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2020年8月25日 (火)

観劇感想精選(349) こまつ座第133回公演「人間合格」@名古屋・御園座

2020年8月18日 名古屋・伏見の御園座にて観劇

名古屋へ。伏見(京都だけでなく名古屋にも伏見という駅がある。江戸時代の初めに京都の伏見から移住した人が作った街だと思われる)の御園座で、こまつ座の第133回公演「人間合格」を観るためである。作:井上ひさし、演出:鵜山仁。出演は、青柳翔、塚原大助、伊達暁(だて・さとる)、益城孝次郎(ますき・こうじろう)、北川理恵、栗田桃子。

昭和を代表する小説家の一人である太宰治の、主に若き日々を描いた作品である。
兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールでの公演もあったのだが、その日は仕事が入っていたため、大千秋楽となる御園座での公演を選んだ。御園座に入ってみたいという気持ちも当然ながらあった。名古屋に行った時は、御園座の前を通ることも多かったのだが、今日が念願の初御園座となる。

名古屋を代表する劇場である御園座。名古屋で歌舞伎の公演となると使用される劇場である。長らく建て替え工事が続いていたが、2017年に新しい御園座が竣工し、翌2018年に開場している。

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客席はソーシャルディスタンスに配慮した席割りが行われていたが、何故か二人並ぶ席があったりする(友人、知り合い、夫婦等で並ぶ席かと思ったのだが、必ずしもそうではないようだ。私の横の席も誰かが座れる仕様になっていたが、結局、誰も座らなかったため、全くの他人が横に来るということもないようだったが)。歌舞伎対応の劇場であり、花道使用時に歌舞伎俳優が同じ階の客から見下ろされては困るということで、1階席の傾斜は緩やかである。私は下手側の席であり、客が点在しているという、平時ではあり得ない状態であったため問題はなかったが、中央列で満員の場合は、前のお客さんの頭で舞台が見えないということもよくあるようで、評判は良くないようだ。
赤を基調にした内装で、椅子も座りやすい。

座るのは1階席であるが、一応2階も覗いてみる。階段が安普請でがっかりしたが、エスカレーターを使う人が多いので、特に問題にはならないのだろう。ロビーの壁には絵が飾られていて雰囲気は良い。

前の御園座はよく知らないのだが、新しい御園座は奥行きよりも間口が広い設計で、ポストモダン(という言葉ももう古くなってしまったが)な外観もそうだが、内装も昭和の頃の公会堂のようであり、歌舞伎劇場らしくない。やはり歌舞伎座、南座、大阪松竹座といった歌舞伎専用の劇場とは違うということなのであろう。

入場前に配られた紙に、氏名、住所、電話番号を記入し、検温を受ける必要がある。スティックタイプのハンディアルコール除菌スプレーを貰った。

「人間合格」というタイトルは、太宰の代表作である『人間失格』に由来するのだが、降りた幕に、『人間失格』の太宰による肉筆原稿が描かれており、冒頭の「私は、その男の写真を三葉、見たことがある」までが記されているのだが、劇はそのパロディのセリフ、「私は、その男の写真を六葉、見たことがある」でスタートする。六葉のうち二葉は実際の太宰治の写真だが、他の四葉は今回の「人間合格」で太宰を演じる青柳翔を撮ったものである。六人の俳優が六葉の写真について一人一葉ずつ説明やら解説やらを行い、印象を述べる。

そして舞台は、昭和5年(1930)の高田馬場の近くにある学生下宿、常盤館に飛ぶ。

常盤館に下宿することになった津島修治(のちの太宰治。演じるのは青柳翔)が現れる。
津島修治は旧制の弘前高校(現在の弘前大学教養課程に相当)を出て東京帝国大学(現在の東京大学)文学部仏文科に入学したばかり(ほとんど登校せず、1単位も取らないまま中退することになる)。そこへ、共産主義思想に共鳴している二人の学生が現れる。同じ東京帝国大学の経済学部に通う佐藤浩蔵(旧制山形高校出身。塚原大助)と早稲田大学文学部に通う山田定一(旧制麻布中学出身。伊達暁)である。二人はフロシキ劇団なるものを結成していて、町工場や百姓家の前でフロシキを拡げ、反ブルジョア親プロレタリアのプロパガンダを行っている。
津島も反ブルジョアであり、共産主義思想に共感を抱いて革命に憧れているのだが、彼は津軽でも五本の指に入る大地主の出であり(ただし名家ではなく成金)、行動に矛盾が生じてしまう。とにかく仕送りはたっぷり貰っており、ブルジョア階級の出身であることの恩恵を浴びるほどに受けている。

