん(「三人姉妹」に登場する怪女・ナターリヤの要素を入れている)は友人とフランス語で話すが、男の悪口を言うときはロシア語になるということが語られる場面があるのだが、帝政ロシア時代はかなり徹底したフランス指向の影響で上流階級はロシア語でなくフランス語を話していたという事実があり、奥さんもフランス語が話せて音楽がわかるということからハイクラスの出身であることがわかり、そうした女性と結婚出来た男も同等の階級出身である可能性が高い。あるいは彼も優れた才能と身分に恵まれながら時代の壁に阻まれて上手く生きられなかった「余計者」の系譜に入るのかも知れない。

「いざ鎌倉。鎌倉はどっち? ここは浅草だから」という話が出てきたり、「休憩」と称して下手隅にある椅子に腰掛けてバナナを食べた後で、ぶら下がっている紐に首を入れて揺らし、縊死するかのように見せた後で「ゴンドラの唄」を歌い、黒澤映画の「生きる」をモチーフにした演技を見せるなど、日本的な要素もちりばめられている。

とにかく妻や娘から軽視されているというので愚痴が多く、「誰でも出来る」結婚しか出来なかった(ただ今の人にとっては、結婚自体が高望みになりつつある。私も結婚していない。「私にも妻がいればいいのに」)不甲斐なさを述べるのだが、柄本明自身が奥さんである角替和枝を亡くしているということが透けて見えるような愛情吐露の場面もあり、妙に切なかったりする。

途中で後ろの方に座っていた学生風の若者が勝手に退出しようとしたのを見とがめたり、女子音楽学校の校則などの紹介が載っている本を客席に向かってロシア通貨で販売しようとする場面があったり(今回は無観客上演なので誰もいない)とステージ上だけでない空間の広がりを生む演技もある。

ラスト付近ではラヴェルの「ボレロ」が流れ、妻の影絵が浮かび、転調を伴う狂乱の内に芝居は終わる。

 

上演終了後、柄本は無人の劇場で演じるのは初めてだと語り、文化は生きることと同等であり、なくてはならないもの。なくなったら死んでしまうと熱いメッセージを語った。

 

初の配信ということもあってか、映像が時折途切れたりする。こちらの回線が悪い時もあったかも知れないが、スローモーションになった時には視聴者数が一気に20人ほど減ったため、観るのを諦めたかいったんログアウトしたかで、他の人が観ている映像にも問題が生じていることが察せられた。その後、観客数が一気に増え、ほどなくして画面も動き出した。

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2020年6月 5日 (金)

これまでに観た映画より(180) 王家衛(ウォン・カーウァイ)監督作品「天使の涙(堕落天使)」

2004年11月2日

ビデオで「天使の涙」を観る。1996年日本公開の香港映画。王家衛(ウォン・カーウァイ)監督作品。王家衛の登場で香港映画のイメージがカンフー映画からポップな先鋭作品に変わってしまった気がする。この映画を私は渋谷のスペイン坂の上にあったシネマライズで2度観ている。

出演:金城武、レオン・ライ、ミシェル・リー、チャーリー・ヤン、カレン・モク。撮影監督:クリストファー・ドイル。

殺し屋とそのエージェンシーの女、そしてパイナップルの食べ過ぎで口がきけなくなった青年の怖ろしく孤独な三人を描く。もともとは「恋する惑星」の第3エピソードであったが、長すぎたため独立したようだ。パイナップルの食べ過ぎで口がきけなくなった青年を演じているのは金城武。前作「恋する惑星」のあのシーンからのパロディ。役名も同じくモウだが別人だ。

広角レンズを使って場面を歪めている。

エージェンシーの女(ミシェル・リー)は殺し屋(レオン・ライ)に恋心を抱いている。しかし彼女は不器用でたまに殺し屋に会っても満足に話すことも出来ない。殺し屋の部屋から出されたゴミを漁って内容を確認するような危なさも持っている。彼女が自慰にふける場面は話題になったが、性格からいって彼女に本当に男性経験があるのかどうかはわからない。

殺し屋もまた不器用な男で人と上手く渡り合えない。常に受け身の性格であり、殺し屋になったのも頼まれた殺しをすればいいだけという理由である。自分から人生を選ぶために積極的に行動した経験がほとんどないようだ。エージェンシーの女と別れて、他の女(カレン・モク)と付き合うが、結局、彼は誰も愛せない男のような気もする。

金城武演じる青年がこれまた困ったことに夜中に勝手に他人の店を開けて商売を始め、路上の人を無理矢理店に入れてものを売りつけたり、勝手に散髪をして金を脅し取ったりしている。

コミュニケーション不全が大きなテーマとなっている。

鏡に映る自分をのぞく場面は内面の自己とのにらめっこだ。自己とは対話を交わすのに、他人とは心を交わせない。

エージェンシーの女は殺し屋を裏切り、青年も初恋の女性にあっさりと捨てられる。初恋の女性(チャーリー・ヤン)や殺し屋を誘う女性(カレン・モク)は、みな変わっているものの積極的に人と関わろうとしているのだが、三人の主人公は美男美女なのに他者との交流が出来ない。
青年のバイクの後部座席に座りながら生まれて初めて「永遠の温かさ」を知るエージェンシーの女。椎名林檎の世界のようだ。

