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2020年8月の8件の記事

2020年8月 5日 (水)

京都芸術センター ティディエ・テロン 「ラスコリニコフの肖像」

2005年8月28日 京都芸術センターフリースペースにて

京都芸術センターのフリースペースで、フランス人のダンサー、ディディエ・テロンの公演がある。テロンは今年5月に、アトリエ劇研で行われた、「GEKKEN dance selection」にも参加しており、詰め襟の学生服を着たユニークなダンスで会場を沸かせている。
今回、テロンが演じるのは、「ラスコリニコフの肖像」という作品。なによりもタイトルに惹かれる。というより、タイトルが気になって見に行ったようなものだ。ラスコーリニコフ(ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公)は、私がもっとも関心を寄せている小説中の人物の一人である。

「ラスコリニコフの肖像」の上演時間は25分ほど。テロンは滑らかで勢いのある「動」の部分と、緊張感漲る「静」の部分を演じ分ける。ノイズが観客の耳の中に入り込んできて、ラスコリニコフの焦燥感が、こちらの心にもダイレクトに伝わるかのようだ。もちろん、テロンのことなので、ユーモアにも欠けていない。
そして、突然、ノイズをかいくぐるように、J・S・バッハの『マタイ受難曲』の冒頭部分、「来たれ、娘達よ。我とともに嘆け」が流れ始め、やがてその曲が会場を支配する。殺人を犯した自分への慰めなのか、救いの響きなのか。

『罪と罰』という小説の中で、最も印象深かった、大地への口づけのシーンがあったのかなかったのかはわからない。それらしいシーンはあったが、あくまで、「それらしい」シーンであった。ただ、それが大地への口づけでなかったとしても、慚愧と悔恨の(ような)感情は上手く表現されていたと思う。

ラストでジーン・ケリーの「雨に唄えば」が流れるのは、少々、能天気な気がするが、演出意図はなんとなくわかる。


舞台公演を観るというのは疲れるものだ。何といっても舞台上から演じ手のエネルギーがビュンビュン飛んでくる。それを受け止めなけれならない。当然、こちらにも相応のエネルギーは必要であり、疲弊する。

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野田秀樹の「赤鬼」初演時映像を観て

2005年8月26日

ビデオで、野田秀樹作・演出の「赤鬼」を観る。1996年、東京・渋谷にあったパルコ・スペース・パート3での初演時の収録。出演は、野田秀樹、富田靖子、段田安則、アンガス・バーネット。野田とアンガスは、野田がイギリス留学時に参加したサイモン・マクバーニーのワークショップで出会ったそうだ。
異人種との間に横たわる溝を、都市伝説「海亀のスープ」などを絡めながら描く。

96年に季刊誌「せりふの時代」が刊行されたが、その時に読んで、大変な感銘を受けた作品である。

ただ、野田作品の常として、戯曲を読んだときの方が、実際に舞台を観たときよりも面白い。「オイル」なども文藝春秋に掲載された戯曲を読んだ時は興奮したものだが、実際に近鉄劇場で舞台を観たときは、「何か違うな」と思ったものだ。

野田、富田、段田の、「田」トリオは一人が何役も演じ分ける。アドリブがビシバシ飛んでいるのがわかる。
早口でセリフは聴き取りづらいし、アンガスもどうやら何語ともつかない言葉を喋っているようだ。英語だと何を言っているのか観客にある程度わかってしまって、「異」が後退してしまうためだろう。

戯曲を読むと解るが、マーチン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の有名な演説、「Ihave a dream」が用いられている。

ポルトガルの宣教師の来日、鎖国時代の日本、黒船の来航、「鬼畜米英」に至るまでの様々な歴史がセリフ裏にこだまする。
「異」との折り合いの付け方は単に国際的なものではなく、同じ日本人の中での「異」、そして自分の中の「異」にまで及んでいるような深さが感じられる芝居である。

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2020年8月 4日 (火)

美術回廊(54) 大丸京都店6階大丸ミュージアム〈京都〉 「金魚絵師 深堀隆介 金魚愛四季(いとしき)」

2020年7月30日 大丸京都店6階大丸ミュージアム〈京都〉にて

大丸京都店6階にある大丸ミュージアム〈京都〉で、「金魚絵師 深堀隆介 金魚愛四季(いとしき)」を観る。一部写真撮影可。

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深堀隆介(ふかほり・りゅうすけ)は、1973年愛知県生まれ。愛知県立芸術大学美術学部デザイン・工芸専攻学科を卒業し、画家としての活動を始めるが、2000年に制作に行き詰まり、「もうアートなんてやめよう」と思った時に、7年間粗末に扱っていた金魚が目に入り、金魚を題材にした作品の制作を始める。深堀はこの体験を「金魚救い」と呼んでいるようだ。

