配信公演 THEATRE E9 Air オープニングプログラム参加作品 MTCproject 関根淳子オンライン一人芝居「わたし」発達障害女子の当事者演劇(文字のみ)
2020年7月19日
午後1時から、THEATRE E9 Airのオープニングプログラム参加作品MTCproject「わたし」(発達障害女子の当事者演劇)オンラインバージョンを観る。京都の東九条にあるTHEATRE E9によるZoomを使っての配信公演である。SPAC(Shizuoka Performing Arts Center 静岡県舞台芸術センター)所属の女優である関根淳子の一人芝居。脚本(脚色)・出演:関根淳子、原作・演出:増田雄(MTCproject)。振付:相良ゆみ。音楽:度会美帆。
大阪を拠点に活躍している増田雄が発達障害普及のための芝居を依頼され、一人芝居として書き上げたもので、自身が初演も行っている。2016年初演。元々のタイトルは漢字で「私」であった。増田自身もADHD系の診断を受けているそうである。
というわけで、元々は男優による一人芝居だったのが、それを観た発達障害の当事者でもある関根淳子が刺激を受け、当事者性に関する論文を書いている時に「私」を女優の一人芝居にトレースすることを思いつき、コロナ禍の自粛期間に書き上げたという。本来は6月に大阪で初演されるはずだったのだが、コロナのために流れ、THEATRE E9による配信公演を行うことになった。
カメラワークやライティングなどを万全にするためだと思われるが、上演本編は静岡市内にあるあそviva!劇場で収録したものが流され、上演時間も48分とはっきりしている。その後、増田雄と関根淳子による対談がリアルタイムで配信される。増田は大阪からの、関根は静岡からのZoom出演となる。
関根淳子は、発達障害(10年ほど前の診断で、当時のアスペルガー症候群、現在のASD。ADHD傾向もあるそうである)の当事者であるが、東京大学卒業であり、SPAC芸術総監督の宮城聰の後輩。高学歴である。発達障害と知的障害は混同されることが多く、長崎県の某私立高校に通う女子生徒が教師から「障害者の通う学校じゃない」と暴言を吐かれたという事件が起きた時に、「発達障害だからどうせ勉強苦手でしょう」などという推測による書き込みが散見されたが、発達障害の知的能力は個々でバラバラであり、高IQの人もいれば、知的障害と重なる人もいる。天才肌の人もいるが、残念ながら極々少数に限られる。知的障害と名称が異なるということは当然別の障害であり、知力というよりもどちらかというとコミュニケーション能力に難のあるケースが多い。「反復を好む」という性質を持つ人もいて、それが学習面において発揮された場合はむしろ受験においては有利に働く。発達障害当事者は学生時代には問題が顕在化されない場合もあり、障害が自覚されるようになるのは就職が機になることが多い。学生時代は勉強が出来ると人間関係に躓きはあっても評価はされることが多いため、落差に苦しむ人もいる。
発達障害というと漠然としたイメージであり、区分も様々であるが(DSMとICDという二つの基準がある)、現在の日本の診断基準では3つに大きく分かれており、「自閉症スペクトラム(ASD)」(知的障害を伴わない自閉症である「アスペルガー症候群」も今では名称自体が医学では用いられなくなり、ここに分類される)、「学習障害」(知能指数全体には問題がないが、特定の分野だけを不得手とする)、「ADHD」(多動、不注意などが顕著)となる。複数の障害を抱えている人もいる。アスペルガー症候群という名称が医学用語からなくなったことからも分かる通り、区分が大きく変わることがあるのも特徴である。
原作の一人芝居「私」は、「このままでは就職出来ない」と悩む男子大学生が主人公だったようだが、関根淳子が脚色した「わたし」は、専門学校を卒業してカフェで働くフリーターという設定である。障害自体は今では用いられないがアスペルガーもしくはそのグレーゾーンになるようだ。
主人公の女性はカフェでアルバイトを続けていたが、他の店員とコミュニケーションが取れず、仕事も休みがちとなり、今では半ば引きこもり状態となっている。そんな彼女のアパートの部屋にもう一人の「わたし」が発達障害のためのマニュアルを持って現れるという話である。女性には彼氏がいるのだが、今のままではそれも上手く行きそうにない。