金城武がセリフ一切なしという難役に挑んで成功している。かなりアドリブが多かったそうだ。

殺し屋を演じるレオン・ライが格好いい。男前で凄みがあるが濃い影を持つ男を好演している。

映像も美しい。おなじみクリストファー・ドイルのカメラワークも見所の一つ。

「恋する惑星」のパロディが数カ所あるがいずれも笑える。

どこもかしこも、「ほぼ完璧」の水準に達している。香港ニューウェーブの最高傑作に挙げたい。

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南野陽子 「思いのままに」

南野陽子がキーボード弾き語りを行っている比較的珍しい映像

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2020年6月 2日 (火)

これまでに観た映画より(179) 「俺たちに明日はない」

2020年6月1日 TOHOシネマズ二条にて

TOHOシネマズ二条で、「俺たちに明日はない」を観る。アメリカン・ニューシネマの代表的作品の一つ。原題の「Bonnie and Clyde」も有名である。同じアメリカン・ニューシネマの代表作で実在の銀行強盗を題材にしていること、また邦題やラストシーンが似通っていることから「明日に向かって撃て!(原題「Butch Cassidy and Sundance Kid」)と混同されやすい作品でもある。

アーサー・ペン監督作品。出演:ウォーレン・ベイティ、フェイ・ダナウェイ、マイケル・J・ポラード、ジーン・ハックマン、エステル・パーソンズ、ダブ・テイラーほか。ウォーレン・ベイティはこの映画の企画立案者でもあり、プロデューサーも務めた。

ボニー・パーカー(フェイ・ダナウェイ)は、母親の車を盗もうとしていた男を見とがめる。男の名はクライド・バロー(ウォーレン・ベイティ)。強盗によって服役し、出てきたばかりの男だった。アメリカの中でも特に保守的といわれるテキサス州。それも田舎町である。人は子孫を残すための繋ぎとして生きるしかないようなところがある。平凡な人生に飽き飽きしていたボニーはクライドの運転する車に乗り、強盗に協力する。相当な男前であるクライドに惹かれるボニーだったが、クライドはゲイで女には興味がないことを打ち明ける。男女の幸せに至ることはないということがこの時点でわかるのだが、ボニーは家に戻ることはなかった。二人は故障した車の修理を頼んだC・W・モス(マイケル・J・ポラード)という少年院帰りの少年やクライドの実兄であるバック(ジーン・ハックマン)とその妻のブランチ(エステル・パーソンズ)を引き入れて強盗団を結成する。

日本でも最近、ヤンキー指向やマイルドヤンキーという言葉が使われるようになっている。地元を愛し、身内を愛し、権威やよそ者を嫌うという傾向を持つ人々である。ヤンキーというのは元々はアメリカ人のこと(南北戦争の北軍の兵士のことだが、蔑称として用いられることもある。日本の「ヤンキー」は大阪のアメリカ村にたむろする不良を指すスラングが始まりとする説が有力である)であるが、実際にアメリカの田舎の保守層の性格によく似たところがある。クライドは同じように搾取される境遇にある人々には共感を示すし、事実、彼に出会った老人は警察に対して好意的な証言をしている。また兄のバックとはとても仲が良い。バックは冗談を言うのだが、聞いていて何が面白いのか正直わからない。だが、クライドは大笑い。レベルの低さで通じ合っている、つまり生まれた家自体が有用な知識を得る機会に恵まれなかった層にあったことがはっきりする。実際、バックも刑務所に入った経歴のあることが妻のブランチの口から明かされる。知識や教育の平等が担保されない「夢の国」アメリカの影である。

だが、ボニーとクライドは、故郷に留まらず、アメリカの州境を車で何度も越えていくという生活を選ぶ。越境である。生まれ故郷の桎梏を棄て、新天地へと飛んでいく。アメリカン・ドリームの体現者といえないこともない。いや、いえないか。ただ、アメリカン・ドリームを求めた若者の一側面をよく表しているとはいえるだろう。彼らはテキサス州から隣のオクラホマ州に何の躊躇もなく入っていける。一方で、権威や旧体制を表す警察は州の境を越えることは出来ず、テキサス州警察(テキサス・レンジャー)はオクラホマとの州境は越えたが、すぐに引き返すしかない。アメリカの州は国家並みの権限を持つため、州警察は州境を越えての捜査が出来ないのである。そのため後にFBIが生まれることになるのだが、境を越える行為において、ボニー&クライドと警察に代表される体制派の思考や指向の違いが象徴的に描かれている。

ただ、一方で二人は故郷喪失者でもある。母に会いたいということでテキサス州に戻るボニーだったが、母親からは冷たくされる。事実上、棄てられるのである。デラシネとなった二人は州から州へと渡り歩くしかない。今いる州から別の州へと移って行く未来を嬉々と語るクライドにボニーは露骨に失望の表情を見せる。強盗なんてするからではあるのだが、「アメリカン・ドリーム」や「ゴー・ウエスト」といった言葉に乗せられて夢破れていった多くの若者の一形態を暗示してもいる。