ただあるいは、太宰治が恵まれた境遇に生まれていながらそれに逆らうように生きたということが、太宰が今に至るまで人気作家で居続けるという理由なのかも知れない。

セリフには太宰の有名小説のよく知られた言葉やそのパロディが登場する。特別人気のある俳優が出演するわけでもないのにこんなコロナ禍の最中に観に来ているということは、客の多くは太宰のファンであり、「待ってました!」とばかりに笑いが起こっていた。

その後、前衛党の隠れアジトである高田馬場の「クロネコ」という喫茶店で女給をしている東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)の学生で、前衛党の高田馬場支部長である立花すみれ(北川理恵)と出会い、前衛党に入党する津島であったが、そこに津軽から中北芳吉(益城孝次郎)が訪ねてくる。中北は津島家の番頭の一人であるが、その後に帝国主義的思想にかぶれていく。

第3場の「タワシ」の前では、字幕によって治安維持法について触れ、「ひとはみな同じ」そう思うだけで非国民とみなされたと説明される。

津島は日本共産青年同盟直属のタワシの行商を行うようになったが、現実的な仕事には全く向いておらず、タワシを川に投げ捨ててしまい、口では売れ行き上々で毎日完売ということにしている。はっきり言って駄目人間である。とにかくあらゆることから失格している津島であるが、それゆえ高みから居丈高に見下ろしてくる人間の醜さと、煩悶する己の魂を見据えることが出来るようになったと取ることも出来る。

やがて軍人の時代が来る。軍人にあらねば人にあらずという時代である。そんな時に作家、太宰治となった津島修治は東京武蔵野病院という精神病院に入院させられていた。
そこに佐藤がやって来る。地下活動に身を投じた佐藤は特高に追いかけられ、東京武蔵野病院に逃げ込んだのだ。佐藤はこだわりが強く、これまでずっと「あか」で始まる地名(赤池炭鉱や赤城村、そして今の東京・赤羽など)での活動を続けてきた。ちなみに赤池炭鉱で偽名として用いたのが大庭葉蔵だそうである。佐藤は太宰の処女小説集『晩年』を手にしていた。

佐藤は言う。「だめなやつ、普通の人びとはみんな、自分のことをそう思っているわけですよ」。そして自分と同じだめな奴が小説の中でのたうちまわっている。自分と同じ人間がいることに励まされる。それが太宰の小説の本質だと見抜く。
その後も佐藤の流浪は続く。

一方、山田は売れっ子の俳優になっていた。軍事劇を演じさせれば天下一品であり、日本各地で人気を博していたが、山田がセリフに込めた思いは聴き手には正反対に受け取られており、孤独を感じていた。
仙台で再会した太宰と山田と佐藤。太宰は仙台の医学校で学んでいた魯迅の「藤野先生」の話をする。「宝石よりもっとずっと尊い出来事」の話だ。

日本は敗戦を迎える。昭和21年4月、太宰は故郷の金木町にいた。長男の文治が政治家に立候補するため、その応援として山田定一の劇団を金木町の劇場に呼んだのだ。敗戦により、全ては変わった。山田の人気は凋落した。今はアメリカ軍を賛美する芝居を上演しているが本意ではない。中北も変わったが、かつての軍国主義者が180度方向転換して民主主義を礼賛するようになっている。

中北こそがまさに人間だ。「わが身が可愛いだけ」で起用に立場や思想を変えて生き延びる。汚らしいが、生き残る。今は「ひとはみな同じ」それが当たり前の時代になったが、それを信じ続けてきたがために駄目になった太宰や佐藤や山田はなんなのかということである。

その後、佐藤と山田は時を同じくしてこの世の表舞台から消えることになる。

 

太宰、佐藤、山田、不器用な男達の小さな宝石のような友情が語られる作品である。全員、学生時代まではエリートコースに乗りながら、信念のために人生に失敗した男である。だがそれゆえに惹かれあい、少なくとも太宰治は後世の人からも友人のように慕われる存在である。人間としてのある格から転げ落ちたからこそ別の人間の格に嵌まることになった。セリフに出てくる「アウフヘーベン」ではないかも知れないが、彼と我々とは高次元で結ばれることが出来るのである。「合格」つまり「格が合う」ということによって。

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