新しいことをしようということで深堀は、樹脂に金魚の絵を描き、その上に更に樹脂を重ねることで立体感と水の中に浮かぶ感じを生み出した。絵画と彫刻の中間にある新しいアートである。

作品であるが、ぱっと見はリアリティがある。だが動かない金魚は死体そのもののようでグロテスクにも映る。
作品の紹介を見ると、深堀は生きている金魚ではなく常に死んだ金魚をデッサンしているそうで、それは弔いの儀式でもあるようだ。

東日本大震災が発生した時には自分の作品では圧倒的な災害の前に立ち向かう術はないと思ったそうだが、金魚の卵を描くことを思いつき、精神的な危機を乗り越えたそうである。

様々な作品を観たが、静止した金魚に確固たる死を与えた上で、その輪郭に生を注ぎ込むような、「間」「境界」の瞬間が捉えられるような気になった。これは生が死に変異した瞬間であり、同時に死から生へと立ち返る刹那の躍動である。日本の美の象徴、特に江戸期以降における庶民的な夏の美の代表格である金魚が持つエネルギーが、日本的な美意識を伴って溢れ出てくるかのようである。

タイトルにもなっている「四季」の金魚作品展示コーナーがある。ここと出口にある立体に見える金魚の絵(1枚目の写真)だけが撮影可である。
四季の金魚であるが、個人的にはやはり夏の金魚が最も魅力的に見えた。私は千葉市の郊外にある一戸建てだらけの住宅地の出身だから、夏祭りの金魚掬いというのはあるにはあったがさほど祝祭性を帯びたものではなかった。が、現実の記憶ではない日本的原風景における金魚の既視感をそこに見出すことになった。

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2020年8月 3日 (月)

これまでに観た映画より(196) 竹中直人監督作品「119」

2005年8月8日

ビデオで映画「119」を観る。1994年の12月に銀座(なのか築地なのか、正確にはよくわからないところにある)の東劇でロードショーを観て、感銘を受けた作品である。竹中直人監督作。主演は赤井英和、鈴木京香ほか。脚本は、「失楽園」の筒井ともみ、劇作家の宮沢章夫、監督である竹中直人の三人が手掛けた。消防隊員の活躍を描く、否、活躍しない消防隊員を描いた映画。

もう20年近くも火事が起きていない波楽里(はらり)という海沿いの架空の町が舞台。何も起こらない町のちょっとした出来事を扱っている。
消防隊員を演じるのは、竹中直人、赤井英和をはじめ、当時は無名だった浅野忠信と津田寛治。当時は今より無名だった温水洋一。映画監督でもある塚本晋也。

あまり映画に出ない人や、本業が俳優でない人も出演している。例えば、岩松了(劇作家・演出家)、周防正行(映画監督)、松岡錠司(映画監督)、昨日観てきたク・ナウカの演出家である宮城聰、佐野史郎の奥さん・石川真希、故・マルセ太郎など。
ちょい役で大塚寧々や真田広之なども出ている。

その他にも「また逢う日まで」の久我美子が出演。また写真のみの出演に「また逢う日まで」の故・岡田英次(久我美子演じる鴨下のおばさんの亡くなった旦那さんという設定。岡田は「119」公開の翌年、1995年に亡くなっている)、「無能の人」で竹中と共演した風吹ジュン(竹中直人演じる津田の亡くなった奥さんという設定)。

撮影当時、26歳だった鈴木京香が実にいい。今、20代で古き良き時代の日本美人を思わせる女性を演じて、これほど嵌まる女優はいない。(これを書いた2005年にはまだ20代だった)松たか子でも無理だろう。
小津安二郎を意識した作品だが(そうわかるように意図的にカメラワークを真似ていたりする)、鈴木京香は「平成の原節子」のような役を振られている。男性の目から見て理想的な女性像であり、当然、男性の目には魅力的に映る。女性がどう思うのかは良くわからないけれど。

鈴木京香の演技を見るだけでも十分に魅力的な作品だが、ところどころに仕掛けられた「大笑いこそしないが、思わずクスッと笑ってしまう」エピソードの数々が心憎い。脚本の宮沢章夫の力も大きいのだろう。
登場人物の心理の描き方も、とても丁寧だ。

 

私が好きなのは、津田(竹中直人)と日比野ももこ(鈴木京香)が二人で夜道を歩くシーン。上から二人を追いかけているカメラが、会話が一段落したところで動かなくなり、遠ざかっていく二人を見送る。ここはラストへの伏線にもなっている。

 