女を愛せないクライドであるが、ラストが近づくにつれてボニーを愛する人と認め、愛する人のために怒り、性的な関係を結ぶまでになる。所詮、悪党には届かぬ夢ではあるのだが、これまでのことを全て帳消しにして二人で幸せになるという夢を描くボニー。何の知識も持ち合わせていなかったら、二人は仲の良い夫婦にしか見えなかったかも知れない。

ラストシーンは「最も衝撃的な映画のラスト」の一つとしてよく挙げられるもので、「俺たちに明日はない」という映画を観たことのない人でも、ラストシーンは知っているというケースはよくある。冷静に考えると悪党の男女が当然の報いを受けたというだけなのかも知れないが、二人が夢を語り合ったシーンの直後だけに切なくなる。


夢と希望と自由の国、アメリカが生んだ映画は、祖国の偉大さを描くプロパガンダ的なものも多かったが、アメリカン・ニューシネマは、それとは対称的に社会からこぼれ落ちてしまったものを描く。後に建国史上初の敗北を迎えることになるベトナム戦争が続いており、格差は開く一方で、人種差別問題や犯罪の多発に悩まされていたアメリカ。若者達は祖国に疑問を抱く。そのため「俺たちに明日はない」のみならず、「明日に向かって撃て!」、「イージー・ライダー」、「真夜中のカウボーイ」などの登場人物はいずれも悲劇的な最期を迎える。社会は若者の夢など許さない。その時代の空気は、平成時代を丸々覆った閉塞感溢れる日本の現状に繋がる。近年の日本は保守的な若者が増えているとされるが、こうした時代にあってもアメリカン・ニューシネマは若者達のバイブルの一つとして支持され続けるだろう。

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2020年6月 1日 (月)

遠隔強制時代の一人芝居上演案

以下のような案です
 
 ミニシアターで行われているように、俳優や劇団が好きな劇場と契約して、zoomなりYouTubeライブなりを使った公演を行う。行う場所は劇場でなくてもよい、というより今はまだ劇場を本格的に稼働させることは不可能だろうから、ある程度の広さがあれば自宅でも良い。劇場とは契約を結ぶだけである。一人芝居の場合は狭い場所でも行える作品ある。

 zoomなら前払い制度、YouTubeなら投げ銭制度がある。ミニシアターは「仮設の映画館」として視聴者が好きな映画館を選んで料金を制作者側と分けたが、演劇の場合は先に書いたと通り演じ手が支援したい、協力したい劇場を選んだ方が良いだろう。ソーシャル・ディスタンスを保って演技を行うのは難しい。別画面での演技を行うのも良いが、それが演劇的といえるかどうかだが、一人芝居なら純粋に演劇的といえる表現は可能である。

 一人芝居は難しく、それでいて複数の出演者が出る芝居より面白くなる可能性は低く、孤独な作業で、一人の魅力が全て、そしも責任は一人で負うためやりたがらない人も多いが、私は個人的には一人芝居を観るのは好きだ。

 加藤健一の「審判」、新妻聖子の「青空!!」、柄本明の「風のセールスマン」、風間杜夫の「カラオケマン」など一連の牛山明シリーズ、佐々木蔵之介の「マクベス」一人芝居版(厳密にはセリフのない俳優が他に二人出演)、白井晃の「アンデルセン・プロジェクト」、実質的に一人芝居といえる中谷美紀の「猟銃」(セリフのない出演者がいる)、戸田恵子の「なにわバタフライ」、井上芳雄の「夜と霧」や「沖田総司」(半朗読半一人芝居)、市村正親の「海の上のピアニスト」(市村正親はピアノを弾けないので、稲本響がピアノを担当)、鈴木京香の「声」(ピアノ伴奏版でプーランク作曲のオペラ上演も出来るかも知れない)など、思いつくだけでもこれだけ魅力的な芝居がある。

 遠隔には向かない一人芝居もありますが、どうです、チャレンジしてみませんか? 実は東京都内だけで、俳優を職業にする人は30万人ほどいるといわれています。そのうち、いつもテレビに出ているような人は100人ぐらいと厳しい世界なのですが、一人芝居なら、良い本を見つけて最高の演技を見せればチャンスを掴める可能性は他のことをするよりも高まります。配信が出来る技術と自己プロデュースが鍵となりますのでコネは余り要りません。他人にキャリアを邪魔されたりもしません。

 私は自分で書いた作品以外では、志賀直哉の短編小説「クローディアスの日記」を基にしたものなどをやってみたいですね。志賀直哉は著作権が切れていませんし、演技の才能はないので、実際にはやりませんけれど。

 若手女優さんがYouTubeでお菓子作りにチャレンジの映像を上げていたりして、それもファンサービスとしていいのでしょうが、演技が見たいんです。せっかく才能に恵まれているのですから。佐々木蔵之介の「マクベス」のように翻案を行って、一人で全員の役を演じてしまうのもいい。私なら有料でも観ますよ。

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