アフタートークでの関根の発言によると、男性版の「私」にとっての一番の問題は就職であるが、関根自身が過去を振り返った場合、恋愛が一番であったということで、そこが一番大きく変えたところだという。
マニュアルを得た女性は、同じくマニュアルを持った定型発達の人(いわゆる普通の人)達から配慮して貰えるようになり、人生が上手く運ぶかに見えたのだが、定型発達の人からの配慮が、「なになにしてあげてる」、「寛大だから受け入れてあげてる」、「私たちはあなたを理解している」という上からの視点によるもの(一種のパターナリズム)であることが、1年後に現れた過去の「わたし」によって明かされていく。主人公の女性は関根本人とは違って高学歴ではないし、勉強も苦手、人から言われたことをそのまま受け取ってしまうため騙されやすいという難点も抱えている。発達障害がプラスになっているところはほとんどない。
鬱状態の中で女性は子どもの頃、物語を作るのが好きだったということを思い出す。やがて物語はハンス・クリスチャン・アンデルセンの「人魚姫」の話になり、子どもの頃の主人公の女性が現れて(夢なのか記憶なのか、比喩なのかインナーチャイルドなのかは明かされない)結末へと向かう。
代表的な症状に「スペクトラム(連続体)」という名称が与えられていることから分かる通り、発達障害には「典型的な症例」というものは存在せず、個々で抱えている問題も能力も異なる。そのため理解されにくいのであるが、あたかもわかったかのように、実在しない「イメージ」への対処法をされることで問題は更に根深く大きくなっていく。
アフタートークで増田は、発達障害普及のための演劇が、精神保健福祉士の方から精神保健福祉士を目指して学んでいる学生が観るための演劇を書いて欲しいとの依頼で書かれたことを明かし、「発達障害を学んでいる学生なら、僕よりも発達障害に詳しいんじゃないですか?」と聞いたところ、「学んでいた時と、実際の当事者に接した時に感じるギャップが大きい」ということで、ならいっそのことわかりやすくするのではなく、その溝を真っ正面から見つめる作品にしようということで「私」が書かれたそうである。
当事者演劇ではあるが、描かれているのは典型的な症例ではなく、あくまで当事者の一個人「わたし」である。
「人魚姫」が劇中に引用されていることから(「人魚姫」を引用したのは関根淳子であり、増田雄の原作バージョンでは「えら呼吸が出来ない魚」の話だったそうである。レオ・レオニの「スイミー」が発想の元になったそうだ)、私は以前、兵庫県立芸術文化センター中ホールで観た白井晃の一人芝居「アンデルセン・プロジェクト」を思い出し、アフタートークの時にチャットに書いたのだが、増田も「アンデルセン・プロジェクト」は観ているそうである(先にも書いたとおり、「人魚姫」を引用したのは関根なので、増田が「アンデルセン・プロジェクト」から影響を受けたわけではない)。故人を障害認定することは実際は慎まなければならないことなのだが、ハンス・クリスチャン・アンデルセンは、明らかに何らかの障害の持ち主であった。当時は発達障害という概念自体がなく、実際にそうだったのか判断は不可能なのであるが、アンデルセンは「人と違うこと」に生涯に渡って苦しんだことは確かであり、その苦しみを童話として昇華させている。そうしたアンデルセンの心情に迫ったのが、「アンデルセン・プロジェクト」という作品であった。
「アンデルセン・プロジェクト」の主人公は、才気溢れる作詞家・劇作家なのであるが、白子(差別用語だがこの言葉が劇中で用いられていた)であるため、親しい友人からも裏では馬鹿にされているという設定である。差別されて当然の存在だけれど、自分達が寛大だから受け入れて「あげている」と思われていたのである。そこが生涯一人の伴侶も持てなかったアンデルセンの姿に繋がる。
アンデルセンが苦しみを童話や文学作品へと昇華したように、当事者達も何かを見つけていくのかも知れない。あるいは屈することも、一敗地に塗れることもあるのかも知れない。答えはない。「答えがあると思うこと自体が決めつけ」であり「そうではない人々の奢り」だからである。
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