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2020年6月 2日 (火)

これまでに観た映画より(179) 「俺たちに明日はない」

2020年6月1日 TOHOシネマズ二条にて

TOHOシネマズ二条で、「俺たちに明日はない」を観る。アメリカン・ニューシネマの代表的作品の一つ。原題の「Bonnie and Clyde」も有名である。同じアメリカン・ニューシネマの代表作で実在の銀行強盗を題材にしていること、また邦題やラストシーンが似通っていることから「明日に向かって撃て!(原題「Butch Cassidy and Sundance Kid」)と混同されやすい作品でもある。

アーサー・ペン監督作品。出演:ウォーレン・ベイティ、フェイ・ダナウェイ、マイケル・J・ポラード、ジーン・ハックマン、エステル・パーソンズ、ダブ・テイラーほか。ウォーレン・ベイティはこの映画の企画立案者でもあり、プロデューサーも務めた。

ボニー・パーカー(フェイ・ダナウェイ)は、母親の車を盗もうとしていた男を見とがめる。男の名はクライド・バロー(ウォーレン・ベイティ)。強盗によって服役し、出てきたばかりの男だった。アメリカの中でも特に保守的といわれるテキサス州。それも田舎町である。人は子孫を残すための繋ぎとして生きるしかないようなところがある。平凡な人生に飽き飽きしていたボニーはクライドの運転する車に乗り、強盗に協力する。相当な男前であるクライドに惹かれるボニーだったが、クライドはゲイで女には興味がないことを打ち明ける。男女の幸せに至ることはないということがこの時点でわかるのだが、ボニーは家に戻ることはなかった。二人は故障した車の修理を頼んだC・W・モス(マイケル・J・ポラード)という少年院帰りの少年やクライドの実兄であるバック(ジーン・ハックマン)とその妻のブランチ(エステル・パーソンズ)を引き入れて強盗団を結成する。

日本でも最近、ヤンキー指向やマイルドヤンキーという言葉が使われるようになっている。地元を愛し、身内を愛し、権威やよそ者を嫌うという傾向を持つ人々である。ヤンキーというのは元々はアメリカ人のこと(南北戦争の北軍の兵士のことだが、蔑称として用いられることもある。日本の「ヤンキー」は大阪のアメリカ村にたむろする不良を指すスラングが始まりとする説が有力である)であるが、実際にアメリカの田舎の保守層の性格によく似たところがある。クライドは同じように搾取される境遇にある人々には共感を示すし、事実、彼に出会った老人は警察に対して好意的な証言をしている。また兄のバックとはとても仲が良い。バックは冗談を言うのだが、聞いていて何が面白いのか正直わからない。だが、クライドは大笑い。レベルの低さで通じ合っている、つまり生まれた家自体が有用な知識を得る機会に恵まれなかった層にあったことがはっきりする。実際、バックも刑務所に入った経歴のあることが妻のブランチの口から明かされる。知識や教育の平等が担保されない「夢の国」アメリカの影である。

だが、ボニーとクライドは、故郷に留まらず、アメリカの州境を車で何度も越えていくという生活を選ぶ。越境である。生まれ故郷の桎梏を棄て、新天地へと飛んでいく。アメリカン・ドリームの体現者といえないこともない。いや、いえないか。ただ、アメリカン・ドリームを求めた若者の一側面をよく表しているとはいえるだろう。彼らはテキサス州から隣のオクラホマ州に何の躊躇もなく入っていける。一方で、権威や旧体制を表す警察は州の境を越えることは出来ず、テキサス州警察(テキサス・レンジャー)はオクラホマとの州境は越えたが、すぐに引き返すしかない。アメリカの州は国家並みの権限を持つため、州警察は州境を越えての捜査が出来ないのである。そのため後にFBIが生まれることになるのだが、境を越える行為において、ボニー&クライドと警察に代表される体制派の思考や指向の違いが象徴的に描かれている。

ただ、一方で二人は故郷喪失者でもある。母に会いたいということでテキサス州に戻るボニーだったが、母親からは冷たくされる。事実上、棄てられるのである。デラシネとなった二人は州から州へと渡り歩くしかない。今いる州から別の州へと移って行く未来を嬉々と語るクライドにボニーは露骨に失望の表情を見せる。強盗なんてするからではあるのだが、「アメリカン・ドリーム」や「ゴー・ウエスト」といった言葉に乗せられて夢破れていった多くの若者の一形態を暗示してもいる。

女を愛せないクライドであるが、ラストが近づくにつれてボニーを愛する人と認め、愛する人のために怒り、性的な関係を結ぶまでになる。所詮、悪党には届かぬ夢ではあるのだが、これまでのことを全て帳消しにして二人で幸せになるという夢を描くボニー。何の知識も持ち合わせていなかったら、二人は仲の良い夫婦にしか見えなかったかも知れない。

ラストシーンは「最も衝撃的な映画のラスト」の一つとしてよく挙げられるもので、「俺たちに明日はない」という映画を観たことのない人でも、ラストシーンは知っているというケースはよくある。冷静に考えると悪党の男女が当然の報いを受けたというだけなのかも知れないが、二人が夢を語り合ったシーンの直後だけに切なくなる。


夢と希望と自由の国、アメリカが生んだ映画は、祖国の偉大さを描くプロパガンダ的なものも多かったが、アメリカン・ニューシネマは、それとは対称的に社会からこぼれ落ちてしまったものを描く。後に建国史上初の敗北を迎えることになるベトナム戦争が続いており、格差は開く一方で、人種差別問題や犯罪の多発に悩まされていたアメリカ。若者達は祖国に疑問を抱く。そのため「俺たちに明日はない」のみならず、「明日に向かって撃て!」、「イージー・ライダー」、「真夜中のカウボーイ」などの登場人物はいずれも悲劇的な最期を迎える。社会は若者の夢など許さない。その時代の空気は、平成時代を丸々覆った閉塞感溢れる日本の現状に繋がる。近年の日本は保守的な若者が増えているとされるが、こうした時代にあってもアメリカン・ニューシネマは若者達のバイブルの一つとして支持され続けるだろう。

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