音楽担当は忌野清志郎。「きみの港(肥沃なデルタ)」というスケベな歌詞を持つ歌で笑わせたり、「満月の夜」という歌でしみじみとさせたり。いい音楽だ。

古き良き日本を思わせる風景を探して、ロケハンは入念に行われたそうだ。撮影は静岡県沼津市を中心に、全国各所で行われたという。

淡々とした展開を見せる映画だが、「日本っていいな」と心から思える作品である。

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2020年8月 2日 (日)

これまでに観た映画より(195) ヴィム・ヴェンダース監督作品「東京画」

2005年8月9日

ヴィム・ヴェンダース監督のドキュメンタリー映画「東京画」をビデオで観る。敬愛する小津安二郎監督が描く東京への憧憬からこの街にやって来たヴェンダース監督の目に映る1983年の東京の風景が切り取られている。冒頭とラストは小津監督の「東京物語」のそれをそのまま用いている。

ヴェンダース監督が興味を持つ対象はパチンコ店や、飲食店の前のショーケースに並ぶ定食のサンプルを作る工場など。特にサンプル工場のシーンは見ているこちらが奇妙に感じるほど長い。
ゴルフの打ちっ放しに対する見方は誤解だらけで、おもわず「それは違うだろう」と突っ込みたくなる。

ヴェンダースは東京ディズニーランドに行こうとしたが、「アメリカのコピーだと思うと急に興味が冷めて」引き返してしまう。そして、「アメリカの影響を受けた若者達を見た」として紹介されるのが、当時、原宿に出没していた竹の子族。この辺りは作為を感じてしまって余り面白くない。竹の子族だけで当時の東京を語らないで欲しい。

1983年の東京の風景を見たい人にはやや物足りない作品である。しかし小津安二郎の映画が好きな人は絶対観た方がいい映画だ。
笠智衆や、小津の下で撮影監督を務めた厚田雄春らのインタビューが収められているためで、これを観ると小津という男が俳優やスタッフからいかに敬愛され、神のように崇拝されていたかがわかる。小津の思い出を語っていた厚田が突然、感極まって泣き出してしまうのも印象的。

小津安二郎とは改めて偉大な映画監督、いやそれ以前に偉大な人間だったのだと確認することが出来る。

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観劇感想精選(347) ク・ナウカ 「王女メデイア」2005@びわ湖ホール

2005年8月7日 びわ湖ホール中ホールにて観劇

大津へ。びわ湖ホール中ホールでク・ナウカの「王女メデイア」を観る。エウリピデス作のギリシア悲劇を宮城聰が演出した。
ご存じない方のために書くと、ク・ナウカとは演じ手(ムーバー)と語り手(スピーカー)を分けた演劇スタイルを特徴とする東京の劇団である。関西で公演を行うのはこれが初めてだそうだ。

昨夜、ちくま文庫の「メデイア」を読んでいったで、比較が容易である。

前半部分はメデイアの内面告白を中心に再構成されている。主人公メデイアのムーバーは看板女優の美加理(みかり)、スピーカーは阿部一徳。

開演前から紗幕の前に老女(のちに乳母であることがわかる)が座り、ポテトチップを頬張っている。ほどなく紗幕が透け、着物を着て紙袋をかぶり、自分の顔写真を持った女性達が立っているのが見える。そして、客席後方の入り口からスピーカー達が賑やかに入ってきて、舞台に上がり、役を振り当てられる。スピーカーの男達の入場は皆が思い思いに喋るのでうるさすぎてちょっと興醒めではある(男達が俗物であることを示すためにやっているのはわかるけれど)。メデイアが登場し、語り手がしっかりとしたセリフを話し始めると引き込まれる。今回はムーバーは一人を除いて全員女性、スピーカーは全員男性が務める。ムーバーの女性は和楽器やボンゴなどの演奏も手がける。

メデイアのムーバー、美加理は朝鮮の民族衣装(チマ)を纏っている。座るときも立て膝であり、完全に朝鮮の女性であることがわかる。
舞台は明治時代の日本。番傘に明治天皇の御影が描かれ、舞台には巨大な日章旗が敷き詰められている。中央やや下手寄りに本を差し込めるようになっている塔が立つ(終演後の宮城のアフタートークにより、どうやら男性のシンボルらしいことがわかった)。
セリフでは「ギリシア」といっているがそれが日本のメタファーであることは明白だ。

閔妃や愛新覚羅溥儀などの歴史上の実在の人物が劇中の人物に重なって見えるところがある。虐げられた女性の姿が虐げられた国家の様にオーバーラップする。
愛するわが子をメデイアが殺す場面は、宮城の演出と美加理の動きに表出力があり、「愛のために殺す」、「愛するが故に殺す」という哀切さがにじみ出て、惻々と胸に迫る。

