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2020年8月24日 (月)

これまでに観た映画より(201) 太田隆文監督作品「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」

2020年8月20日 京都シネマにて

京都シネマでドキュメンタリー映画「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」を観る。太田隆文監督作品。太平洋戦争において住民を巻き込んだ唯一の地上戦となった沖縄戦を、体験者12人・専門家8人へのインタビューとアメリカ軍が記録用に残した映像などを中心に描く。ナレーション:宝田明&斉藤とも子。この頃、なぜか斉藤とも子出演作を観ることが多い。企画・制作:浄土真宗本願寺派(西本願寺)。

大東亜共栄圏を掲げて、アメリカ、イギリス、中国、オーストラリアなどと戦った大日本帝国であるが、中国戦線やインドシナ戦線が泥沼状態となり、対米戦もミッドウェー海戦で敗れて以降は連戦連敗を重ね、本土決戦を決意する。その前哨戦の舞台となったのが沖縄である。ただ「沖縄は捨て石」という言葉がよく知られるように、日本軍にとって沖縄戦は本土決戦の準備のための時間稼ぎであり、少しでも多くアメリカ兵に血を流させて弱体化させるための手段でしかなかった。米兵が沖縄に上陸する前からすでに軍部から「沖縄は諦める」という話が出ていた程である。米軍も日本本土での戦いを視野に入れ、日本の文化や歴史などについて撤退した調査を行っていたが、「日本と沖縄は同一文化圏と見て良いが、日本人は沖縄人を差別している。沖縄人というのは少数派民族のようだ」という情報を得ており、「これは使える」と、分断作戦も念頭に置いての戦いだった。

アメリカは54万人を超える兵士を沖縄に上陸させたが、迎え撃つ日本軍の兵の数は11万人ほど、人数の時点で圧倒的に不利である。しかも参謀本部はあくまで日本本土での決戦の準備を優先させているため援軍も望めない。ということで民間人を戦場に駆り出すことになる。男子は14歳から70代までを兵士として、女子も若ければ女子挺身隊として救護活動に回される。結果、老人、母親、子どもが家を守ることになるのだが、これがまた悲劇を生む。

1944年8月22日、沖縄の子ども達を乗せた疎開船・対馬丸が米軍によって撃沈される。対馬丸に乗っていて助かった女性の証言もある。当時は状況が分かっておらず、「本土に行けば雪が見られる」などと行楽気分であったそうだが、対馬丸に乗っていた日本兵が乗員を甲板に集め、「今夜は危ない」と言ったところから不穏な空気が漂う。

沖縄の人々は日本軍を「友軍」と呼んでおり、親しみを持っていた。沖縄の子ども達の将来の夢は、「立派な兵隊さんになること」だった。だが、実際に戦が始めると、日本軍は沖縄の人々を助けるどころか、逆に死へと追い込むなど、「沖縄は敵」とまではいかないが味方とは思っておらず、当てにならないことがわかる。
沈みゆく対馬丸のマストに上って、「兵隊さん、助けて!」と叫んでいる母親がいたそうだが、日本兵は助けるどころか子ども達を海へと放り込んでいたそうで、「同じ日本人ではない」と思っていたことがわかる。
米軍は、対馬丸が疎開船であることは把握していた。その上で撃沈した。逃げ道を与えない作戦であったと思われる。

1945年3月28日、渡嘉敷島で集団自決が起こる。前日に米軍が渡嘉敷島に上陸したばかりであった。島民の男性には手榴弾が一人につき2つずつ渡されていた。軍部からは「アメリカ兵を見たら1つ投げつけろ、それでも駄目ならもう一つで自決しろ」と厳命されていた。
自決とはいえ、この自決は強制されたものであったことがわかっている。

琉球処分以降、沖縄では徹底した軍国主義教育、皇民化教育が行われており、ウチナーグチではなく日本の標準語で話すことが求められた。日本に取り込まれたわけであるが、これが沖縄人が自ら魂を蔑ろにし、「日本国のために死ぬ」という精神に染まっていくきっかけとなった。発想自体が大和民族そのものとなり、自分自身で考えないようになる。

「死して虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓(最終校閲を行ったのは島崎藤村である)を常日頃から頭に置き、「アメリカが来たら、男はみんな戦車に弾かれ、銃剣で刺されて死ぬ。女はみんな強姦される」という言葉を信じ、ガマ(洞穴)での集団自決が起こった。男はみな戦場に出ていたため、籠もっていたのは老人、母親、子どもだけだった。読谷村のチビチリガマで「娘を米兵に強姦されたくない」と思った母親は、娘を自らの手に掛ける。ただ、子ども達がみな苦しみ抜いて死ぬ様を見た母親達は自決するつもりが怯えてしまい、結局、生き残ることになった。生き残った母親達は証言者の役割を果たすことになる。現在では集団自決というのは適当でないとして、「強制集団死」と呼ばれるようになっているようだ。実際、集団自決とされてきたものは日本軍が駐留している場所でのみ起こっている。