後半、特にメデイアが子供を殺すかどうか逡巡する場面以降はテキストレジをせず、ほぼそのまま語らせている。ただ、メデイアが龍に乗って現れる場面にメデイアは現れず、代わりに中央の塔が揺らぎ、本が落ちてくる(本が何を意味しているのか良くわからなかったが、アフタートークで宮城が、男性の「言葉による支配」の象徴として用いた、という意味のことを述べていた)。そして真っ赤なドレスに着替えたムーバー達がスピーカーの男達を次々に斬り殺していくという大殺戮シーンとなる。
「赤」に象徴的な意味があるのかどうかは正確にはわからない。女性的な色であり、映える色である。ただ国際政治的な意味があるとすると、怖さは一層増す。
ただ、色の意味のあるなしに関わらず、虐げられ、支配されてきた女性達が赤いドレスを纏って、支配者側の男性に一斉放棄を仕掛け、皆殺しにしてしまう様には鬼気迫るものがあり、残酷な美の迫力に満ちている。


アフタートークには宮城聰、美加理、阿部一徳が参加。びわ湖ホール夏のフェスティバルプログラムディレクター・志賀玲子氏(実際に教わったことのある師の一人)の司会により興味深い話を聴くことが出来た。

びわ湖ホールの裏に出て、琵琶湖沿いに歩く。夏の琵琶湖は涼風が湖面を渡り、実に清々しい。ジェットスキーが波を切り裂き、ヨットのマストが遠くに漂っているのが見える。「夏だなあ」と妙に感心する。

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2020年8月 1日 (土)

サザンオールスターズ 「夏をあきらめて」

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これまでに観た映画より(194) 「無伴奏シャコンヌ」

2005年7月9日

ビデオでフランス=ベルギー=ドイツ合作映画「無伴奏シャコンヌ」を観る。天才的な才能を持ちながら、コンサートなどでは活動せず、ただひたすら音楽を極めることだけを考える求道者のようなヴァイオリニスト、アルマン(リシャール・ベリ)。観客に媚びるような演奏ではなく、本当の演奏様式を確立したいと望み、ヴァイオリン教師などをして過ごしていた彼は、かっての親友でヴァイオリニストのミカエルが自殺したことを知る。

恋人とも上手くいかず、親友も失ってしまったアルマン。彼の求道的生き方がそういった事態を招いたのだろうか。スランプに陥っていたミカエルはアルマンの才能と己の才能を比較して失望していったのかも知れない。ミカエルの録音が良くないことで、カデンツァの場面を代役として弾くようにプロデューサーから要請され、それに応じてしまったアルマン。親友のためを思ってした行為なのだろうが、その事実を知ったミカエルは絶望しただろう。ある意味、アルマンはミカエルを殺したのではないかと思えてしまうのだ。

リヨンの地下鉄構内で演奏をするアルマン。やがて、地下鉄の切符売り場の女性・リディアと淡い恋に落ちるが、ある日、アルマンの演奏に熱狂して多くのミュージシャンが思い思いに演奏を始めるという光景を目にした彼女はアルマンの前から姿を消す。アルマンは自分より音楽を愛しているのだと気づいたのかも知れない。

リディアを失い、ヴァイオリンも心ない二人組に壊されてしまったアルマンは尋常とは思えない精神状態へ。

そこにかつて彼の演奏を耳にしたことのある音楽院の教師が現れ、ヴァイオリンを手渡されたアルマンはバッハのシャコンヌを弾く。

芸術を愛し、自分にもそして他人にも厳しかったことで多くのものを失ったアルマン。ラスト10分のシャコンヌ演奏場面は文学的過ぎる嫌いはあるものの、詩的で意味深く、感動的だ。

そして弾き終えたアルマンの表情。それは慈悲に溢れたキリストの顔のようにも見えるし、何故失うのかを悟った悲しみを湛えているようにも見える。


監督のシャルリー・ヴァン・ダムはアラン・レネやアニエス・ヴァルダなどセーヌ左岸派の映画監督の下で長年撮影監督を務めていた人物。経歴から察せられる通りの作風を持っている。

リシャール・ベリのヴァイオリン演奏シーンの演技も上手く、「本当に弾いているのでは?」と錯覚するほどだ。ところでこのベリ、役所広司にどことなく顔や雰囲気が似ている。

音楽監督は世界的ヴァイオリニストのギドン・クレーメル。実際のヴァイオリン演奏も担当しており、素晴らしい音を奏でている。

音楽と映画が好きなら、この映画を観ずに死ぬのはもったいない。そう言いたくなる佳作である。

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