実際の米軍はイメージ戦略を用いており、女性や子どもには優しく、食べ物やお菓子などを与えてくれたそうである。
チビチリガマのすぐそばにある読谷村のシムクガマでは、約千人が隠れていたそうだが、その中と付近にハワイで学んだ経験のある老人が二人いた。一人はハワイの学校の夜間部で本格的に英語やアメリカ文化などを学んだ経験があり、アメリカ人がやることを知悉していた。結果として投降が成功し、犠牲者は一人も出なかった。

ハワイで学んだ老人は、沖縄に帰ってからも家にエイブラハム・リンカーンの肖像を飾っていたそうだが、日本の軍国主義ではアメリカの民主主義に勝てないと見抜いていた。

エイブラハム・リンカーンは、南北戦争時の大統領であるが、この内戦で北軍司令官のウィリアム・シャーマンは南部に対して徹底した焦土化作戦と無差別殺戮を決行し、今に至るまで南部の人々から恨まれるという結果になった。第二次大戦でもウィリアム・シャーマンの名を記念した俗称「シャーマン戦車」への搭乗を拒否する南部出身者が続出している。同じ轍を踏むわけにはいかない。日本に対する戦後交渉を有利に運ぶ必要もあっただろうと思われる。日本軍とアメリカ軍の沖縄に対する態度の違いを見せつけ、沖縄人の戦意を喪失させる狙いもあったかも知れない。

米軍は沖縄本島に上陸したのは、1945年4月1日。読谷村(よみたんそん)の渡久地ビーチにおいてであった。日本軍は全く反撃しなかった。読谷村は、現在は嘉手納基地となっている中飛行場に近く、ここを抑え、空路を確保するのが目的であったが、反撃がなかったため楽々と制圧した。

米軍は、県都である那覇を目指す。首里城の地下に陸軍の司令部が置かれていたためだ。
日本軍が上陸後すぐに戦闘行為に出なかったのは、那覇へと向かう途中で待ち受け、米軍にダメージを与えるという目的があったはずである。日本軍は嘉数高地の要塞に陣取り、当初の米軍の進撃予定を40日以上も遅らせるという激戦を展開。首里城での攻防では敗れるが、今では那覇の都心となっている安里52高地(シュガーローフ)での激戦でも米軍に大打撃を与える。しかしこれらはあくまで、「本土決戦の準備を進めるための時間稼ぎ」であり、沖縄のための戦いではなかった。


私が沖縄に本格的に興味を持つきっかけを作ったのは坂本龍一である。矢野顕子と共に最初に沖縄に注目したアーティストである。中学生の頃に買った「BEAUTY」というアルバムでは沖縄の音楽をいくつもカバーしており、ネーネーズなど沖縄のミュージシャンとも共演している。坂本はインタビューで、「日本は単一民族だと思われているけれどそれは違う。最も身近にある異質なるものである沖縄を突きつける」というようなことを語っていたように記憶している。その後坂本は、山梨県出身ではあるが沖縄戦の悲劇を伝える「島唄」を作詞・作曲した宮沢和史とも一緒に仕事をしている。

というわけで、沖縄に対しては「リゾート」や「観光地」というイメージではなく、歴史から入っていたわけであるが、それでもこの映画で語られた多くのことを知らなかったわけで、「知ること」の難しさを覚える。沖縄戦を描いたドラマや映画、楽曲などは存在するが、どうしても情緒的側面が強くなるため、リアルに見つめる機会はなかなか得られない。受け身でなく取りに行く姿勢が必要であることを強く感じる。


若い頃から、教育に関して興味は持っていた。私が生まれ育った千葉県は「管理教育」の牙城であり、教師に良い印象を抱いていなかったということもあるが、「受験のためや役立てるためでない学問」を大学時代からずっとやってきたことも影響している。
「教育熱心」「教育を重要視」というといかにも良いことのように思われるが、教育というのは洗脳であり、自由な思考を奪うことにも繋がる。

渡嘉敷島で強制集団死があった時、その頃はまだ小学校1年生だった男性も手榴弾を使って自決しようとした。だが、手榴弾は不発。2発貰っていたのでもう一つを使うもこれまた不発。そこで大人から「火を焚いて手榴弾を中に入れろ」と提案される。その時、身を挺して男性を救ったのは実の母親だった。男性は母親のことを「無学だった」と語るが、教育を受けていなかったからこそ「死ぬのが当たり前」という発想にとらわれていなかったと見ることも出来る。

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